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第2話 黄金の檻

お腹がすいたんです!そうお腹が!

 冬がゆっくりと剥がれ、石畳の隙間に濁った水の筋が走る頃、屋敷は朝からやわらかな音で満ちていた。

 母はいつもより早くクラヴサンの蓋を開き、鍵盤に手を降ろした。

 最初の和音は光のように明るく、二つ目は光の下に敷かれた薄い影を撫でた。

 三つ目の和音が鳴ったとき、エミルは机上の紙から顔を上げた。

 音は確かに美しいはずなのに、どこか一音、目に見えない針の先で押されたみたいに、わずかに疼く。


 母は気づいていた。指先のわずかな躊躇いで、音を丸くする。

 丸くされたものは痛みを消すはずだが、その丸さ自体が痛みの形だと、彼は学び始めていた。


「ここ、どうして少しだけ悲しいの?」


 言葉はまだ拙い。

 彼は机に広げた薄い詩集を指差し、読み取れない形の連なりを目で撫でた。

 母は微笑み、鍵盤から手を離す。


「悲しい、というよりも——お願いしている音、かしら。聞いてほしいという音」

「神さまに?」

「ええ。あるいは、あなたに」


 母はふたたび鍵盤に向かい、今度はゆっくりと、一音ずつ置いていく。

 置かれる音の間に休みがある。

 休みの間に、聞こえない音がある。

 エミルはその聞こえない音に耳をすます。

 耳をすますほど、頭蓋の内側で壁の線が浮かび、壁の角で何かが擦れる。

 擦れる音は、祈りの言葉の最後の音節に似ている。

 似ているが、微かに濁る。


 机の上には、昨日と同じインク壺と羽根ペン。

 ニスの匂いは薄まり、代わりに紙の繊維の乾いた匂いが強くなっている。

 彼は母の音を背に、羽根ペンを取る。

 ペン先が紙に触れたとき、掌の印が温度を持つ。

 温かいのではない。熱くもない。

 火の手前、金属のそばに手をかざしたときの空気の温度。

 皮膚に触れないのに、肌が知ってしまう温度。


 彼は手を止めた。掌の印に目で触れる。

 薄い曲線は、やはり薄いままそこにあった。

 だが、薄さの中で脈がひとつ、確かに動いた。


「どうしたの?」


 母は鍵盤から目を上げた。

 エミルは小さく首を振り、ペンを持ち直す。

 詩集の一行を真似るように、見よう見まねで文字を綴る。

 綴った瞬間、胸の内で鐘が鳴った。

 鐘は低く、遠い。屋敷の柱時計でも、大聖堂でもない。

 もっと野外にある、風に吹かれた鉄のような音。

 音に合わせて、脳裏に赤い点が走る。

 点はすぐに線になり、線は形になる。

 焦げた縁の十字。くぼみ。滴。


 ——だめ。


 彼は心の中で呟き、紙から視線を外す。

 母の音に戻る。音はさっきよりも柔らかく、彼を疲れさせない。

 疲れさせない優しさは、彼の肩を下げ、呼吸を深くする。

 胸の中の鐘は、やがて遠のき、印の温度も収まる。

 母はそれを見て、小さくうなずいた。


「今日のあなたは、よく聞こえているのね」


 ——聞こえている。

 音の奥に、祈りでも歌でもない、別のものがある。

 音に隠れているのに、音よりも大きい。

 彼はそれをまだ名前では呼ばない。


 午前の稽古が終わると、屋敷には来客が続いた。

 白光教会の小さな使い。王都からの書記官。隣領の伯爵夫人。

 皆、同じような言葉で彼を褒め、同じような視線で彼を測る。

 褒められるということは、身体の上に薄い壁ができることだと、エミルはゆっくり学ぶ。

 壁は透明で、音は通すが、温度を通さない。


「まあ、なんて清らかな子。まなざしが澄んでいること」


 伯爵夫人の声は甘く、口元は微笑んでいる。

 だが眼差しは、彼の額の上——見えない冠の位置に固定され、そこから一歩も動かない。

 その視線は、飾り物の種類と重さを測る秤に似ている。

 母は礼儀正しく微笑み、お茶の香りを少し強くして空気を整えた。

 整えられた空気は息がしやすい。

 だが、整えられたままでいる時間は、彼の胸に何かを沈める。


「祝福者は神の器。器は磨かれてこそ器」


 書記官は軽く頭を下げ、紙束を置いて去った。

 置かれた紙束は白く、縁が真っ直ぐすぎた。

 真っ直ぐな縁で、彼の視界の端が切れた。

 切れた隙間から、色が漏れる。濃い赤と、煤の灰。

 その灰は、母が昼に焚いた小さな暖炉の灰に似ている。

 似ているのに、匂いが違う。


 来客の合間、母はエミルの肩にショールを掛け直した。

 薄い羊毛は温かく、肩に重さを与える。

 重さは落ち着かせる。

 落ち着くことが可能なら、彼はまだ子どもだ。


「さあ、少し庭へ出ましょう。空気が硬くなってしまったわ」


 硬くなった空気は、庭の湿った土と若い草の匂いでほぐれた。

 葡萄棚の影は短くなり、枝先からは小さな芽が出始めている。

 エミルは地面の小石を指で弾き、石の跳ねる音を聞いた。

 音は近く、すぐに消えた。

 消えた場所に、別の音が来た。遠い鐘。

 耳の奥ではなく、どこか足元から聞こえる。

 母は気づかない。

 彼は石をもう一つ弾き、今度は音が消える前に、低く歌うように呟いた。


「神さま、僕はここにいるよ」


 自分の声は小さく、土に吸われ、葉の裏で眠る虫の呼吸に混ざった。

 返事は来ない。

 返事が来ないことは、恐怖ではなく、習い事の一部のようになりつつあった。


 夕刻、母は彼に小さな聖像を見せた。

 白光教会の象徴——白い石で彫られた小さな人物像。

 片手は胸に、もう片手は掌を広げて下へ。

 受け入れと与えることの形。

 像の足元には小さな言葉が刻まれている。

 母が指でなぞると、粉のように白がこぼれた。


「これはね、最初の祈りの形よ」


 エミルは像を覗き込む。石の眼は彫りが浅く、見る角度で表情が変わった。

 角度を変えると、今にも涙がこぼれそうに見える瞬間があった。

 息を止める。次の瞬間、涙はただの陰影に戻り、像は静かだった。


 母は微笑み、像を布に包んで箱に戻す。

 そのわずかな間に、エミルはほんの短い眩暈を覚えた。

 石の眼に、炎の色が映った気がしたのだ。

 一瞬。次の瞬間には何もない。

 母が箱の蓋を閉める音がして、部屋はふたたび、彼の知る温度に戻る。


「祈るときは、ここを思い出して」


 母は彼の胸に手を当て、次に額に触れた。

 触れられた場所から温度が広がる。

 温度は彼を安心させる。

 安心が広がるとき、遠くで、硬い音が一度だけ鳴った。

 鍵の音。今度は遠い。遠いから、怖くない。

 怖くないのに、記憶はする。

コーラ買ってきました!


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