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第11話 父の帰還そして軍神の掌

アボカロ

朝の冷気が回廊を満たしていた。磨かれた石の床は白く硬く、足音を吸い込まず、音をそのまま空へ押し返す。いつもと違うのは、音の間だった。使用人たちの足取りが、まるで同じ太鼓の稽古を受けたかのように揃っている。廊下の隅に立つ若い兵は、背筋をやや張りすぎて、肩甲骨が外套の下で尖っていた。彼らの緊張は、家の空気の粘度をわずかに上げる。息を吸うと、冷気だけでなく命令の匂いまで肺に入ってくる気がする。


 門が開くという報せは、鐘ではなく、馬の鼻息と金具の鈍い衝突音で届いた。エミルは玄関の階段の下に立ち、喉の奥が乾くのを感じながら、両の掌を裾でそっと拭った。昨夜、祈祷室で結び直した祈りの紐には短い言葉だけが揺れている。「わたしに嘘をつかせないでください」。字は幼く短い。短いのは、風に揺らすために軽くするため。長い言葉はすぐ重くなって、窓辺で黴びてしまう。


 開いた門から、黒い外套の列が見え、最後にひときわ背の高い男が現れた。銀の鋲、落ち着いた革、泥の跳ね。甲冑の鳴りは控えめで、しかし確かだ。男は馬から軽く降り、兜を片手に持って一歩だけ前へ出る。陽光に濡れた額は広く、短く刈られた髭は規律の線を描いている。眼は灰色——冷たく計る色だが、その奥にはわずかに日常へ戻ろうとする湿りがあった。戦場の者が、家の空気へ自分を馴染ませるときに必要な、薄い水気。


 彼は戸口で立ち止まって言った。


「エミル・ド・ロートだな」


 初めて耳にする父の声は、低いが無理に低くしていない、道具に合わせた音程のようだった。エミルは一歩前へ出ようとして、靴底が石を擦る音だけが先に出た。声は喉の奥で引っかかる。礼の定型を思い起こす前に、父は膝を折り、少年と視線の高さを合わせた。甲冑の継ぎ目が一度だけきいと鳴り、指が少年の頭に**“置かれた”**。撫でない。押しつけない。所有を確認する手。


「よく育った」


 それだけ言うと、父は立ち上がった。許しでも賞賛でもない——現状の点検。従者たちが半歩退き、屋敷は一瞬だけ広く見えた。広さは尊厳の演出になる。尊厳は秩序を呼び、秩序は恐れを作る。恐れは人を早く動かし、間違いを少なくする。軍の論理だ。


 父——アルマン・ド・ロート伯は、客間ではなく母の部屋に向かった。老女マルグリットが戸口で止めようとしたが、伯は首を一度横に振るだけで、扉は自然と開いた。死者の部屋は、家の秩序の最後の砦だ。足を踏み入れるだけで、埃は理由もなく意地を張って舞い上がらない。カーテンの縁が日差しを裂き、床の節に濃い影が映る。箪笥の引き出しから小箱が取り出され、伯はそれをエミルへ差し出した。中には白磁のロザリオ。指先に触れた瞬間、ひやりとした陶の冷たさが脈と混じる。珠をひとつ転がすと、乾いたコトという音が、少年の耳に短い綱を投げた。


「おまえの母は数える祈りが上手かった」と伯。「数えすぎると祈りは石になる。だが、戦場では石を積む必要がある。覚えておけ」


「はい、父上」


 父上。初めて口にした語は、舌の裏に砂粒のような重さを残した。言葉は喉を通り、胸の空洞で転がり、形だけを残す。伯はそれ以上は何も言わず、老女に短く命じた。「夕刻に聖職者を呼べ。印の検分をする」。教会の語で言えば定期の儀礼、軍の語で言えば点検だ。


 その日から家は、戦の家の歩き方を思い出した。門衛の交替は刻みが短くなり、倉には油と乾パンが積まれ、鍛冶場では宵にも火が消えない。廊下を渡る足音は、鐘ではなく軍靴が時を刻む。布の折り目は直角に整えられ、食卓の椅子の位置は角度まで統一された。自由が消えたのではない。自由が置き場所を指定されたのだ。


 驚いたのは、初夜に父がアデルと修道女を客間へ招き入れ、礼節を尽くしたことだ。父の手の甲に浮かぶ細い古傷が、杯の影に消えたり現れたりする。アデルは院の子どもの熱のこと、窓辺の祈りの紐のことを話し、父は遮らずに耳を傾けた。やがて父はこう言った。


「祈りは布だ。織る者が尊い。だが、時には裂く者が必要になる」


 アデルは笑わなかった。裂く祈り、という言葉は、祈りを武器に転用する意志を隠しもしない。父の眼差しは柔らかい。しかし、そのやわらかさは鞘の革に似ている。手に優しいが、中にあるものを柔らかくしてはくれない。


 翌朝、父はエミルに一振りの模擬剣と一冊の薄い冊子を与えた。表紙には墨で「祈戦術の基」とある。教会が禁じる魔術ではない。祈りの構文を剣の構えと同じ拍で整えるための訓練書。章立ては「呼吸」「拍」「距離」「誓い」。剣の初学と同じ字が並ぶのが、不思議で、そして恐ろしい。祈りは息であり、息は秩序であり、秩序は勝利に似ている——父はそう言って、エミルの胸の空洞へ**“薄い蓋”をかける方法を教えた。蓋は目に見えない。だが、呼気のリズムが変わり、いんの周囲に留め金**のような感覚が生まれる。祈りがこぼれにくくなり、こぼれたときの重さが増す。


「戦では薄い蓋が命を守る。だが家では蓋は薄いほど良い。使い分けろ」


「はい」


 父は続けた。「剣は向きを持つ。自分へ向ければ鍛錬、他者へ向ければ責任、祖国へ向ければ代償。代償なしに勝利はない」


 エミルは剣を胸に当て、そっと自分へ向けた。布越しの冷たさが、胸骨の奥で静かな輪を作る。遠巻きに見ていたアデルの睫毛が一度だけ揺れ、リュカのつま先が土へ半寸沈んだ。老女は台所でスープをかき混ぜる手をわずかに止めた。


 午下がり、父はギヨームを呼んだ。家庭教師は丁寧に礼をし、教科目や進捗を整然と述べた。父は頷きもせず、ただ聞き終えると「下がれ」とだけ言った。その日の夕刻、ギヨームの部屋から荷が運び出され、彼は理由も告げられぬまま屋敷を去った。辞令も罰もなく、いなくなった。誰もその理由を口にしない。エミルは、言葉がなくても救済がありうることを初めて知った。あの夜、扉を叩く低い声があった。助けは形ではなく、方向で現れる。


 代わって翌日、父は古参の軍曹と、聖句の読み手を伴い、学びの体制を切り替えた。軍曹は実戦の型を、読み手は聖句を拍で刻む方法を教える。振り下ろしの一拍手前に吸い、踏み込みの瞬間に言葉を落とす。「守れ」ではなく、「届け」。「許せ」ではなく、「裁け」。言葉は刃へ、刃は言葉へ、互いの形に鋳込み直される。それは危うく美しい。危うさは美の骨だ。エミルはその骨を指先に感じ、胸の奥がひそかに熱を帯びるのを恥じた。祈りは清いはずなのに、剣と交わされると、心が喜ぶ。その喜びの正体を、少年はまだ言葉にできない。


 稽古を終える頃、掌の印は穏やかな熱を持ち、手の皮は新しい硬さを獲得していた。父は汗だくの少年に水を渡し、椅子へ座らせるでもなく、片膝で同じ高さまで降りて言った。


「震えるな。震えれば、斬れるものも斬れなくなる」


 エミルは意識して指に力を込め、震えを内側へ押し戻した。


「……はい」


「よし。強くなれ。私を超えろ」


 超えろ。

 その語は、剣より鋭く胸に沈んだ。母がよく言った「正しくあれ」とも、司祭が語る「澄んでいろ」とも違う。方向を持ち、相手を定め、比較を前提にする語。愛と期待と命令のちょうど真ん中に立って、人を前へ押す。


「私はおまえを兵器にするのではない。——英雄にする」


 英雄。絵本で見た金の輪郭。村を救い、怪物を退け、祈りを受ける者。エミルは乾いた唇に舌を当て、小さく頷いた。英雄になりたい、ではない。ならねばならない、だ。父の眼差しに余白はない。余白がない紙には、子どもの字は似合わない。けれど、余白のない紙に書く字こそ、大人の字なのだと自分に言い聞かせる。


 夜、祈祷室。ロザリオの珠は指の汗で少し滑り、数える音は薄く短く、しかし確かに耳へ返る。エミルは紙片へ書いた。


「私を強くしてください。皆を守るために。

 父上を、いつか超えるために。」


 祈りの紙は二枚になった。短さを守りながら、内容は長くなる。守りたいは戦いたいに形を変えかけている。そのことにうっすらと気づいて、少年は紙の端を指で折り、古い一文をもう一度書き添えた。


「わたしに嘘をつかせないでください」


 嘘をつかない、という誓いは、従うことと時にぶつかる。ぶつかった音はまだ微かだが、彼の胸の空洞の薄い蓋がわずかに鳴り、次の位置へ滑った。


 翌朝、父は短く告げた。


「王都の学舎に入る手筈を整えた。士官候補生として、祈りと剣と語法と算すべてを学べ。人の目を知れ」


 王都。政治。サロン。多くの舌、多くの眼。人の目は祈りの紙よりも重たい。重さに耐えられない子は、沈む。沈んだ者を踏み石にして渡るのが世の作法だ——父は明言しないが、そういう歩き方をして戻ってきた男の背中だ。


 アデルは庭の隅でそれを聞き、短く「気をつけて」とだけ言って、彼の掌を冷やす薬を差し出した。掌の印はぐっと落ち着き、皮膚は柔らかさを取り戻す。彼女の指は、祈りの糸のように軽く、短く触れて離れた。リュカは半歩下がった位置で、剣帯の高さを黙って直し、靴紐を締め直した。言葉はない。だが、半歩という距離の精確さがそのまま誓いの形になっている。


「最近、眠れていますか」とアデル。


「少し。怖い夢は減りました」


「怖さを言わないのは罪です。……言えるように祈ります」


 エミルは頷いた。言えない弱さを言えないまま抱えている自分に気づきながら、なお頷いた。老女マルグリットは台所で鍋の蓋を少しずらし、湯気を逃して古い言葉を唱える。彼女の祈りは家の骨を温め、少年の骨の芯へもわずかに届く。芯が温かければ、葉が遅れても実は甘くなる——母がよく言っていた。芯が甘いことは、いくさでは敵だと父は言う。二つの正しさは、今のところ、廊下の角で擦れ違い、まだぶつからない。


 数日して、聖職者の検分が行われた。若い司祭は印の周囲を金属の棒でなぞり、先の小さな玉が一度だけ鈴を鳴らす。彼は言う。「澄んでいる。ただ、外側の秩序が強い。祈りの内側が少し痩せないように」。父は頷くだけで何も言わない。司祭は短い祈りを置いて去っていく。宗と軍と家は、それぞれ別の沈黙を持ち、三つの沈黙は互いに干渉しない。干渉しないのは平和だが、それぞれが別の方向へ少年を引く。


 夜、父は珍しく柔い酒を手に、戦について語った。派手な英雄譚ではない。撤退の秩序、湿った火縄の乾かし方、冬営の火の置き方、馬を疲れさせない歩数。少年は目を輝かせて聞き、ロザリオの珠を転がす。彼の中で、戦が働きに、働きが祈りに、祈りが秩序に繋がる回路が組み上がっていく。父の声は温度を持たない焔のようで、触れても熱傷しないが、形を変える。


「エミル」


「はい、父上」


「超えろ。私の歩数では足りなくなる日が来る。私の拍では遅い日が来る。人の目の前で、私よりうまく嘘をつかずに立て」


 嘘をつかずに立て。祈りの紙に書いた「嘘をつかせないでください」と響き合う言い回しだが、方向が違う。父は「人の目」の前で、祈りを秩序に見せ、秩序を徳に見せ、徳を勝利に見せる術を教えようとしている。エミルの胸の中で、真実と作法が薄い角度で重なり、ちいさなきしみ音を立てた。


 王都への出立が一日延びた日の夕刻、父は中庭で**家剣エペ・ド・メゾン**を見せた。鞘に刻まれた家訓は古い刻印文字で、「Devoir—Silence—Victoire(義務・沈黙・勝利)」。父はゆっくりと刃を半ばまで抜き、光の上で一瞬止めた。刃は光を飲み、光は刃を細くする。彼は少年に柄を握らせ、肩越しにささやく。


「沈黙は美徳ではない。沈黙は秩序の余白だ。余白がないと、人は息ができない。余白を守れ」


 それは、エミルがこれまで出会ってきたどの教えよりも難しかった。沈黙は、逃げでも怠惰でも卑屈でもないのだという。彼は頷き、刃の向きを自分へ一瞬当ててから、空へ、そして土へと順に移した。空は神、土は現実。神と現実はぶつかる。父は背で頷いた。背中は完全で、矢が刺さる隙を見せない。欠けがない背は、家族には遠い。遠いものは崇拝しやすいが、愛するのは難しい。


 その晩、アデルは温室の扉の陰で言った。「怖いなら怖いと言ってください」。エミルは微笑もうとして、うまくいかず、ただ頷いた。怖いとは言わなかった。言えば崩れる場所が胸の内にある。崩れる音が、父の拍と重なるのが怖かった。リュカは二人から半歩離れた位置に立ち、空の色を一度だけ見て、すぐ土を見る。彼の視線はいつも地面に戻る。地面は嘘をつかない。空はよく嘘をつく。青や広さで、人を油断させる。


 出立の朝が来た。馬車の車輪に油が差され、初めての拍を刻む。父は馬上に軽く身を置き、「サロンへ連れてゆく。人の目を知れ」とだけ言った。老女は塩を手に、古い習いで伯の背に撒く。アデルは祈りの紐を握り、リュカは半歩の距離を保ったままエミルの影を目で追う。エミルは剣の柄に右手を置き、左手で胸の上にロザリオを**“置く”。置くという仕草は、祈りにも剣にも通じる。この家で撫でる**ことはあまり行われない。置くのだ。言葉も手も、置く。


「英雄になれ」


 馬上の父が言った。地に落ちるなよ、と続けるかと一瞬思い、父は言わなかった。言わなかった言葉は、言われた言葉より長く残る。エミルは深く頷き、「超えます」とだけ答えた。声は小さかったが、石床は不思議とその音を覚えた。覚えられた言葉は、長く家に残る。やがて、それは別の言葉にぶつかり、火花を生む。


 馬車が門を出ると、屋敷の空気はふっと軽くなった。軽くなるのは、愛が薄れたからではない。戦が家から半歩だけ遠ざかったからだ。遠ざかった戦は、風景になりやすい。風景になったものは、ある日いきなり現実として戻る。その戻り方は、たいてい残酷だ。


 エミルは揺れる車中で、祈りの紙片を胸に当てた。短い字は布越しに肌へ押され、薄い蓋は今日も位置を変える。王都の話を伯から聞いた断片が頭の内側で図面になり、それぞれの部屋に目に見えない名前をつける。講義室、射撃場、礼拝堂、閲覧室、サロン——多くの目。多くの拍。多くの嘘。嘘をつかずに立つ方法。超える方法。守る方法。選ぶ方法。選ばない方法。紙に書ける語はこんなにあるのに、胸の真ん中の空洞はまだ言葉を一つ待っている。


「見ていてください」


 小さく口の中で唱えると、馬車の軸が一度だけぎいと鳴り、乾いた風が窓の縁を撫でた。遠くで鳩が二羽、王都とは逆の空へ飛んでいく。背を追いかける視線があるとすれば、それはたぶんアデルのもので、半歩離れた地面を見ている視線があるとすれば、それはリュカのものだ。老女は鍋の蓋を少しずらし、湯気に向かって古い言葉を——少年の骨の芯が温かいままでありますように——と唱え続ける。


 軍神の掌は、甘さと刃でできている。掌のぬくもりは、少年の皮膚に残り、刃の冷たさは骨の線に残る。彼はそれを忘れない。**忘れない者の刃は、よく切れる。**いつか、別の言葉にぶつかり、火花をあげるその日のために。


 この朝、少年はまだ知らない。

 「地に落ちたな」という語が、愛した戦友の死骸のそばで発せられ、祈りの薄い蓋を内側から打ち破る日が来ることを。

 そのとき初めて、超えるという父の愛と呪いが、怒りへ翻訳されることを。

 だが、その日までは、彼はただ祈りを数え、剣を振り、呼吸を刻む。

 王都の鐘が遠くで重なり、彼の胸の拍とゆっくりと同期した。

エスカルゴは正月のおせちぐらいのノリでしか食わないぞ

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