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第10話 祈りの裂け目

そうかそうか、お前はそういうやつだったのか

 エミルが九つになる春、屋敷に新しい家庭教師がやってきた。名は ギヨーム。王都の学院で学び、聖職の道を志していたが、途中で方向を変え、地方の貴族の子息の教育に携わるようになったという男だ。声は穏やかで礼儀正しい。だが、その穏やかさは、どこか磨かれすぎており、角が一切ない。角がないものは、どこへでも滑り込める。


 彼はまず、エミルの信心深さを褒めた。


「若くしてこれほど熱心とは、主の御心に適う器です。祈りの習慣が身体に宿るのは、祝福者の証……いや、それ以上でしょう」


 褒め言葉は礼拝堂の香のように鼻腔をくすぐり、判断を甘くする。エミルは正直に嬉しかった。けれど嬉しさの影に、ほんの小さな違和感があった。アデルや修道女に褒められるときの温かさとは違う、少し湿った温度。


 師も老女も、そしてリュカも、男が来て以来、僅かに表情を固くした。理由は言われない。理由が分からないとき、人は祈る。エミルは祈った。


神よ、私は間違えませんように。

正しいものを正しいと認められますように。



 教導の最初の数日は穏やかだった。読み書き、歴史、礼儀作法。ギヨームは淡々と教え、ときに笑った。笑いは薄く、輪郭が曖昧だ。曖昧な笑みは、油膜のように表情の上に浮き、次の瞬間には消える。


 五日目。ある授業中、ギヨームは突然、エミルの椅子を後ろから軽く押した。


「背筋を伸ばすのです。祝福者は常に天へ向けて姿勢を正しく」


 手は肩に置かれたまま、少し長く留まった。骨の位置を確かめるように、ゆっくりと親指がなぞる。エミルは気づかなかった。いや、気づきたくなかったのかもしれなかった。


 六日目。次は腰のあたりを正すと言って、背後から手が入る。指が浮いた布越しに、皮膚の温度を吸い取ろうとするように密着する。息が背のすぐ近くにある。近すぎる距離。守る者の距離ではない。


 七日目。男は囁くように言った。


「君は特別です。特別な者には、特別な教育が必要だ」


 その夜、エミルは眠れなかった。室内は暗く、祈りの紐だけがふわりと揺れ、月光の細い線を掬い上げていた。祈りが重くなりすぎていないか、指で確かめる。結び目は固くなっていた。固さは祈りの腐敗を示す。



 アデルはその日も屋敷に来た。子どもたちの掌を確認し、薄い怪我に薬を塗る。彼女の指先に触れると、昨日より少し安心できた。でも、すぐに不安が戻る。戻ってくる不安は、すでに居場所を持っている不安だ。


「最近、眠れていますか?」とアデル。


「はい。……少しだけ、怖い夢を見ます」


「怖いことは罪ではありません。罪は、怖さを言わないこと」


 言うべき相手がいる。だが、口は強く結ばれたまま。祈りの紐の結び目と同じ。締めすぎると、風が揺らせない。


 リュカは横で静かに立っている。鞄の紐を握る手が強くなったのを、エミルは見逃さなかった。リュカには気づかれたくないものまで、見えてしまっている気がした。



 決定的な夜が来た。


 授業の後、ギヨームはエミルを呼び止めた。


「褒美をあげましょう。あなたの祈りは美しい。……主も喜んでおられる」


 暗い廊下。誰もいない部屋へ。

 扉が閉まる音は、祝詞の終わりのように静かで、逃げ道を奪うように重かった。


「姿勢を、もう少し正しく。聖なる器には欠けがあってはならない」


 肩に手が置かれる。

 首筋をなぞる指が、何かを確かめる。

 息が耳に触れ、声が骨に沈む。


「大丈夫。痛くしません。あなたは特別なのです」


 エミルは震える呼吸を押し殺した。

 手は膝の上で固まり、祈りの言葉を失った。


 助けて。

 言えない。

 声は、喉の中で祈りと一緒に固まったまま。


 ──そのとき。


 扉が、

 ドンッ

 と叩かれた。


「アデル様がお呼びです」


 リュカの低い声。

 硬い刃物のような声だった。


 ギヨームは舌打ちをしたように顔を歪め、手を離した。

 だが、耳元でこう囁いた。


「祈りは秘密です。誰かに話してはいけません。

 これは主のためなのですから」


 主のため。

 それはいつも正しい言葉だった。

 だが、今だけは

 胸の奥で黒い影の形をして響き続けた。



 その夜、祈りの紐は切れかけていた。

 風に揺られすぎた紙片の角が裂け、言葉の端が薄く崩れ始める。


「目をください」


 同じ祈りを、十度繰り返しても安らぎは来ない。


 扉近くの床に、靴跡が一つだけ残っていた。

 リュカのもの。

 彼は戻らなかった。呼ばれたというアデルの声も、どこからも聞こえなかった。

 ただ、助けに来たという事実だけが、暗闇の中に小さく灯っていた。


 エミルは膝を抱えたまま、かすれた声で囁く。


「神様……私は、何が正しいのですか」


 答えは、返ってこない。

 ただ、胸の中の空洞が震えた。


 空洞に、

 痛みの芯が生まれた。



 翌朝。

 顔を洗い、祈りを捧げ、訓練場へ。


 エミルは、昨日までより剣を強く握った。

 掌の印がわずかに熱を持つ。

 祈りではなく、怒りの熱だった。


 リュカが近づき、小声で言った。


「何かあれば、言ってください」


 エミルは首を横に振る。

 祈りの紐の結び目と同じ。

 だが、指先は少しだけ震えた。


「……言うことでは、ありません」


「どうして?」


「私が弱い証になってしまうから」


 リュカは短く息を吐き、視線を遠くへ向けた。


「弱さを隠す者は、強さを見失う」


 その言葉は、エミルの胸に刺さった。

 だが、刺が抜かれることはない。

 抜かれなければ、血は出ない。

 血が出なければ、誰も気づかない。


 そして誰も気づかない痛みは、

 ずっと心の奥へ沈んでいく。



 夜。

 屋敷に重い知らせが届く。


国境線で衝突

開戦は時間の問題


 師は剣を研ぎ、老女は荷をまとめ、執事は地図を広げる。

 戦争が近い。

 いや——もう始まっている。


 そして父の名が出た。


「エミル様の父上は最前線におられる。

 近く帰還され、殿下にお会いになるご予定も」


 父——

 会ったことのない影。

 母が毎夜祈っていた名前。


 皆が忙しく動き、

 エミルだけが立ち止まる。


 祈れ。

 信じろ。

 強くなれ。


 無数の声が重なり、胸を締めつける。


「守るべき者を、選びなさい」


司祭の言葉が蘇った。


 誰を?

 アデル?

 リュカ?

 老女?

 母の亡霊?

 まだ見ぬ父?

 自分自身?


 分からない。

 分からないことが罪なら、私は罪人だ。



 夜の祈り。

 紐はまた少しほつれ、紙片は風で揺れる。


「守るための目をください」

「守るための腕をください」

「守るための刃をください」


 言葉が増えた。

 祈りは短くなければいけないのに。


 涙で滲む紙片が、

 乾く前に黒く染まった。


 それはきっと、墨の色。

 それとも——

 未来の血の色。



 幼少期は終わり。

 祈りの裂け目から、闇が細く差し込み始めた。


 次に訪れるのは

 父と、戦争と、英雄の影。

Vチャのスラシュコはいいぞ。

ドルフィンマンから隠れながら書く執筆の緊張感はたまらんのです。


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