後方兄貴面のイケメンがムカつくので無理
好きって何だろう?
付き合うって何だろう?
好きな女の子がいて、でもその子を取り巻く環境や人々が自分とあまりにかけ離れていたら、彼女に近づくため努力することが正しいのだろうか?
そうすることが恋であり愛だとしたら、そうできない自分の好意は偽物でしかないのだろうか?
「久慈くん、櫻崎先生の新作読んだ?」
「まだ。買ってはいるけど、時間が無くて読めてない。週末に一気に読むつもりなんだ」
「そうなんだ……ネタバレになるから言えないけど、今回ホントに凄いよ? 感想聞きたいから読んだら教えてね?」
「うん」
昼休みの教室で友人の田山と弁当を突きながら、好きなラノベ作家の新作について雑談を交わす。
僕の名前は久慈辰也。
自分で言うのも何だが、所謂どこの高校、どこのクラスにも一人二人はいそうな地味で目立たない普通の男子高校生。
帰宅部で成績が多少良いことを除けば目立った特徴もなく、クラス内での評価はカースト中の下から下の上をウロウロしているモブといったところだろう。
現状に特に不満があるわけではなく、このまま穏やかに学生生活を過ごしていければいいと心からそう思っている。
「でさー、高城の奴、調子こいてたクセにスゲー下手くそなの!」
「ギャハハ、マジ!?」
一際大きく遠慮のない笑い声が教室に響き、正面の田山が少し眉をひそめた。
上位カーストの男どもが僕らには到底理解できない話題で騒いでいる。構図で言えば男四人が、クラスでも可愛いとされる女子三人にアピールしている形。そうした姿を滑稽だと馬鹿にする者もいるだろうが、女子もそう悪い気はしていない様子だ。結局こうしてグイグイ行ける男がモテるんだろうな、と僕は素直に思った。
「────」
声の大きさにつられてチラとそちらに視線をやると、輪の中心にいた女子の一人と目が合う。彼女が僕に向けて微笑んだような気がしたが、僕は周囲に邪推されまいと反射的に目を逸らす。
彼女の名前は佐倉比奈。
ミディアムヘアを校則違反にならない程度の明るい色に染めた美少女。僕とは世間一般で言うところの幼馴染に当たる。
だが学校で比奈と話をすることはほとんどなく、クラスメイトにも僕らの関係を知る者はいない。
「でさ、佐倉さん。兄貴の知り合いが車出してくれるって言ってんだけど、せっかくだから一緒に行こうぜ」
「え~? 変なことされそうだしな~」
「しないしない! 絶対しない!」
「ギャハハ、嘘つけ!」
「比奈をエロい目で見んじゃねー、このヤリチン野郎が」
「…………」
「……田山くん。顔顔」
騒がしいやり取りに、根が潔癖気味な田山の表情が不快そうに歪んでいるのを見て、僕は小声で注意する。当人がどう思おうが勝手だが、それを表に出せばあの連中に絡まれるリスクがある。別に彼らも悪いことをしているわけではないのだし、嫌なら関わらないのが一番だ。
一方、上位カーストグループの輪の中心では、尚も少年の一人が比奈を誘うことを諦めていなかったが。
「佐倉さん。絶対退屈させないからさ」
「う~ん……」
「──お~い比奈! ちょっといいか?」
グループの会話に割って入る無遠慮な男の声。
少年たちの表情が一瞬不快そうに歪むが、声の主を見てすぐに諦めとも納得ともつかない表情に変わる。
「上月先輩!」
比奈は嬉しそうに表情をほころばせた。
声の主は一学年上の先輩で上月悠斗。恐らくこの高校で最も有名なイケメンだ。高身長でバスケ部のエース、実家はコンサル会社を経営するお金持ちで成績も悪くない。いかにも遊んでいそうな華やかな見た目だが中学時代から付き合っている彼女がいて、周囲からは理想のカップルと呼ばれてるのだとか。
「どうしたんですか、わざわざ?」
「ん? 今日放課後時間空いたから、ちょっとどうかなって」
「ふふっ、それならLI●Eしてくれればよかったのに」
「ついでに話したいこともあったからさ」
そう言って上月先輩は比奈の背中に手を回し、ごく自然な動作で教室の外へと連れていく。比奈は嫌がるそぶりなど全く見せず、友人たちに「ごめんね」と謝るような仕草を見せてついて行った。
上位カーストグループの少年たちは二人の姿がすっかり見えなくなった後、がっくりと肩を落とす、
「あ~……何だよ、俺が先に誘ってたのに」
「ま、相手が上月先輩なら仕方ねぇべ」
「そーそー。あたしらだって上月先輩に誘われたら彼氏ほっぽってもついてくし」
慰めるようにケラケラ笑いながら頭を撫でようとする少女の手を払って、フラれた少年が不満そうにうめいた。
「うっせ。そこは彼氏優先しろよ、ビッチ」
「お。まだ女に幻想抱いてる口かな、少年」
「やかましわ。つか、何だよあれ。上月先輩美人の彼女いんだろ?」
「比奈は先輩のお気に入りだからねー」
上月先輩は悪い意味ではなく遊び人だ。
彼女とは別に仲の良い女子は多く、頻繁に遊びに出かけている。先輩の彼女は生徒会長で普段忙しくしていることもあってその遊びを黙認していて、先輩も特に“浮気”をしているわけではないらしい。
「お気に入りつっても、あれじゃまるで……」
女子からの悪評を恐れてか、少年は言いかけた言葉を呑み込んだ。
上月先輩と仲の良い女子の中でも比奈は特に気に入られており、今のように誤解されかねない振る舞いも目立つ。その為、周囲──特に先輩のファン──には良からぬ邪推をする者がいることを、僕は知っていた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「別に先輩とはそんなんじゃないわよ」
僕の部屋のベットの上でくつろいだ様子で漫画を読みながら、比奈は疑惑をあっさりと否定した。
「こんな時間まで二人きりで遊んでて、周囲からどう見られるのか少しは気にしなさいって言ってるんだよ」
僕は勉強の手を止めて、呆れ3、心配7の割合で苦言を呈する。
「バカバカしい。先輩にはちゃんとした彼女がいるんだし、勘違いする奴にはさせとけばいいのよ」
「その勘違いが余計なトラブルを招くこともあるだろう」
僕は言いながら、どうせ聞き入れはしないんだろうな、と諦めていた。
時刻は既に21時過ぎ。つい先ほど上月先輩と遊んで帰ってきた比奈が部屋にやってきて、勝手にくつろぎながら今日は何があった、先輩がどうだったのと聞いてもいないことをダラダラしゃべり続けている。
学校では付き合っている友人グループの違いもあり、ほとんど会話することもない僕と比奈だが、別に疎遠だとか仲が悪いわけではない。
家が二軒隣ということもあってか、比奈は毎日のように僕の部屋にやってきて駄弁っていて、むしろ付き合ってもいない年頃の男女としてはあり得ない距離感の近さだと思う。
いや、ぐだぐだ回りくどいことを言っても仕方ない。
認めよう──僕は比奈が好きだ。
そして高校生にもなって異性の部屋に遊びに来る彼女の行動が何を意味するのか理解できないなどと言うつもりもなく、比奈も少なからず僕に好意を抱いてくれているのではと自惚れていた。
だが僕は彼女に告白することなく、何ら具体的な行動に移せずにいる。
自分に自信がないとか、釣りあわないとか、そんなセンチなことを考えているつもりはない。
だけど。
「もう~うるさいなぁ……ひょっとして辰也、嫉妬でもした?」
比奈が悪戯っぽい表情でこちらを覗き込みながら言う。
しかし僕に動揺はない。好きな娘が他の男と二人きりで遊んできたと聞いて嫉妬がないわけではないが、何か別の感情の方が勝って嫉妬を覆い隠している気がした。
「……嫉妬する理由がないだろ」
数学の問題集を解きながら淡々とした声音でそう答える。
比奈が不満そうに膝を抱えるのが、気配で分かった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
日曜日の夜。
僕は予備校の帰り道を駅に向かって一人のんびりと歩いていた。
自習室にこもっていつもより少し遅くなった。家に帰れば食事は用意されているだろうが、胃袋は珍しく自己主張していてそれまで待ってくれそうにない。何か適当に買って食べながら帰るかと道沿いの店を覗きながら帰っている、と。
「────」
ファミレスで、比奈が上月先輩と二人で談笑しているところを目撃してしまった。
どこか遊びに行った帰りだろうか。
比奈は僕の前では見せたことのないオシャレで大人びた服装をしていて、向かい合う上月先輩ととてもお似合いに見えた。
その時僕が感じたのは嫉妬か、劣等感か、あるいはただの納得か。
ともかく“見ていられない”という衝動だけは確かにあった。
『────!』
窓ガラス越しに比奈と目が合う。
それにつられて、上月先輩も僕の存在に気づいたようだ。
比奈は立ち上がり、何かこちらに話しかけようとしていたが、分厚いガラスに阻まれ何も聞こえない。
僕は無表情を繕ってツイと目を逸らし、せめてものプライドで逃げたと思われないよう、ゆっくり何事もなかったかのようにその場を立ち去った。
その後、スマホに比奈から何件か連絡が入っていたが、僕は初めてそれを無視した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
翌日。
僕はいつものように余裕をもって一人登校し、HRが始まるまで本を読んで時間を潰す。
比奈とは通学路こそ一緒だが登校時間が違うため、昨日の夜以降一度も顔を合わせていない。
「おはよ~比奈」
「おはよ~。由紀今日早いじゃん」
「それがさぁ──」
始業時間十分ほど前に比奈が教室に姿を見せ友人たちに囲まれる。
視線のようなものを感じた気がしたが、僕は一度も振り向かなかった。
そして放課後。
気のせいではなく何度も比奈がこちらに視線を送ってきているのが分かったが、僕は無反応を貫いた。
彼女は不満そうだったが、学校での互いの人間関係を慮ってか、直接話しかけてくるようなことはない。
そしていつものように彼女が友人たちに囲まれ身動きが取れなくなっている間に、教室を出て帰路に就く──と。
「ちょっとツラ貸せよ」
「…………」
何故か廊下で上月先輩に睨まれ、人気のない校舎裏に連れていかれた。
「お前さ、比奈の幼馴染なんだろ?」
「…………は?」
前置きなく発せられた上月先輩の言葉に僕は眉を顰める。
僕らが幼馴染であることを知る者は、この高校では当人たち以外にいない。中学に入って以降、女性として花開き周囲から注目されるようになった比奈と、僕はここ数年人前ではほとんど会話を交わしたことさえないのだから。
上月先輩の表情を見返すと、そこには苛立ちと侮蔑の色が浮かんでいた。
「家が近所で、子供の頃に遊んだことがある、という意味ならそうですね」
「あー、もうそういうのいいんだ。全部知ってっから」
僕の誤魔化すような言葉を、先輩は面倒くさそうに切って捨てた。
それはつまり、比奈が先輩に自分のことを話したということだろうか? 一体何のために? どういう風に?
「俺、まだるっこしいの嫌いだからハッキリ聞くけどさ、お前、比奈のこと好きなの?」
「…………」
僕はほぼ初対面の人間に対し問いに答える意味を見出せず、無言無表情で見つめ返す。
しかし彼はそれを勝手に自分の思い込みに沿って判断したらしい。
「やっぱりな。それで、昨日俺とあいつが一緒にいるところ見かけて嫉妬して、いじけて連絡も取ってねぇってとこか」
「…………」
「ほんと、ちっちぇ男だな」
上月先輩は僕を挑発するように嗤った。
「好きな女に告白する度胸もねぇくせに、嫉妬だけは一人前。その上、あいつに釣りあう男になろうって気概もねぇときた」
「…………」
「どうした? 言い返すことも出来ねぇか?」
言い返すも何も、別に無関係の人間に伝えなければならないことなどない。というか彼は一体何が言いたいのだろうか。目障りだから近づくなというならそう言えばいいのに──そもそも僕から彼女に近づいたことなど一度もないが。
「だんまりかよ。ちっ……何で比奈もこんな奴を……」
上月先輩は苛立たしげに髪をかき、僕の胸倉を掴み上げ恫喝するように言った。
「お前さ、男ならうじうじ煮え切らねぇ態度取ってねぇでシャキッとしろや。それともイジケて女に慰めてもらうの待ってんのか? そんなクソみてぇな男に──」
「──先輩!」
誰かから僕が上月先輩に連れられて行ったという話を聞いたのだろう、慌てた様子の比奈が現れ先輩を制止する。
僕を掴む先輩の手の力が緩んだ隙に、僕はそっと抜け出して一歩後ろに距離を取った。
「先輩、何やってるんですか!?」
「何って……お前が誤解されて連絡も取れねぇって言うから、ガツンと誤解をとってやろうと──」
「それで何でこんな喧嘩腰に……」
「……仕方ねぇだろ。こいつがウジウジ煮え切らねぇ態度取んだから」
二人は僕のことを放って親しげな様子で言い合っている。僕は服の皺を直しながら、冷めた気分でそのやり取りを見守った。
「もう! 何でそんな勝手なこと……!」
「勝手も何も、お前らがちっとも進展しねぇのが問題なんだろうが」
「し、進展って、辰也の前でそんな──!?」
比奈が顔を赤くして僕の方をチラと見る。
「何今更赤くなってんだよ。『幼馴染と距離ができて学校や外じゃ上手く話せない』って相談してきたのはお前だろ?」
「わ~! わぁ~!!」
慌てて上月先輩の口を塞ごうとする比奈。
そのやり取りは、まるで仲の良い兄妹のようにさえ見えた。
「もうハッキリ言っちまえよ。言わねぇことには始まんねぇだろ」
「で、でも──!」
「そいつに迷惑がかかるかもとか、くだんねぇこと心配してんなら俺がどうにかしてやる」
「どうにかって……」
「嫌がらせが心配なら俺がそいつの後ろ盾になってやる。お前に相応しい男に、俺が鍛え直してやってもいい──お前らさえその気ならな」
そう言いながら上月先輩の視線は真っ直ぐ僕を射抜いていた。
比奈は先輩に強引にお膳立てされ、しばし躊躇うようもじもじしていたが、やがて意を決したように僕に向き直り口を開いた。
「……あの、ね。もう気づいてるかもしれないけど、先輩にはずっとあんたとのこと相談に乗ってもらってたの」
「…………」
「学校とかじゃお互い付き合うグループとかも違って話もできなくなっちゃったけど、その──」
比奈は大きく息を吸い込み、その言葉を続けた。
「──あたし、あんたが好き! 幼馴染じゃなくて、恋人として付き合ってください……!」
「…………」
顔を真っ赤にした彼女の後ろで一歩引いて、上月先輩は事の成り行きを腕組みして見守っている。
そして、ずっと好きだった娘に好きだと言われた僕の頭は──
──え? 比奈と付き合ったら、こういうのがついてくるの?
喜びではなく困惑と嫌悪、そして少しばかりの諦念に満たされていた。
十秒ほどの沈黙。
比奈や、後ろで控える上月先輩が沈黙に耐え切れなくなる直前に、僕は素直な気持ちを口にする。
「ごめん」
『────』
まさか断られるとは思っていなかったのだろう。二人は絶句した。
それでも何とか持ち直した比奈が、おずおず縋るような口調で問いかける。
「え、えと、何で……? 他に好きな人がいる、とか?」
「いや、そういうんじゃない」
「な、なら! あたしに何か嫌なところがあるとか。言ってくれればあたし何でも直すよ!?」
「そういうのでもないんだ」
「なら、どうして……?」
驚くほどに冷静で、すっかり萎えてしまっている自分に少し呆れながら、僕は一瞬誤魔化そうかと悩み、最後ぐらいは誠実であろうと本音を口にした。
「僕もさ、比奈のことは好きだったよ」
敢えて過去形で言った意味に気づかなかったわけではなかろうが、比奈は目を潤ませて言いつのる。
「な、なら──!」
「でもさ。付き合うってなるとお互いの人間関係に踏み込まないわけにはいかないでしょ? 僕は比奈個人のことは好きだけど、比奈が仲良くしてる周りの人たちと関わりたいとは思わないんだ」
『────』
比奈だけでなく、後ろで話を聞いていた上月先輩も再び絶句したのが気配で分かった。
僕は敢えて朗らかに笑って続ける。
「ああ。別に比奈の人間関係を貶してるとか、友人づきあいを止めろなんて言ってるわけじゃないよ? きっといい人たちなんだろうな、とは思う」
そして比奈が再び口を開くより早く、僕はハッキリと告げた。
「でも僕とは合わない。君がいい人だっていう人たちと、俺は仲良くできないし、したくない。価値観が違うんだよ」
こうして上月先輩に連れてこられてよく分かった。きっと彼は面倒見がよくて気の良い人なのだろう。比奈のことを妹のように大切に思っていて、彼女の恋の成就のために自分に何のメリットもないこんな面倒なことに顔を突っ込んでいるのだ。
ただ繰り返すが僕とは合わない。
面識もないのに、こっちの事情も知らずズカズカ踏み込んでくるところも、ナチュラルに見下してくるところも、合わないし──正直ムカつく。
そんな彼を比奈はいい人だと信頼していて、彼寄りの思想で、今も僕に彼のようになって欲しいという前提で話をしている。
「好きなのに、そんな理由で……?」
「そうだね。そういうのを乗り越えていく気持ちが“好き”なんだとしたら、僕の気持ちは偽物だったのかもしれないね」
「────」
つい突き放すような言葉になり、比奈が顔を押さえて嗚咽を漏らす。
僕は言うべきことは言ったと、そのままこの場を立ち去ろうとし──
「──ちょ、待てよ!」
瞳に怒りを宿した上月先輩が僕に手を伸ばす。
彼からすれば自分の妹分が不当な──しかも自分が原因かのような──理由で傷つけられたようなもの。その反応は予想できた。
──パンッ!
「────っ!?」
一発ぐらい殴られてやってもいいとは思っていた。
だがいざ近づかれると、僕は反射的にその手を弾いていた。嫌悪感。八つ当たりかもしれないが、ムカついているのはこっちも同じだ。
予期せぬ反撃に驚いたのか、僕の瞳に浮かんだ反抗的な色に反応したのか、怒りが上月先輩の顔全体に広がりカッと紅潮する。
「ふざけんな──!」
次の瞬間、先輩は拳を握り込み、右フックを放っていた。
そのパンチは大振りで躱すこともできた。だが少し頭に血が上っていた僕は、一歩前に踏み込み硬いこめかみの部分でその拳を受ける。
「────ぐっ!?」
殴ったはずの先輩の拳が弾かれ、その表情が痛みに歪む。
──これで一発だ。
そして次の瞬間、お返しとばかりに放たれた僕のボディブローが先輩のみぞおちに吸い込まれていた。
──ドスゥッ!
「────!」
完璧に入った。先輩は悲鳴を上げることもできず悶絶し、腹を押さえてその場に崩れ落ちる。
「──ゲホッ! ゲフ、ゲフゥ、カフッ!」
「先輩!?」
慌てて比奈が先輩に駆け寄りその背をさする。先輩は胃の内容物を吐き出し顔中から汁を垂らしていた。
その様子を冷めた目で見下ろしながら、少しやり過ぎたかと反省する。
これは比奈も知らないことだが、昔からヒョロヒョロして運動が得意でなかった僕は自分を変えようと中学の頃からボクシングジムに通っていた。中学に入ってドンドン華やかになっていく比奈に置いていかれまいと自信をつけるために。
体力はついても不器用だったので学校での評価はあまり変わらなかったが、殴り合いで素人に負けるようなことはない。
逆に素人に手を出してしまったことの方が問題だったが、僕がボクシングをやっていることは周囲には知られていないし、上月先輩にも立場がある。先に手を出したのはあっちだし、陰キャの僕に殴り倒されたなんて言いふらしたりはしないだろう、と自分を納得させる。
「カヒュー、カヒュー……」
荒い息を吐く先輩。
僕はこれ以上この場に残っても要らぬ恨みを買うだけだと考え、先輩の介抱を比奈に任せて踵を返す。
「それじゃ」
「あ──」
一瞬、比奈は迷うように僕に手を伸ばしかけたが、この状況で先輩を見捨てられるはずもない。
それ以上の会話もやり取りもなく、僕はその場を後にした。
「…………いて」
殴られたこめかみをなぞると、出血こそしていないが少し熱を持っていた。
──収まるべきところに収まった、ってことだろうな……
唐突な幕引きではあったが、ただ目を逸らしていただけで、これは避け得ぬ、分かり切った結末だ。
比奈のことは大好きで、自分なりに努力はしてきたつもり。だけど僕と彼女では理想とする世界や人間関係、価値観が違い過ぎた。
彼女の価値観がおかしいなんて言うつもりはないし、逆に僕の価値観がおかしいと言って欲しくもない。ただ合わないだけ。
そこに目を瞑って付き合ったとしても、いずれ今日のようなことが続きすれ違い破綻することは目に見えていた。
それを乗り越える力こそが恋であり愛であると──僕のこの“好き”という感情は偽物だと言われれば──まあ、そうかもしれないね、と答えるしかない。
「…………いて」
だけどそれでも、この痛みだけは嘘ではない。
連載中の話に恋愛要素を盛り込みたいなと、練習のつもりで書いた話です。
元々ハッピーエンド予定で書き始めたのですが、書いている内に二人が付き合って上手くいく姿がイメージできなくなり、こんな結末に。
先輩がウザく見えてしまうかもしれないけれど、一番の問題児は主人公という。