ジャック・ザ・リッパー 2
咲はそう名乗ると店の引き戸を開け、テオドルフの帰宅を見送った。
テオドルフも頭を下げ、帰路に就く。
―弁当もやっているのか…
先ほどは気がつかなかったが、看板の裏面にはランチボックスの配達もしていると書かれていた。
今し方口にしたミズホ料理は、その実美味かった。
ただただ一心にテオドルフに腹一杯に美味しい物を食べて欲しい。体の芯から暖まって帰って欲しい。
そう言った心遣いが見て取れた。
―明日の昼食は、彼女の弁当にしよう
しばらく通うことになりそうだな、とテオドルフは苦笑した。
マルーマ川にて娼婦の死体が浮かび、ジャック・ザ・リッパーの再来だとロンディニウム中が騒然となる事になるのは、翌日の午前中のことだった。
「こんにちは、配達です」
昼の少し前に、テオドルフの詰めている事務所に三人の子ども達がやってきた。
事務所はロンディニウムの中心地にある、真新しい煉瓦造りのビルヂングの三階にあった。
最新式のエレベーターが使用できると評判だ。
子ども達はそれぞれ十三歳ほどの女の子と十歳程度の男の子、それから四歳くらいの女の子だ。皆揃いの藍色のエプロンを着けている。
「ああ、待っていたよ」
子ども達はテオドルフの座るデスクまでやってくると、布にくるまれた木製の弁当箱をデスクの上におっかなびっくりのせた。
きっと自分の顔が怖いせいなんだろうな…と内心しょんぼりしながらも、にこやかにテオドルフは弁当を受け取る。
「だ、代金は一シリングです」
年長者である少女がそういうと、デスクを並べた同僚が「高くないか?」と口を挟んだ。
「アル」
「はいはい」
咎めると両手を挙げてみせて年上の同僚が下がった。
「サキをがめついなんて言うな!」
反対に口を出したのは少年だった。
「こ、こらトビー!。え、えっと代金は弁当箱の代金も含まれているんです。返却していただいたならその分の代金はお返しします」
年嵩の少女が叱り、理由を説明する。なるほど、確かにたかが弁当箱と言ってしまえばそれまでだが、包みも美しいミズホ風の染めだし、木製の弁当箱もミズホの物だ。
遠い異国の物であるなら、それだけでも欲しがる人はいるだろうな、とミズホ国贔屓のテオドルフは頷く。
「なるほど、返却とは次回の利用時でもいいのかな?」
「はい、そうです。直接店に返してくださっても構いません。もし日を置く場合は洗って返して下さると助かります」
緊張は解けてはいないようだが、年長の少女は先ほどよりも流暢に言葉をしゃべった。
三人とも身ぎれいで言葉遣いも悪くない。だが、この年で働いていると言うことは貧困層の子どもなのだろうか?
少なくとも血縁関係ではなさそうな三人に、テオドルフは深く追求することもなく、代金を支払った。
「ありがとうございます。どうぞごひいきに」
東洋式に頭を下げた三人は、次の配達先に向かうのだろう、エプロンのポケットから紙片を取り出すと「急がなきゃ」と呟いた。
「サー」
ふと見るとテオドルフのデスクの近くに一番幼い少女が残っている。
「どうしたんだい?」
痩せてはいるが、まろい頬をした子どもはにぱっと笑うと
「サキのごはんおいしいよ!」
と少したどたどしい口調で言った。
「…ああ、楽しみだ」
ふふ、と笑うとこちらもぺこりと東洋式に頭を下げて二人の子ども達の後を着いていく。
追いついた幼い女の子の髪を撫でて、彼らはまた頭を下げると退出していった。
「で、これが言ってたミズホ国の?」
アルこと、アレックス・オーガスト・アダムスは興味深そうにテオドルフの机に置かれたそれを覗き込む。
テオドルフに比べると細身だが、それでも背が高く厚みのある体つきの男だ。テオドルフと同じ黒い髪と青い目の持ち主だが、こちらはもう少し髪質は柔らかく、目は夏の空を思わせる色合いだ。
「ああ、そんなに気になるのか?アル」
「まぁね。我らがボスのお気に入りがどんなものかと。ま、純粋にミズホ料理が気になるのも本当だけどね」
茶化すように肩をすくめて見せる長年の同僚にテオドルフはため息をついてみせた。
「お気に入りと言っても、昨晩見つけた店だ。…私がミズホ贔屓なのは否まないが…」
そういいながらテオドルフは包みを開き、蓋を開けた。
「ほぉ…」
「これはこれは…。少なくとも俺のフィッシュ&チップスよりは豪勢だな」
木の弁当箱から出て来たのは彩の豊かな料理の数々だった。
弁当箱の半分には茶色い布のような何かに小さな具が混ぜ込まれた米がつめこまれているものが入っており、反対側の半分には青菜の胡麻和えと茄子を揚げ焼きにしたものがネギと生姜、それから唐辛子を少々纏って鎮座している。メインとなる肉類は鶏肉のようだが、とろりとした光沢を放っていた。最後に、昨晩見たミズホ風のオムレツもまた、弁当箱の中を彩っていた。
「やっぱり見たこともない料理ばかりだな」
自身のフィッシュアンドチップスをつまみながらアレックスはつぶやく。
「ホァンロンの料理とも違うな、地理的歴史的に近さや影響はあっても流石は神国と自称するだけはある…」
しげしげとアレックスはそんな感想を述べ、
「…アル。日替わりらしいから明日君も頼めばいいだろう」
と、一つつまみ食いしようとしてテオドルフに咎められた。
「ケチ―」
とわざとらしく頬を膨らませる三十代半ばも過ぎた親友にテオドルフははぁとため息をついた。
十年来の付き合いであるこの年上の友人は、良き兄のように振る舞うこともあるが、時々妙に子どもっぽい仕草をしてみせる。
事務所の中でもプレイボーイの二枚看板の一枚を背負う程普段の仕草や言動は紳士的で洗練されているのだが、素はこっちだ。
いつもなら昼食時は外のお気に入りのカフェでウェイトレスの女性と会話を楽しみながら取るのだが、今朝方『ごはんやさん』に使いを出した事が彼の興味を引いたらしい。
しかしながらじっと見られては食べづらい。はぁ、とテオドルフは息を吐いた。
「ほら、ミズホ風のオムレツだ。今度一緒に店に行こう」
三切れ入っていたオムレツのうち一つを差し出すと、アレクサンダーは満面の笑みでそれにかぶりついた。
「へぇ…甘いのか…だが美味いな。シンプルなオムレツでこれだけ美味いんだ。他の料理も楽しみになってきた。…約束だぞテオ」
うんうんと満足げに頷いたアレックスは大人しく自分のデスクに戻っていく。
少し冷めた濃いコーヒーを啜り、またフィッシュアンドチップスをつまむと僅かに顔をしかめた。
「…それはそうと、テオ」
「なんだ?」
「ジャック・ザ・リッパーの再来…だってさ」
行儀悪くデスクの上に足をのせ、アレクサンダーはため息をつく。
「勘弁してほしいよなぁ、こっちは折角昨日レッドキャップ事件を終わらせたってのに…」
此処一月ほど地下の下水道を駆けずり回る事になった事件を思い起こし、テオドルフも顔を顰める。
警察組織とも連携を取り、黒幕と後処理を終わらせたのが丁度昨日だ。
「…浮かんだ女の腹は切り裂かれて子宮および卵巣が取られてたってよ」
「被害者の女性は?」
「名前はレナ。姓はない。典型的なストリートチルドレンからの売春婦。おおよそ十八歳。最後に会ったのは同業者で、その日の客は彼女が来ないことに苦情を言いに来たそうだ。客との待ち合わせは夜九時だった」
すらすらと被害者の情報を告げる副官にテオドルフは食事をしながらも考え混む。
「今のところ、『オリジナル』の確証は無いか…」
「まぁな。腹を割いて内臓を取り出すだけならたいしたことは無い。今ヤードの連中が検死してるそうだ」
和やかなはずの昼食時だが、血なまぐさい話題はこの事務所ではいつものことだ。
「今は報告待ちか…。また被害者が出ないと良いが…」
テオドルフはぱくりと布のようなものに包まれた米を口に運んだ。
甘塩っぱいソースのしみこんだそれに酸味のある具を混ぜ込んだ米がよく合う。ナスは酸味とレッドペッパーが口をさっぱりさせ、鳥は甘辛いソースがふっくらとした肉に絡んでいた。
「第一発見者と共に被害者の親しかった娼婦や客連中にも聞き込みをしているそうだ。夜には報告が上がるだろ」
言いながら、アレックスの視線はちらちらと弁当に向けられる。
「なあテオ…」
「駄目」
にべもなく断られたアレックスは、明日は弁当を頼もう、と心に決めた。
「失礼するよ」
町中のガス灯が光る頃、テオドルフは昨晩に続いて『ごはんやさん』の引き戸を開けた。
「いらっしゃいませ」
昨日と同じく、咲が笑顔でカウンターから出てきて出迎える。
「また来て下さったんですね。ありがとうございます」
にこにこと愛想良く笑う咲にテオドルフもふっと表情を和らげる。
テオドルフから外套と帽子を受け取った咲が、ポールハンガーにそれらを吊した。
「【あーら、どこの野良犬かと思ったら、ワーデンの熊さんじゃない】」
ぱたぱたと調理場に移動する咲を眼で追っていると、カウンター席から声を掛けられた。
テオドルフは「しまった」と思うのと同時に感心した。彼は完全に気配を消して待っていたのだ。
「【これは、サー・リー。良い夜ですね】」
話しかけられたのと同じホァンロン語でテオドルフは答える。
「サー」と付けられたとおり、その人物は男性だ。だが、一見してその判別は難しい。
何せ、チュワン・ロンディニウム支部のボス、セシル・リーはいつだって朱色の絢爛豪華な旗袍に身を包み、蠱惑的な唇に紅を引いているからだ。
「【それにしてもご熱心ね。昨日の今日で昼食だって頼んだんでしょう?】」
セシルの手にはガラス製のコップがあり、透明な液体が揺れている。
艶やかな金色の髪をホァンロン風にまとめ、緑柱石色の瞳の周りにはこれも朱が引かれている。
「………・」
「【ワーデンの熊さんはミズホ贔屓なのは知ってるけどね。……本当にそれだけ?】」
猫の様に光るそれが、テオドルフを見つめて細められる。
「【何がおっしゃりたいのです?サー】」
自身も席に着き、ホァンロンの言葉が分からない咲からそっと温かなタオルと水を渡される。
「【ここは酌婦もいないし当然ウリもやってないわ。変な気起こす前に一言言っておかないとって思ったのよ】」
くいっとコップを煽るとセシルは咲にミズホ語で声を掛けた。
「『お咲ちゃん。お酒もう一杯ちょうだい』」
「『はい、ただいま。こちらの辛口吟醸でよろしいでしょうか?』」
母国語で話しかけられた咲は親しげにセシルに酌をする。
ミズホ語を学んだことはあったが、実際に話すことは無かったテオドルフは僅かながらに疎外感を覚える。
確かにこの店のいわゆる『ケツ持ち』はチュワンであり、そのボスであるセシルと面識があっても可笑しくは無いのだが、どうにも二人にはそれだけではない親しさがあった。
「ミズ・ツタキ。こちらのサー・セシルとはお知り合いなのでしょうか?」
悠々とコップを煽るセシルに、何故だか胸騒ぎを覚えながらテオドルフは咲に尋ねた。
「もうしわけありません、フォルシュテッカー様。ミズホの言葉で会話してしまいました。…はい、リーさんは昔良く父の店にきて下さったお客様なのです」
ご注文をお聞きしますね。とのんびりと笑いながら咲は答える。そして、少しだけ困った様に眉を寄せながら、続けた。
「私がロンディニウムに来て、店を持とうとあれこれ困っている時にリーさんに沢山助けていただいたんです。この店を持てたのも、仕入れ先を斡旋して下さったのもリーさんなんです。…だから、リーさんは私の大切な恩人なのです」
確かに密貿易でホァンロンを中心にミズホ神国、アルビオン連合国、シンドラ国で活動し莫大な財を築いているチュワンならば、遠いミズホ国の食材も手に入れやすいだろう。
「【先に言っておくけど、変な勘違いしないでよね。アタシはこの子の味とこの子の父親に世話になったから手を貸しただけ。げすの勘ぐりをしようがモンならアンタの股間にぶら下がってる玉ねじりきるわよ】」
表情も語調もおだやかに、けれど物騒なことをセシルは言った。
「はい。魚料理と煮込み料理ですね。かしこまりました。少々お待ちください。あ、フォルシュテッカー様。主食、ええはい、お米になりますが。分かりました。おにぎりですね。はい、今すぐ」
その間にもテオドルフは咲に注文をする。
のほほんとした穏やかな笑みを見ていると、どうにも気持ちがほぐれてしまって、自然と緩んでしまいそうで彼は口元を引き締めた。
「『お咲ちゃん。こいつにもお酒おねがい。うんと高いので良いから』」
「『かしこまりました。リーさんはフォルシュテッカー様とお知り合いだったんですね。』」
にこにこと楽しげにミズホ語で二人は会話する。
「『そうよぉ。ちょっとした仕事でね、顔を知ってるていどだけど』」
「『そうなのですね』…フォルシュテッカー様。こちら、米から作った酒になりまして、キリッとした辛さとすっきりした甘みのあるお酒になります」
と咲は後ろの棚から一抱えもある瓶を取り出して、セシルの持ったコップと同じ者を、木製の四角い器の中にいれると、コップからあふれ、木の器にこぼれる程に注いだ。
「酒精が強いですから、ゆっくりとお楽しみください」
透明だが、果実のような匂いのする酒をテオドルフの前にそっと差し出す。
おそるおそる、テオドルフの手にはおままごとの玩具の様に見えるコップにくすりと咲は笑うと、てきぱきと調理を始めた。
煮物だろう鍋に火が入れられ、まな板の上には薄紅色の魚が乗っている。
その鱗を丁寧にそぎ落とし、鰭をおとすと頭に包丁を入れた。
綺麗にとれた頭は別のボウルに移し、咲は手際良く内臓を取って身を洗い、三枚に下ろした。
島国であるアルビオン連合王国でも無論魚は食べられるが、こんな風に間近で手妻のように魚が調理されていく所を見るのは初めてだった。
骨を取られた身は、切り落とされ塩をふられて串に刺されていく。
それをパチパチと燃える炭火で炙るのだから、実に美味そうな匂いがしてきた。
ぐう、と喉が鳴りそうになるのをテオドルフは堪える。だがその様子はセシルにも咲にもお見通しらしい、くすっと目が合うと二人は笑った。
「はい、今日はお腹いっぱい食べてくださいね。色んな料理を楽しんでいってください」
暖まった煮物料理は、牛のすじ肉とカブだろうか?元は白かっただろうそれがスープによく煮込まれて、美味そうに茶色く染まっていた。
「大根と牛すじの煮込みです。お好みでこちらの調味料―「七味」 と言いまして、唐辛子などの七つのスパイスを合わせたものなんです―を掛けて召し上がってください」
同じものがセシルにも出され、彼もまた相好を崩しながら箸で器用にソレを口に運び始めた。
箸の練習をもっとしておくべきだったと思いながらも、テオドルフも口に入れる。
柔らかく煮込まれた牛すじ肉はもちろんだが、肉の旨味を存分に吸った『大根』とやらが美味い。
セシルのまねをして二口目に七味とやらを掛けてみたが、ただ辛いだけ無く様々なスパイスの香りが合わさって清々しさがあった。
気をつけていたのに、どうしても口元が緩む。
「ふふ」
と咲が笑った。
視線を上げると、穏やかに、嬉しそうに彼女は微笑む。
「お客様が、美味しいって思ってくださるのが、一番の幸せですから」
黒い紙のようなものをまかれたおにぎりが、とん、と置かれる。
「巻いてあるのは海苔と言いまして、海藻の一種です。どうぞそのまま召し上がってください」
嬉しそうに笑いながら、咲は串を回して火加減を調整する。
嬉しそうに目を細める異国の女性は、どこか儚げで、けれど美しいと彼は思った。