堕落
覚悟を決めた途端に丁度良い依頼が舞い込んだ。
殆ど前回と同じ――呪竜絡みの案件だ。何でも地下の廃神殿を拠り所にしているらしく、地中から人間を攫い喰らうのがやり方らしい。
被害レベルは五つ星。そこは前より一段階上だ。
「塗り替えるのにはもってこいね」
呟いた私は一人で飛び立った。
リシェラは部屋で留守番をさせている。だから私の背中を撫でるのは冷たい風だった。
「大丈夫、前に戻っただけ。これが正しいんだから」
まじないのように言い聞かせ、胸を数回叩いて前を見た。
薄暗く埃臭い階段を下っていく。ススに塗れた扉を開ければじめっとした空気が身体を包み込んだ。
カーラム地区の時のように瘴気で前が見えないということはない。小さな光でも灯せば、十分行先を見渡せた。
「……意外と大したことないのかもしれないわね」
いつもならリシェラがぺちゃくちゃと喋っているので、無性に静かさが気になった。
正直、リシェラとの関係をどう終わらせるかは答えが出ていない。契約は戻さないにしたって、対価と身体を与え続けるのが良くないことだとは理解していた。
じゃあ、倒す……?
現段階ではまず無理だろうなと思った。
リシェラは、憎たらしいが上級内でもかなり上位に相当する戦闘力を有していた。
身体だ色欲だと私の言いなりになってはいるが、本気で牙を剥かれればひとたまりもないはずだ。
何がそんなに気に入ったんだか……。
私はふとガラスに映った自分を見た。灯りに照らされてぼんやりと、不安げな顔が浮かんでいた。
ハッとして首を振る。
「なに考えてんだ!」
集中集中と気を入れ直して、歩みを進めていった。
モヤッと瘴気を漏らしたいかにもな扉にぶち当たる。
微かに臭気を放っていた。
怖いなんて何度も感じて来た。でも助けてなんて言っても誰も助けてはくれないから、私はいつだって前に進むしかなかったのだ。
扉に手をついて押していく。
建て付けの悪い嫌な音を立てながら戸が開いていった。
数歩歩けば、勢いよく扉が閉まる。思わず肩を震わした。
「なによ……」
流石に室内は黒々と瘴気が蔓延して見通しが悪い。手で払いつつ足を運んでいけば、前方から二つの閃光が輝いた。
足を止めて息を呑む。かなりの巨体だった。
『自ら立ち入る人間がいるとはな』
耳にビリビリとうるさい低音のしゃがれた声だった。
右手に力を流し、術を放つ準備を整える。左手は腿につけた短剣にかざした。
ギロリと鋭い視線がこちらを向く。短剣への魔力付与による閃光が走った瞬間、これまた風の立つ轟音の笑いが部屋に響いた。
『そうかそうか、中々の腐臭が鼻に付くとは思ったがその力、貴様聖女か』
だったらなんだと睨み付ける。
「腐臭とは、お前に言われたくはないな」
『なに我のものでもあるまい』
その言葉が放たれると同時に足先に異物が当たる。ぐにっと足が沈み、咄嗟に退いて視線を落としてみれば、それはまだ死後も間もないだろう男性の死体だった。
ゾワッと全身に冷気が走る。
殆どが骨と化した屍人や異形化した死人ならば見慣れていた。けれど、こうも生々しい死人を目にしたことがなかったのだ。
気が付けば辺りは同じような死体がゴロゴロと転がっていた。黒々としたものや青くなったもの、状態に差はあれど今まで見てきたものよりずっと人らしい姿の死人であった。
『少し経ったものが好みでな。こうして転がしてるのよ』
「悪趣味な……」
呟いた言葉に再びガハガハと空気を揺らす笑い声が立つ。
『貴様は臭すぎて食えたものではないがな』
「光栄だわ」
『なに、爪研ぎ程度には使ってやろう。すぐにくたるなよ』
ニィッと笑んだ呪竜の手爪が迫り来る。後ろに避けるも、ドロドロとした火球を上から吐き落とされた。
「聖なる暴風」
巻き上がる竜巻が火球を上に追いやり消え失せる。
すかさず短剣を抜いて、再び迫る腕に投げ付けた。シューッと音を立てて、呪竜の一部が溶けていく。しかし、苦しさの一言も漏らしはしなかった。
『なるほど中々』
味わうような声を耳に受けながら、もう一本を手に持った。目玉にでも当てなければ動きを封じられはしないだろう。
絶え間なく降り注ぐ火球を避けつつ、距離を詰める。丁度真っ向から流れてきた腕を伝って、眼前へと飛んだ。
目玉に打ち込んで怯んだところを、浄化する。それで終わりだと、かち合った瞳に笑い掛けた。
「終わりね」
片目に短剣を打ち込む。ついでにそのまま額に向かって引き裂いた。
黒い血が吹き出した。呪竜の鼻先を蹴って距離を取り、手をかざす。
「悪きに囚われしその魂よ我が聖にて辿り正しき姿に還りなさい」
言葉に従い呪竜の身体はまるで焼かれるように煙が立ち上がる。
苦しげな呻きが鳴り、地に下りて憐れな呪竜見上げた――刹那、降り立った場所が沼のように沈んでいく。飛び退こうとするも、あっという間に腰まで呑み込まれた。
「――っな!」
胸に控えた短剣に力を宿す。慌てて地に突き立てた。
しかし容易く弾かれる。どんどんと身体を呑み込んでやっと顔を出す程度になった。
『流石にまずくて敵わん』
声と共に脚に鋭い痛みが走った。何かに切り刻まれるようにチリチリと、呑み込まれた全身に及んでいく。
「――に、これっ」
『放っておくのも目障りだからな、溶かしておるのよ』
「溶か……っあ!」
呑み込まれた身体が異様に熱く火照り出す。汗が吹き出し、必死で手を掻いた。
『足掻いても無駄よ、抜け出せまい』
「ぐぅ……っう……そんな……こ……とは」
腕に力を入れる。持ち上げようとするも、身体は吸い込まれるように戻っていく。足掻くように顔を上げれば、悍ましい光景が目に入った。
「お……前……それ……っ」
あろうことが呪竜の身体はボロボロと剥がれ落ち、中からまるで無傷の真新しい身体が現れた。あれだけズタズタに引き裂いた目玉も、綺麗な球体をギョロギョロと動かしていた。
『悪魔とつるんでいると聞いたから警戒しておったが一人とは、我も舐められたものよ』
「あ……くま……」
リシェラ――
リシェラのことだ――
リシェラだったらこんなやつ簡単に引き裂いて、リシェラだったらきっと笑って弱かったねって言うんだろう。
こんなボロボロになることもきっとなかった。
こんな苦しくなることなんかもない。
リシェラだったら――リシェラがいたら、こんな辛くて怖い思いはしなかったのに。
「い……たい……」
全身は焼かれるように痛かった。
声に出せばここまで溜めたものが溢れ出す。情けなくも涙が落ちていく。
「痛い……痛い……痛い……痛い痛い痛い痛い」
『無様よな』
呪竜の爪が目の前に突き立てられる。大きく迫るそれに喉から引き攣る音がした。
『耳障りだ』
一度引かれた腕はすぐに狙いを定めて風を切る。
怖い。怖い怖い怖い。
「……た……す……けて……」
死にたくない。まだ生きてたい。
そんなことを思うようになったのはいつからだっただろう。
いつから助けを求められると思ったのだろう。
「……だれ……か……」
そう言葉にした瞬間、私の脳裏には確かな存在が浮かび上がった。
「リシェ……ラ……」
お父様にもお母様にも助けは求められなかった。
他の聖女にだって騎士にだってできなかった。
私は立派な聖女だから。
誰もが憧れる――最高位の聖女だから。
叫んだって誰も助けられはしないはずだったから。
「リシェラ、助けて……、怖い! 助けて!」
叫んだ。まだこんな叫べるんだと思うほど無様に叫び散らした。
呪竜は馬鹿にしたように大きく笑う。空気を揺らして響かせて、それでも私はリシェラを呼んだ。
「リシェラ! 助けてぇ!」
『すぐに助けてやろう。痛みも悲しみも喜びさえも――ッグア!』
大きな血飛沫が立った。
私の顔にもベトベトと飛んできて、その先では巨大な体躯が天を仰いでいた。
私に向かっていた爪も天を差している。
収まる飛沫の中では刈り取られるような裂傷が走っていた。
ドシンと重たい腕が落ち、その風圧で淡紅の髪が揺らめいた。
「汚い手で私の主人に触るなよ」
『主人? 悪魔が人間の犬などとは笑わせる。そんな不味い人間の何処がいい』
「お前五月蝿いな」
リシェラは長い爪を光らせる。呪竜も転げた頭上にドロドロと蠢くマグマ溜まりを形成し、辺りを茜色に染め上げた。
『いいだろう。例え悪魔とて人間につくのなら、我が深淵の炎で共に燃してやろう』
それは更に大きく膨らんで、沸々と火花を飛ばしていた。
けれどリシェラはまるで平然に呪竜へと距離を詰め――
「そんなぬるいので焼かれるかよ」
呪竜の上に大きな穴を出現させた。そこから影で出来たような大きく凶器じみた手が現れる。
火球が破裂すると同時――その手は呪竜もとろも包み込む。
『ァァ……ッガ、ァ……』
先程まで悠々と宣っていた声は悲痛な叫びとなり、ややあってその手はいとも容易く火球と竜を握り潰して消し去った。
指の隙間から微かに燃えるような液体が溢れ出す。けれどそれも術者の命が尽きると共に、光を失い静かに消えていった。
私も地より吐き出される。キリキリと熱い身体は這いつくばるように投げ出された。
静かな空間だった。数秒前までの出来事が幻かのような。
私は軋む腕で顔を上げ、佇む後ろ姿に目を遣った。
「……リ、シェラ」
呼べば静かに振り向いた。その表情はバツが悪そうで、怒られる前の子供みたいな顔だった。
ツカツカと真っ直ぐ私の元へ歩いてくる。這う私の前に手を差し出した。
「立てる?」
私は手を取った。それだけジワジワと傷口から血が流れ落ちた。
「無理しないで」
「……だい、じょうぶ」
殆ど引かれるようにして身体を起こし、立ち上がった。
「……ごめん、来るなって言われてたのに」
リシェラはそっぽを向いていた。そっぽを向いて小さな声で私に謝った。
「別にフィーナを信じなかったわけじゃないけどさ、でもやっぱり気になって」
「きに、なる……?」
「うん、だってフィーナ、初めて会った時もボロボロだったでしょ。脆いくせにすぐ無茶するから……」
「脆い……」
「あっ別に、弱いとか言ってるんじゃなくてだよ! でもさ、やっぱりほら食事の件もあるし――って、ええっ⁉︎」
抱きついたリシェラは温かかった。温かくて涙が溢れ出た。これはさっきのとはまるで違っていた。
安堵の涙だった。
「心配、した?」
「えっなに?」
問えばリシェラは戸惑うような高い声で狼狽えた。
けれど私がリシェラに強く抱きつけば、リシェラは小さく息を吐いて落ち着いた声を落としていった。
「そりゃあ、まぁね」
リシェラはポンポンと私の頭を撫でた。
「私さ、弱いよね?」
「そうだね」
「私さ、立派なんかじゃないよね?」
「そうだね」
「ねぇリシェラ」
「なに?」
「私を怖いものから守って。辛い時には側にいて。ずっと離れないで」
しがみついた手をゆっくり肩へと移動させて握り締める。顔を上げ、リシェラの目をつめた。
「私と契約して、もう一度」
告げればリシェラは目を細めた。美しい薔薇色の瞳には、涙でぐちゃぐちゃになった情けない私が映っている。
リシェラはうっとり頬を赤くした。顔を少し傾けて、包まれるように唇を奪われた。
熱いものが割り入ってくる。
でも、嫌じゃなかった。
怖いものが全て消されていくようで気持ちがいい。
私を溶けて甘やかす、唯一の温もりだった。
離された唇は綺麗な弧を描く。リシェラはうっとりと微笑んだ。
「言っておくけど、もう絶対に離してあげる気はないからね」
ぼんやりする頭、少し乱れた息。私はそれらを幸せに感じつつ、小さい笑みを浮かべてみせた。
「うん」
「じゃあ、帰ろっか。私たちの部屋に」
リシェラは私を抱きかかえた。
見下ろして微笑まれて、私はリシェラの首に手を回した。
「リシェラ」
「なに?」
相変わらず笑っちゃうほど呑気な声が返ってくる。
そんなリシェラの顔を手で寄せた。
少しだけ顔を捻る。目を閉じて、唇を寄せた。
「――え」
とぼけたリシェラの声を聞きながら、私は初めて私からのキスをした。
「な、なにこれ……」
いつかの私みたいなことをリシェラは口走る。淫魔の癖にリシェラが顔を真っ赤になんてするもんだから、こっちまで恥ずかしくなってくる。
「ご、ご褒美」
そんなことを言っておけば、リシェラは何度か「そっか……、ご褒美、ご褒美かぁ……」唱えるように呟いていた。
それから私たちは二人の部屋へと帰っていった。
ボロボロになった私は再び寝たきりに。
暫くの間はリシェラにお世話される日々を過ごすことになった。
そうして時は流れ、約二ヶ月後。
リシェラはニマニマと笑って私に擦り寄った。傷はもう殆ど治っていた。
「ね、フィーナ」
「なによ」
ベッドの上から星空を眺めているところだった。リシェラは私に向き合い、ジッと見つめてくる。
なにか嫌な予感がした。
「ちょ……ちょっと、なに?」
私の焦りなど構わずにリシェラは真っ向から距離を詰めてきた。
「私、頑張ったからさぁ……」
読めた先にごくりと唾を飲み込んだ。同時にリシェラは舌舐めずりをする。その瞳からは、これでもかというほどの情欲が滲み出していた。
彼女は私の肩を捕らえて押し倒す。
「ね、ご主人様。ご褒美ちょーだい?」
「で、でも……まだ……」
「もう無理」
直後、リシェラは返事も聞かずに私の唇を奪い去った。
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