ショート日本の歴史 第5回 尊王攘夷
江戸時代も終わりに近づいた時、太平洋の海原から山のように大きな黒い船がやってきました。
嘉永6年西暦1853年、その時から日本中が上へ下へと大騒ぎの時代へと突入していきます。
その時、幕府はこのペリー来航の外圧に対してどう対応すべきかという問題を、
外様大名を含め諸藩に案を求めました。
そのような他藩に意見を述べさせる事など今までの幕府政治には絶対に無かったことです。
その時、異国の船を打ち払えという意見が飛び出します。
その後の日本中を酔わす“尊王攘夷“というスローガンで日本中が狂い出すのです。
初めに狂い出したのが本来幕府を守護する家柄であるはずの徳川御三家の一つである水戸藩
この水戸藩2代目藩主の水戸黄門こと徳川光圀にはよって始められた歴史書 大日本史 の編纂を
代々に引き継ぎ第9代藩主 徳川斉昭の元で尊王攘夷思想を発展させていきました。
しかし、その発展が過激すぎて、その結果、有名な桜田門外ノ変で老中の井伊直弼を殺害したり、
水戸藩内の派閥争いで挙兵するなど過激なテロリストと化し、
世の中が倒幕に動く頃には疲弊して時代から取り残されてしまいました。
その後、尊王攘夷の旗の下、飛び出してくるのが、毛利 長州藩と土佐藩の土佐勤王党。
長州藩士吉田松陰が外国と戦うためには、その外国に行って学ぶことが近道であるという、
現代で言えばまっとうな判断で夜中にペリー率いる黒ぶねに乗り込みアメリカへの密航を企てます。
しかし、追い返され失敗。
当然幕府の目につく事となり、江戸幕府大老、井伊直弼“安政の大獄“で処刑されます。
しかし松下村塾の生徒でもあった久坂玄瑞らが松陰の思想を強く受け継ぎ、
長州藩を尊王攘夷の一大拠点としていきます。
しかし、この長州藩、尊皇に熱くなりすぎ、幕府はもちろん、薩摩藩、会津藩などの他藩
そして、なんと最も強く求愛した孝明天皇にまで疎んじられ、京都を追い出されてしまいます。
怒った久坂玄瑞や来島又兵衛などの過激尊王攘夷派が京都の孝明天皇に訴えるために
武力突入した蛤御門の変を起こしてしまい、ほとんどの長州過激志士は死んでしまいます。
その日を境に日本中の尊王攘夷派が弾圧されていきます。
特に土佐藩の弾圧は凄まじく武市半平太を首領とする土佐勤王党の殆どは拷問
処刑されてしまいました。
この蛤御門の変を境に、過激思想としての尊王攘夷というスローガンは消えていきます。
この尊王攘夷というスローガンはここから大開国 大攘夷 へと変化していきます。
つまり国を開いて外国の進んだ技術を学び富国強兵を推し進め西洋の圧力を跳ね除ける
というスローガンでより現実的に変化していきます。
そのスローガンを達成させるためには幕府を倒せという倒幕という目的へと
薩摩藩、長州藩で変化していきます。
つまりは熱い思想から現実的な政治へと変化したのです。
明治維新がなった時、激アツな尊王攘夷を謳った志士たちは殆どが死に絶えていました。
変わって、伊藤博文を中心とする現実派が生き残り日本の舵取りをしていく時代になるのです。
後日談です。 悪評高いダンスルーム鹿鳴館での一コマ
外国の公使を招待してのパーティで、初代総理大臣の伊藤博文(外務卿の井上馨との説あり)
の耳元にイギリスの公使が
「総理もお若い頃は攘夷で大暴れしていたそうですね」
と言うと 伊藤博文はウィンクをして
「あの時はああでなくては ならなかったんじゃ!」
と苦笑いしてたとか。
長い日本の歴史でスローガンに酔い、そのスローガンの元、一体となって熱くなった
事は、この尊王攘夷以外にあったのでしょうか。 今の私には思いつきません。
ふとスローガンの和訳は?と思い調べてみました。
合言葉 お題目 旗印 標語 などなどと出てきました。
では 尊王攘夷という言葉 文字は一体何、と首を捻ってしまいました。
すみません 今の私には日本の歴史で唯一
“日本人の心を命を賭けるほど揺さぶったなにか“
としか答えられません。