ディストピア
ユートピアかディストピアか
ディストピア
「誰にも恥じることのない人生を送ってきました」
高安泰彦
いっしょ‐けんめい【一所懸命】名
? 中世、生活の頼みとして、命をかけて所領を守ろうとすること。また、その所領。→一所懸命の地。
? (形動) 生死をかけるような、さし迫った事態。命がけのこと。また、そのさま。必死。一生懸命。《日本国語大辞典》
三十二歳で○○銀行与那支店副支店長になった高安泰彦の座右の銘であり、朝一番にパソコンの辞書を開いては彼の美学を眺めて、気合いを入れて仕事に奮起するのである。
彼は二十五歳で専務の姪と結婚した。専務の親戚なら文句はない、願ったり叶ったりで、健康な女性であれば容姿などは結婚の条件にはなかった、どうでもよかった。身長が高かったのは思わぬ儲けものであった。顔は世間の評価では普通の下だ。
顔で結婚相手を選ぶのは馬鹿に見える、選ぶのは、相手の両親の富、地位、家柄のいずれかを選ぶ、三つ揃うのが一番よいが、世間にはそう転がってはいず、確率が低い。
それに泰彦の父は平のサラリーマンで、母親は農家の出で専業主婦だ、いい条件の家が選ぶ相手でもない。
敵を知り己を知れば、百戦百勝危うからずだ。そのような状況では一にも二にも上司に自分を売り込み、気に入って貰うことが先決だ。そこには上司のすべてを認めて歩み寄る姿勢しかない。喇叭を吹くのは役員になってから思う存分やらして貰う。それまでは取り入ることに一意専心する、これが私の選択である、迷いはない。
結婚して二年目に長女を、それから三年後に長男が誕生し、打止めにした。子供のことで余り手を煩わせたくないからだ。
入行したならば頭取とは言わぬまでも役員を目指す、そうでなければ夢中にはなれない。仕事が生き甲斐であり、それに付随するのが家庭である、家庭を持てば、職場の上司の見る目も違ってくる。
行き当たりばったりの人生設計では余りに能がない、プランとビジョンこそが肝心要なのである。
食事は専業主婦が作るので手間が省ける。一日中、仕事のことを、出世のことを考えていたい。生き馬の目を抜くビジネス、それが禁断の味のように蜜よりも甘く痺れるのだ。
泰彦は大学時代に勉学も励んだが、同様にゴルフにも力を入れた。アルバイト代はゴルフに消えたが、それでも惜しいとは思わなかった。
就職すれば接待ゴルフという言葉があるように接待の要となるのはゴルフである、上手に負ける腕までないと役には立たないので、真剣に励みスコアが七十台にまでになった。
出世競争こそ、生きている醍醐味であり、一所懸命できる唯一のものである、それがなければ若くして余生を送るようなものだ。それは蛇の生殺しのような人生に過ぎない、いつまでも不完全燃焼だ、点いたかと思うとすぐ消える火だ。
そのような人生の何処が面白いのだろうか、価値があるのだろうか。どうであれ、私は我が道を行く、他人のことなど気にしても時間の無駄だ、そんなことより明日のお得意さん巡りのことを考えよう、それが建設的だ。
安里さんを煽てて融資を増やし、工場を拡張させること。だが不景気で業績は伸びない。二三年で赤字に転落し、工場は過剰投資で安里鉄工所は破産し、担保にしている土地を貰う。そこは与那町の一等地で、田崎開発が喉から手が出るほど欲しがっている物件だ。土地を回すだけで、億の儲けが出て、泰彦の銀行での株は上がる。
安里さんは従業員にはいいが、社長には向かない、余りに人がよく疑うことを知らない、石橋を叩いて渡ることがない、他人の進言を鵜呑みにして信じ、ついつい承諾してしまう。いずれは潰れる上里鉄工所の引導を渡すのは泰彦となるだろう。
弱者は消え去るのみ。
新川組はこの町で一番の稼ぎ頭であり、将来有望の会社だ。県内で五本の指に入る企業になるだろう。
社長とは同じ大学で懇意にして貰い、借入も年々膨らんでいる。
新川組のゴルフコンペにいつも招待されている。お得意さんを全県に広げる場でもあるのだ。いいクライアントには労を厭わずに尽くし続け、焦げ付きそうになれば損が出る前に迷わず切り捨てる、シビアでなければ生存競争には勝てない。
金曜の夜には軍用地の大地主であり大口預金の与座さんを高級クラブで接待する。七十を過ぎるが健康で長寿の血筋で長いお付き合いをしなけばならない。若い女性にちやほやされるのが若さを保つ秘訣らしい。
土地の購入では資金が潤滑なため当てにできるお得意さんである。息子にも手を打ってある、万が一、急死したときの予防線だ。
万事を計算尽くで臨機応変に動く、それがビジネスのイロハだ。
常に先々を読まなければ、同僚を出し抜くことなどできない真剣勝負なのだ。当然敗者は出世レースから脱落していくことになる。それは人生の敗北者を意味し、一生平で会社のお荷物と呼ばれ、半端な仕事を回されながら定年まで働くことになる。
とてもじゃないが、針の筵に坐ることなどできない、屈辱の極みである。
それ故に常に全力で勝負する、力を抜くなどと馬鹿な真似はしない。一生を左右する一瞬一瞬なのだ。
座間味商事の副社長から現金で百万どうにかならないかと、泰彦のスマホにかかってきた。声が震えていた。
「どうしたのですか」
「クラブ・マリアンのミカの男が出てきてやばいことになっている。百万で手を打ってくれるそうだ」
「分かりました、すぐに向かいますから」
副社長は座間味商事の創立者、社長の長女と結婚して婿養子になった。それ故に奥さんにばれたら、ただではすまない、支店に飛ばされる、もっと非道いときには離婚され解雇される、そうなれば路頭に迷うしかない。そこそこの名のある会社の元副社長までやり、平の社員からの勤めはできない。
さんざん甘い汁を吸ってきた婿養子でしかないのだ、実力でのし上がったわけではない。
カードはブラックを持っているが、多額の引出をすれば月々のカード会社からの報告で、奥さんにばれてしまう。副社長は現金は月三万円しか持たせてもらえないのだと聞いた。それぐらいは耐えて当たり前だ、何をしなくとも、いずれは社長になるのだから。
「ラビリンス」という喫茶店はいると奥の方に副社長と十代に見える女と美人局らしき安っぽいアロハを着た強面の男が向かい合って坐っていた。副社長は泰彦を見ると立ち上がって迎えた。
「いいですか、これっきりです。もし又脅迫をするときは警察に訴えますから」と泰彦は男の顔を凝視した。
「私も馬鹿じゃないんで、この商売を末永くやりたいので、引き際は知っています」と百万円の入った封筒を受け取り、中をちらっと見て、笑顔で男と女は出て行った。
副社長を「恩に着るよ」と泰彦の両手を握った。
これで座間味商事の情報は逐一入ってくる、そしてメインバンクはいずれ泰彦の務める銀行に代わる。
取引先となる相手とは公私を厭わず奉仕する、それが相手の懐に入る秘訣だ。入ればこちらは経営の顧問となる。
「一日も早く座間味商事の社長になって下さい」と泰彦は席を立った。
たとえ凡庸でも、社長になるためには婿養子にでもなる、手段を選ばず、どんどんのし上がっていけばいいだけの話だ。成功すれば色事は美談として語られるのだ。とにかく鶏口となるとも牛後となるなかれだ、より大きい物の頭となれだ。
今日は日の出産業社長の尊父の米寿祝いの日だ。泰彦は充電可能な電動爪削りをカード付きで送った。お年寄りの爪は巻き爪や変形しているのが多く、普通の爪切りでは切りにくい。しかし、削ることは容易い。ちょっとしたアイディア商品で、一般には知られてないので喜ばれるし、印象に残る。
北部に広大な産廃場を造る予定だという。投入資金は大きなものとなる。そこに当行が貸し付けをする。水面下では二年ほど前から接触している。是非とも物にしたい案件である。
過不足なく人生を送る、生臭坊主の世迷い言、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。何処まで上り詰めるか、それこそが充実した人生なのだ、中途半端の何がよいのか全く分からない。
箸を付ければ食べきる、そうでなければ箸を付けない。
それが泰彦の人生訓だ。
国会議員夫人の喜屋武節子さんの水彩画の個展が那覇美術サロンで開かれている。午後七時のオープニングセルモニーに出席し、喜屋武国会議員と大型店舗誘致の件で談笑した。一、二年で与那町への誘致が決まるだろうとのことだった。泰彦は新川組を印象づけた。
それから夫人のところに行き、那覇市の裏通りの絵を購入した。
「ユトリロの絵を彷彿とさせますね」泰彦は褒めた。
「まあ、購入して貰った上に、褒め言葉まで頂いて。でもユトリロは私の好きな作家なのよ」夫人は笑った。
魚心あれば水心だ。
土曜日の午後、泰彦が公園のベンチに坐ってフライドチキンの腿肉にがぶり付いていると、若い女性が足を止めて、「おいしそう、頂戴」と言った。
泰彦は慌てて首を横に振ると女性は平然と去った。唖然となった。
「どこに行くのですか」と擦れ違った人が聞いてきた。
「君、また死ぬの」とダンプの出入り口の警備員が訳の分からないことを言った。
「何か言いましたか」と訊いた。
「二度は言わない」と警備員は薄ら笑いを浮かべた。
買い物帰りの見知らぬおばさんが「元気だった」と訊ねた。
幼稚園児ぐらいの男の子がやってきて、「ねえ、ジャンケンしよう」と言った。
泰彦は奇妙な感じになりどうしていいの分からずたじろぎ、足早に逃げた。
家に戻るとすぐにカーテンを閉めたが、明かりは付ける気がせず、テーブルの前に坐り、今日の出来事を反芻した。
皆が私を知っているが私は知らない、そこに顔見知りなどいなかった。町会議員に立候補したこともない、それなのに皆が寄ってくる。おかしい、何かがおかしい。
ここに出てきて三年とちょっとで、生まれ育ったのはここから五十キロも離れた町だ。仕事が終わって帰れば、泰彦は隣近所との接触はなく引きこもり状態で日本経済新聞を読むか、地元紙の黒枠でお得意さんの関係者がいないかと確かめるだけだ。そしてゴルフ道具の手入れをしているかである。
有象無象のSNSも使ってないので、グーグルの検索に私の名前が出るわけはない。それなら誰が泰彦の情報を拡散させたのか。
『「口コミ」、誰かが私を監視している、尾行しているのか。現実的に有り得ないことだ。
車での銀行と家との往復に何ら面白い、人の興味を刺激するものはない。たまにコンビニへ自転車での買出しと散歩、これが話題になるのか。
遠くの人気者より近くの変人奇人、ごく普通のサラリーマンの私が変わり者、どういう感覚の持ち主だ、好奇心、しかし、噂で人気者になるとはどういうことだ、SNSなら誹謗中傷の拡散だろう、それが逆のパターン、謂れ無き賛美で世間の注目の的、今日のお昼にでもぶらぶらして見るか、それで話しかけた人に聞けばいい、馬鹿らしくなってきた』
泰彦はこういうことは考えすぎると泥沼に填まるばかりで、気にしないのが一番とそのことは忘れていた。
それから一月後、ジャージにTシャツ、サンダル履きで、泰彦は外に出た、風も吹き涼しく、散歩でもしようと思った。
「益々のご活躍で」
「何の活躍ですか」と泰彦は見知らぬ中年女性の言葉に驚いた。
「またまたご謙遜を、実るほど頭を垂れるですか。
川で溺れた子供を助けたそうではないですか、命がけですから。簡単にできることではありません、もっと堂々としてください」
「子供を助けた、何処で聞いたんですか」
「ご冗談を、町中この噂で持ちきりですよ。あら、約束の時間に遅れるわ、これで失礼します」
見覚えはあるが知人ではない女性は足早に去った。
「あの人だよ、拾った三百万を交番に届けたのは、私なら猫ばばするな、今時珍しい正直者だ」
『エイプリルフールか、違う、今日は五月十七日だ。だが、疑いつつも、褒められていい気分になる自分がいる。疑えば疑うほど、褒められた高揚感も増していく、夢、いや、夢なら二週間も続くはずがない。その間に銀行にも出ている』
「おめでとう、あなたが頼まれて買った二千坪の原野が町の団地建設地になって高く売れますよ、あなたは金運に恵まれている。
クルーズ船にでも乗って世界周遊旅行に出かけたらどうですか、仕事を辞めても一生安泰ですよ」
「そうですか、何処からの情報ですか」
「役場の助役からだよ、内緒だ、極秘だからね。あなたはいい人だから教えるんだ」
『金運まで転がり込んできた、七福神の大盤振る舞いだ』
いい人、面識もない私にそのようなことが言えるか、泰彦の善人説が流行なのか。
女子高生が二人歩を止め、泰彦を見ていた。
「アメリカでの高峰可奈子の心臓移植基金を立ち上げて募金を集め、アメリカで手術をさせて、成功させた人。
フェイスブックで一時話題になり、写真がアップロードされていたの、だから知っているの、ラッキーだわ」
聞きたくなくても話し声が大きいので聞こえてくる。私が心臓移植基金を立ち上げた、そのような手間暇のかかるものに関わるはずもない。こちらは仕事で忙しいのだ。
「写真を一緒に撮ってもいいですか、可奈子さんはお元気ですか」
どう答えたらいいのか分からない、皆がそう思っているが、その当人の泰彦のまったく与り知らない事だ、嘘は吐けないので、お辞儀をしてその場から離れた。
一人の男子中学生が頭を下げて近寄ってきた。
「先日は虐められているところを助けて貰い、助かりました。あれから虐めも止みました。おじさんの警告が効いたのでしょう。名前を聞きましたからね、学校と警察に通報されたら困りますから。
本当にありがとう御座いました」
『私が虐めに遇っている中学生を救った。面倒に巻き込まれるのは嫌で、見ぬ振りをして通り過ぎたはずだ。中学生と言っても、体格は大人だ、やられるのは私だ。触らぬ神に祟りなしだ、なのに救ったとは。人違いではないか。悪いことの人違いではないから結果由としよう』
今日、泰彦はやけに人と会う。出納長が右手を挙げて笑顔になった。
「高安さん、倒れた婆さんを病院まで連れて行き、病院代まで払ったそうではないですか。
仕事のできる人は人間もできているんですな、ほんとに感服しました。町長にも信用されていますし、非の打ち所がないですな、若いのにご立派です。
町民の鑑です」
『親切か、救急車は呼ぶだろう、見捨てれば保護責任者遺棄になる、そんなことでキャリアをふいにするのは馬鹿だ、だが病院までは行かないだろう。それでも善人となった私も結構愉快なものだ、これが悪人扱いならそうはいかない。ビジネスに支障を来す。だが得てして善人はビジネスに疎い、情に流されるからだ、ドライに割り切ること、それが肝だ』
泰彦は天を仰いだ。
「あの人よ、匿名で竹馬養護施設に百万もするピアノを贈った人、施設の人から聞いて、スマホの写真も見せて貰ったから間違いないわ。百万、私なら貯金するわ」
『全く身に覚えがない、施設を援助するのは町か県か国がすべきだ、私は自分に金として返ってこない行動はしない、金銭面でのギブアンドテイク、ウインウインでなくてはならない
精神的な満足などは一切認めない。だが誰かが私の評判を上げるためにしているのなら、別に止めはしない』
泰彦は横断歩道の途中で蹲っている老女を見かけた。周りには五人ほどいたが、真っ先に駆けつけ、声をかけ、負ぶって老女を横断させた。それから下ろして、大丈夫ですかと訊いた。
「ええ、大丈夫です、ちょっと立ち眩みがしただけです、ありがとう御座いました」
泰彦は「それはよかった」とその場を立ち去った。
『車に乗った人、横断歩道の人、その周りの人、人が多い。それは宣伝には持って来いである』
この老女は普通の身なりをしているが泰彦の与那町長者番付に載っている与那町の資産家である。比嘉邦子・七十四歳・それを知っての行動である。そうでなければ、別の人が動き出すのを待っていた。数ヶ月ほどして偶然に訪問したように比嘉宅を訪れ商談を進める。
『ぼうっと歩いては幸運の女神を捕まえることはできない、どこに大きな商談の機会が落ちているのか分からないのだ』
外に出ると褒められる日が続き、泰彦の耳に心地よく聞こえるようになり、それを聞く喜びは、普通となった。』
買い物かごを持った主婦二人が泰彦に会釈をした。
「犬を轢き殺したのよ」
「なにそれ、嫌だ」
「違うのよ、急ブレーキを掛けてハンドルを左に切っていたら歩道の三人の子供を撥ねるか、右に切れば対向車に衝突して、死亡事故に繋がるからなの。一瞬の判断よ。
誰にもできるというものではないわ。
怖いわよ、事故はいつ起こるか分からないもの」
「素晴らしい咄嗟の判断ね」
『全く身に覚えはないが、確かに犬を轢いても罪にはならない。しかし事故を起こせば前方不注意と言うことで罪になる公算が高い。
法律は犯さないのが保身になるからだ。それと不慮の事故に対処することができるということだ、右往左往しない』
日曜日だがゴルフの予定もなく、泰彦は昼食を家族と共に取っている。
妻の百百子が長女の雪子に何になりたいのかと訊いた。
「女医さん」
「それなら、いい中高一貫の進学校に入らないとな」と泰彦はさすが自分の娘、目標が高いと相好を崩した。
「太郎は何になりたいの」
「銀行員」と太郎は笑った。
「太郎は国家上級公務員になりなさい、それから政治家になりなさい。世の中を動かすんだ、ゲームより面白いぞ。選挙のために覚えやすいように太郎と付けたんだ。
政治家の名前だ、かっこいいだろう」と泰彦は真顔で言った。
「四歳の子供には分からない職業ですよ」妻が言う。
「それならお花屋さんや看護師でもいいのか」と泰彦は気分を害した。
「いいか、子供にでも、真剣に言って聞かせば、生長したとき、ふと思い出して励みになるんだ。昔話やお伽話、いい音楽のようにだ」
「そうですね、思慮が足りなかったようです」百百子はすぐに謝った。
泰彦は下手に意見を言うと、機嫌が悪くなり後を引くタイプなのだ。だからはいはいと頷いて聞いておけば波風は立たない。楽と言えば楽だ。
「兎に角、子供には繰り返して言い聞かせるんだ。
それと音楽と芸術は鑑賞するだけ、稽古事はさせるな、ただし習字だけはさせとけ。
少なくとも自分の名前が筆できれいに書けるぐらいはな。
字が巧いと頭がよく上品に見える」
「分かりました。雪子には習字教室に通わせましょう」
「禁止事項だ。文学、特に純文学に興味が行かないようにしなさい。世を拗ねて適応障害になられては困る。
特に太宰治のような文学は困る、何度も自殺されては大変だ。ドストエフスキーもだ、時代遅れの革命、悩んでばかりの思想家に走られても困る。
兎に角、純文学は駄目だ、危ない。特に高校の時に注意しなければならない。権力は悪いものと見なすだろう、それに反発する。それは間違っている。
権力者、官僚、政治家になって世の中を動かしていく人物になろうと努力すべきだろう、それが筋だ。
イソップ物語にもあるだろう。キツネが熟したブドウを見つけた。だがそれは手の届かない高いところにあり、手に入れることができない。そこであれは酸っぱいブドウだと言って諦めた。
世間には何も試みないで、権力を酸っぱいブドウだと思い込む人がいかに多いことか」
「私も賛成だわ、世の中を難しく考えて、結局何もしないで終わる。人生の負け組、子供達にはそんな人にはなって欲しくない」
「幼い頃からの家での教育こそが一番大事なんだ、変な純文学関係は我が家では禁止だ。
それとスポーツは見るだけ。甲子園に出るチームは一日中練習して、帰宅の後は眠るだけ、勉強などできるわけがない」
「運動は健康のためにするものよ、それで丁度いいぐらいだわ」
「体育、図画工作・音楽は並みでいい、健康的であればいい。
ゴッホ見ろ、生前に一枚の絵しか売れないのに生涯絵を描き続けて、死んでから有名になった。
人生は生きている内が花という意味だ」
「ご馳走様」と二人の子供は席を離れて、自分の部屋に戻った。
「勉強するんだぞ」と泰彦大声で言い、リビングへ向かった。
「ビール」
ソファに坐りリモコンでテレビを付けた。
「無能な国会議員が出ている。ちゃんと自民党員で審査をして、通過した者のみを国会議員選挙に出すべきだ。
ビールはまだか、何をしているんだ。買いに行っているのか」泰彦は苛立った。
「すぐに持って行きます」と言うが早いか、缶ビール五百ミリリットルとグラスをテーブルに置いた。
「時間が勝負なんだ、タイミングを間違えれば、計画は成立しない」
「はい、はい、分かりました」
「はいは一回、雪子と太郎が真似をするぞ。言葉には気をつけなさい。
蟻の穴から堤も崩れるんだ」
「はい」百百子はキッチンに戻り洗い物をした。
「百百子、枝豆は、ビールに付き物だろう。お前は気を遣うという事がないのか、言われなくとも分かりそうなものだが」
十分ほどして百百子が枝豆を皿に盛って持ってきた。
「ほんと、行き当たりばったりじゃ駄目なんだ。要領よくしなさい」
「分かりました」
百百子は泰彦が冷蔵庫を自分で開けるのを見たことがない。一体、実家では泰彦にどのような教育をしたのだろうかと訝ることが多々ある。お殿様でもあるまいしと舌打ちをするが、口に出ることはない。それを除けばできた夫だ。
「子供の教育に金を惜しむな。東大が一番金持ちの親が多いんだ。それだけ金を掛けていると言うことだ。
塾も大事だぞ、家庭教師でもいい。
要はいかに子供を勉強させるかだ。太郎には旧帝大に入って欲しい。それが無理なら私立の三教科の早稲田の政経学部、あくまでここは予備だ」
「そうですね、二人とも素直な子達ですから。期待に添えるようにします」
「ビール、空になっているのが分かるだろう、そういうところが百百子は抜けているんだよ、気配り、気配り」
百百子はビールを持ってきてテーブルに置いた。開けて次いでやろうかと思ったが、そこまでは媚びないぞと留まった。
「話は変わるけど、ご近所で私の噂話で何か耳にしてないか」泰彦は訊いてみた。
「悪いことでもしたの、何も耳にしないけど」
「ネガティブじゃなくて、ポジティブの噂だけど」
「まったく耳にしないわ」
「そうか、それならいい」泰彦は一口ビールを飲み、枝豆を口に放った。
出くわす人々からの身に覚えのないことでの賛辞が、今日は泰彦に喉に刺さった小骨のように気に掛かる。
『人々は暗に何かを言いたくて褒めているのか。しかし、そんな回りくどい言い方では本意は伝わらないだろう。褒めて、喜ぶ、戸惑うのを見てほくそ笑んでいるのか。
考えれば考えるほど可笑しくなる、しかし考えずにいられない。それが狙いか。出世競争で私を蹴落とすために、山城信也、新垣周治、坂本公義、彼らの策略か。
私に水をあけられての妨害工作。卑劣な奴らだ。しかしばれなければ、どんな手を使ってでも相手を蹴落としてゆく、それが出世へのサバイバルゲームだ。だが策略より業績を残すことこそが最も本命の手段だ。しかし彼らには私のようにそれができない。だから奥の手を使った。
いずれは私にひれ伏し、私の使い勝手のよい駒となるだけだ。最後に笑うのは一人だけだ、この私だ
商談は油断せずに用意周到に纏まるまで行うこと、ちょっと相手のご機嫌を損ねただけで破談になることもある。無論相手の心変りが分かるわけではないが、断ることが仁義に反すると思われるほどに丁寧に進めることを一時も忘れてはならない。
彼ら三人にはその神経の細かさがない。育ちはいいが、ボンボンで心の機微に疎く、断られれば相手が悪いと決着は付いてしまう。だからコネのある商談しか纏められない。顧客を新規開拓しようという気概がない。それでも金持ちの縁者が多いので、まあまあの地位には就くから、悔しがりもしないだろう。
彼らがどんな手を使おうが、所詮私の敵ではない、だがどのような落し穴を仕掛けているか分からない、気は抜かずに情報は集めるに越したことはない』
昼休み、泰彦はいつになく眠気が食欲を上回り、駐車場のクルマの中で眠ることにした。一時十五分前にスマホのアラームをセットして、シートを倒して横になった。
麗らかな涼しい、空には三つほど白雲がかかった青空の申し分のない日和で、気分も和み、泰彦は長閑な街の公園にいた。
「いらっしゃいませ」とピンクの帽子、ベストにタイトスカートの制服を着たモデルのような女性が近寄ってきた。
泰彦は狐に摘ままれたようにぽかんとなった。公園のガイドさん、それとも街のガイド。すると山梔子のいい香りが漂った。
「初めて来たもので、ここはどこでしょうか」
「極楽でございます、皆が憧れる永遠の楽園で御座います」
「えっ、何とおっしゃいましたか」
「ごくらく、で御座います」
「阿弥陀様はいないのですか」泰彦は反射的に訊ねた。
「そのようなものはいません、それは暇を持て余した坊主の戯言です」とガイドは少し厳しい口調になった。
「極楽、我が人生に一点の曇りも後悔もなし、実に爽快だ、そのようなことは生まれてこの方、初めての最高の気分だ」
「見えますか、中央にいる空手着を着た老人を。
伸ばした左手の蝋燭を眼力で消そうとしているのです、段位は八段です、六十台にしか見えません。中一の十三から初め六十八年の八十一歳です、この道一筋、空手道の神髄を追い求めているのです。
あの一心不乱の姿をご覧下さい、スタンディングオベイションものです、平身低頭で御座います」
泰彦は感動していた、脇目もふらず一つのことに打ち込む姿に自分を重ね合わせ胸が熱くなった。
「稽古の途中に心臓発作で亡くなりましたが、空手の構えで立ったままだったそうです。
武道の達人の立派な最後です。
あの目をご覧下さいトラが獲物を狙う殺気を思わせます、恐ろしくて身震いがします」
「ご家族もさぞ誇りでしょう」
「家族より空手を取り、離婚後独身を通し、天涯孤独の身で、葬式は道場でしめやかに執り行われました。
眼力で蝋燭の火を消す、それが叶わぬ望みとなりました」
泰彦は感動の余り涙を流し、近寄っていき空手着の達人に訊ねた。
「鍛錬はどうですか」
達人は蝋燭の火を消して左手で持ち言った。
「あと一息だ、その一息が遠い、遠いんだよ」
「そうですか」
「そうですかじゃないんだ、こちらは。死活問題だよ。君、背広姿でぶよぶよした体は鍛えなさい」
「そうですか」
「そうですか、そうですかと馬鹿の一つ覚えはよしなさい、どうしようもない返事はせずに、黙ってなさい、不愉快だ」達人は向きを変え鍛錬に入った。
安いウィスキーを瓶からそのまま飲んでいる五十過ぎの作業服を着た酔っ払いがいた。
「あの人は妻も子もいましたが、酒が好きで寝る以外は酒を飲み、バイクを酔っ払い運転して事故を起こし、治療の後、精神病院で一年を過ごしました。
その間に離婚され、マンションは売られ、彼自身はアパートに移され生活保護となっていました。その僅かばかりの金を殆ど酒に使い、一人で昇天です。
清々しいものです」
「酒に人生をかけた、武勇伝ですね」
「そこの背広の人、酒飲みはきれい事じゃないんだ、どんなにしてでも鯔のつまりは酒を飲む。楽しいものじゃないんだよ。
お前はいい気なもんだ」酒飲みは言った。
ガイドは割って中に入り、酒飲みを手で追い払った。
「相手にしないで下さい、ぐだぐだ言う厄介な人なんですから、アルコール依存症で妄想が非道いんです」
「変わり者はどこにでもいます、現世と似ているところもあるんですね」泰彦は頷いた。
「この馬鹿女、来る日も来る日もマニュアル通りの説明しかしない、少しは自分でも考えろ。
空っぽな頭でも使ってみろ、このバスガイド崩れが」酒飲みはゆらゆら去りながら大声で怒鳴った。
「あなた、バスガイドさんだったんですか」と泰彦は思わず頓狂な声を上げた。
「びっくりなされましたか」とガイドは笑んだ。
「ここの専属の職員かと、それにここに来るには若いから」
「クルマを運転していましたところ衝突されて、あっという間にここへの直行便でございました。
ここは明るくて憂いのない素敵なパラダイスでございます、誰もが納得する住みやすい場所で、何よりもここには悩みがありません」
「若くして死んで、口惜しくはありませんか」泰彦は戸惑いながらも訊いた。
「ここに来ればあの世界のことなど遠い昔のことのようにふと過るだけで、ここを楽しく過ごしています、夢のようとはこのことでしょう」
「そういうものでしょうか」
「私はバスガイドとして頂点を目指しました、地元の地理に、歴史に精通することに努力し、歌も習い玄人跣です、そして乗客の心を魅了するトークに歌、泣かすことも笑わせることもできるのです、乗客の心の指揮者です、それはそれは快感です」
「もっと遠くへ行け、そしたら分かる」酔っ払いの声がどこからともなく聞こえた。
「何が分かるのでしょうか」泰彦は訝しげに訊いた。
「極楽は奥が深いと言うことでしょう。上には上がいる。
それでは散歩を続けましょうか」
「暗くなりましたね、ええ、寝るためではありません。ここでは眠りは必要ありません、二十四時間、起きていますから。
夜行性の人たちがいるものですから、暗くなるのです。
目を慣らして下さい、闇の中に人影が見えてきますから」
「ビルの屋上に女子高生がいます。飛び降りましたよ。大変です、即死ですよ」
泰彦は動転した。
「初めての方は皆、そうですね。まずは深呼吸をして落ち着きましょうか。
又、屋上を見て下さい、そしたら分かりますから」
同じ女子高生は前と全く同じ動作で、飛び降りた。地面に衝突する鈍い音が響く。すると又女子高生は屋上に戻り、飛び降りた。
それをいつまでも繰り返す。
泰彦は震えた。
「なぜ極楽に自殺する者がいるんです。ここに来られたのはなぜですか」
「一心不乱だからです」
ばたばたと音がして、走ってきた男が若い女性を何度も突き刺して、感触を楽しむように笑い去って行った。
「何で殺人犯、人殺しもいるのですか。犯罪者ですよ」泰彦は哀れな声を出した。
殺人犯は全く同じ動作で若い女性を突き刺すことを繰り返し、止める気配がまったくなかった。
「彼は数知れない若い女性を刺し殺した連続殺人犯です。女性は男性の妄想で、違う女性に見えるのです」
「ここは極楽ですか」
「ええ、極楽です、道を究めようと来ているのですから」
泰彦は項垂れた。
暫くすると、真昼の太陽の下に城壁が現れた。輝く城壁は天を突き刺すほど高く、壁は万里の長城のように延々と地平線まで続き果てがなかった。門は驚くほど小さな、驚くほどが頑丈な鉄の門で、人一人が屈んで入れるようなもので、それはまるで金庫の扉であった。
「ここからは住人が出られないように厳重に管理されている。関係者以外立入り禁止のエリアになっています」
「入りましょう」
「私はこにには入れませんが、あなたは入れます、選ばれた人ですから」
「私は選ばれているのですか、それは嬉しい。ここは何と呼ばれていますか」泰彦は言った。
「天獄と呼ばれています」ガイドは詳しく説明しようとしたが、笑う泰彦の顔を見て諦めた。
泰彦が門を潜ると、太陽が燦然と輝く真昼の世界があった。
天安門の演壇には毛沢東が熱狂的な万雷の拍手で迎えられていた。
泰彦のボルテージは一気に上がり武者震いがした。
その後にスターリンが赤の広場に現れ熱弁を振るい、群集を鼓舞すると割れんばかりの歓声が起こった。
ヒトラーが拳を上げてドイツ・ゲルマン民族を褒め称えると、ヒトラー万歳の民族の共鳴が起こった。
あのカンボジアのポルポトがいた。
泰彦は背筋が寒くなった。
「大量虐殺者達か、私は彼らと同じ場所にいる、どういう訳だ」
スマホのアラームが鳴り、泰彦は跳び起き、「何だ、夢か」と車から降りて、銀行の中へ入っていった。
そこは泰彦の光り輝く真昼の歓呼する戦場であった。