冬山の想い出
秋月 忍様主催『夜語り』企画参加作品です。
もう、20年以上前の山に登っていたころの想い出。
真夜中の林道を一人で歩いていた。カラマツ林の上には大きな月が見える。
「そういえば、月齢までは調べてこなかったなぁ」そんなこと思いながら、黙々と冬の林道を歩き続けた。目的は、真っピンクの富士山を撮るために。
真っピンクの富士山、今にして思えばひどい表現だ。でもその当時はそれが一番言い当てていると思っていた。以前、行者小屋で登山道の雪崩の可能性を聞かれたことがあった。斜面に雪がついていればどこでも雪崩の危険はある。それをこちらに聞かれても何とも言いようがない。
「雪崩が心配なら、雪がしまっている暗いうちに登って、あそこのコルで真っピンクの富士山を見てみるのはいかがですか」と答えたことがある。答えた聞いた男性は何とも言えない顔をして困ったような顔をしていた。ヘッドランプ行動が理解できないのか、真っピンクの富士山が理解されなかったのかはわからないけれど。
そういえば本格的に山に登ろうと思ったのは、この山の登山口にある温泉宿で大きなザックを持った学生を見た時だったような気がする。大学時代は山に関するクラブに入った。クラブでの登山はクラブ活動の一環として考えられていた。だから山に行くときには学生課に課外活動計画書を提出し、近くの交番に登山計画書を提出してから山に入った。一人で里山に登るときにも同じで、クラブで決められた緊急野営装備(ビバーク装備)の携帯が必要だった。身軽な社会人登山者がとてもうらやましかった。
卒業して地元に帰り山岳会を探した。自分のやりたいことを伝えて紹介された山岳会は、幅広い活動を行っていた。山頂でゆっくり昼食をとる鍋釜山行から、冬の登攀まで行っていた。会の規則では登山前に計画書の提出の義務と単独登山の禁止。社会人になったからと言って、自由気ままに山に登れるわけではなかった。
その山岳会で唯一行っていなかったのが、撮影のための山登りだった。山に登れば、普段の生活では見られないような風景や草花が見られる。そんな感動を写真に撮って持って帰りたくなるのは最もなこと。所属していた会でも写真に凝ったことがある人は多数いた。でも山での感動をもって持って帰れるような写真はなかなか撮ることができない。そんな撮影ができるようになる前に、多くの人はあきらめてしまう。複数人で行動している中、いい写真を撮りたいからといって一人で好き勝手に動くわけにもいかない。山岳写真を目的とした山岳会がなかったわけではないのだけれど、そこまでして山岳写真を極とようと思っていなかった。
真っピンクの富士山をそれまで何回か見たことがあった。一番印象に残っているのは阿弥陀の南陵の取り付きで見た風景だろうか。このルートは一般道ではないがバリエーションルートの入門として登られている。暗いうちにテントを撤収しヘッドランプの明かりで歩いていく。目の前には岩の尾根。ここからはザイルをつけて登ることになる。お互いをザイルで結んで、岩陰で明るくなるのをしばらく待つことになった。黒一面の世界が藍色に代わる。日が昇る場所が藍色から濃い紫色、次第に赤みを帯びてくる。太陽が昇るほんの一瞬前、辺り一面ピンク色に染まる。遠くに見える南アルプスその先にある富士山まで、ピンクに染まる。日が昇るほどに明るさを増していき、赤みは薄れていく。もちろん白に輝く山々もきれいであるけれど、その前数十分の色の変化を見てしまうと何とも味気ないものと感じてしまう。
そんな風景を撮影したくて、山が白くなったころから天気予報を何度も確認していた。冬といっても北八ヶ岳は積雪が少ないうえに多くの人が入っている。よほどの大雪でもなければ雪をかき分けて(ラッセル)をして歩くようなことにはならない。日の出の時間から逆算すると、登山口は真夜中に歩き出すようになる。暗い中一人で登るのだから、何回も登っていて地図を見なくても迷わないほどなれたルートを選んだ。中学生のころ、部活帰りは暗いあぜ道の中を歩いて帰ったせいか人よりも夜目が利くようになったらしい。雪明りにさらに月明かりに照らされていれば歩くのには不自由しなかった。
林道から登山道に入る。道は緩やかになり急になり森の中を進んでいく。その先に小屋が現れ、もっと先には開けた場所が見える。冬でなければ水面が見えるのだろうけど、今の時期は真っ白、というよりも月の明かりに照らされて青白く見える。ここまで来るのに思ったよりも時間がかかってしまった。一息入れて先を急ぐ。
小屋から離れるほどに、森の世界に入っていく感覚に包まれる。月の明かりも深い森の中までは届かない。ヘッドランプをつけて周りを見回してみる。雪の付いた針葉樹はそれだけモンスターを思い起こさせる。今回は会則を破っての登山。絶対に遭難できな。そんな緊張感が五感を鋭くさせているのかもしれない。風もないのに木から雪が落ちるような音がする。カサッ、カサッと小動物が動くような音がする。こんな真冬の真夜中に行動する動物がいるはずもないのに。バシッ、バシッと大きな音がする。⁻20度以下になると木の中の水分が凍って膨張し木が裂ける時に大きなことがすると聞いたことがある。今夜はそんなに寒さを感じないけれど、そんな現象が起きているのだろうか。
道は傾斜を強めていく。この傾斜を登り切れば尾根に出る。視線を右手に向ける。夏であれば針葉樹の下にきれいな苔の庭園を思わせる場所だ。今目の前に広がっているのは陰影だけの世界。針葉樹の影と、積もった雪しか見えない。
最後の急斜面を登りながら考える。もしいい写真が撮れたとしても山岳会の誰にも見せられない、今回の登山のことは山仲間には話せない。なんで来ちゃったんだろう。今のペースで登っていたらきっと日の出までに頂上に着かない。自分の足の遅さが嫌になる。そんなことを思いながら、喘ぎながら登っていく。
針葉樹の森を抜け尾根に出ると風が冷たい。周り藍色の背景に白い山の影が見える。ここから頂上まであとどのくらいかかるのだろう。日が出るまでに山頂に間に合わないだろうなぁ。そう思いながら先を急いではみるも、辺りはどんどんと明るくなっていく。急に辺りがピンク色に染まった。
そこから先のことはあまり覚えていない。急いでザックから一眼レフを出したような気もする。でもどんどんと色を変える景色を呆然と見ていたような気もする。がっかりしながら頂上に立って、白く輝く南八ヶ岳の山並みその先の富士山を眺めたこと。同じく単独で来ていたおじさんと何か話しをしたような。
今から20年以上前の誰にも話していない冬山の想い出。