四章 英雄となった男(5)上
クリストファーの姿が見えなくなってすぐ、ルイが少し考えるように首を傾げて「なんかごめんね? 僕は手紙を渡して来るから、ティーゼは先に少し休んでいるといいよ」と言った。
ルイがマーガリー嬢に手紙を渡すべく向かった後、ティーゼは、ルチアーノに連れられて別荘へと戻った。
暖かな日差しがあたる別荘のテラス席には、湯気の立つ紅茶と、卵サラダがたっぷり詰まったサンドイッチが用意されていた。もはや何も言うまいと、ティーゼは促されるまま腰を落ち着け、それらに手をつけた。
というより、ルイに頼まれた分のミッションはクリアしたはずなのに、どうして自分は、ここに戻って来ているのだろうか。
ティーゼは少し遅れて、流されるまま再び魔王の別荘に来た事に気が付いた。
ルイがクリストファーに「後で別荘に来て話すといいよ」と告げていた事を考えると、まぁ仕方ないのかなとも思う。しかし、手紙を渡す事に関して一人で出来るのであれば、あそこでティーゼを解放しても良かったのではないだろうか。
そうしていたら、わざわざクリストファーに、余計な時間を取らせず話し合えたかもしれないのに。
クリストファーは律儀な男なので、今頃、どこかを歩いて時間を潰しているのだろう。祝いの途中で探しに来るほど、心配するとは思ってもいなかったから、王都からこんなに離れた所まで来た彼には、悪い事をしたなと思う。
「あれは英雄というより、まるで人間族の魔王のようですね」
ティーゼがサンドイッチを食べ終えた頃、ルチアーノが唐突にそう切り出した。
先程の幼馴染の様子を思い出して納得してしまいそうになったが、ティーゼは、少し遅れて自分の知るクリストファーを思い浮かべ、「いや違うんですよ」と否定の言葉を口にした。
「普段のクリストファーは、優しくて温厚なんです。多分、昔の事でも思い出して不安定になっていたんだと思います」
彼の心配性は、例の事件からずっと続いている。それを、ずるずると引き延ばしてしまったのは自分なのだとも分かっていたから、ティーゼは申し訳なさが込み上げて、飲みかけていた紅茶カップをテーブルの上に戻した。
ルチアーノが足を組んだまま、珍しく頬杖をついて、溜息混じりに言葉をもらした。
「温厚な人、ですか……」
「なにか言いたそうですね、ルチアーノさん?」
「たかが幼馴染にしては、ずいぶんと執着されている様子でしたので」
「執着ですか?」
ルチアーノは噂を知っているから、きっと例の事件の事を言っているのだろう。考えるまでもなく、それはトラウマ物の心配性なのだと、ティーゼは複雑な心境を覚えた。
それと同時に、一体どんな噂がそう思わせているのか、非常に気にもなった。
「ルチアーノさんは、英雄に関わる噂で、私の怪我についても聞いたことがあるんですよね? 私は、どんなふうに噂されているのか知らないんです。教えて下さいませんか?」
ちらりと尋ねてみると、ルチアーノが肩眉をやや引き上げて「まぁ、よろしいでしょう」と興味もなさそうに言葉をつづけた。
「怪我を負わせてしまった女の子のもとへ、英雄が罪滅ぼしで足を運んでいるという噂は人間側では有名な話ですね。一部の貴族達の中には、それを良く思っていない者もいるようです。平民が遊んで暮らせる分だけの金を『エルマ』に支払い、その関係を切ってしまおうと画策した派閥がいたそうですが、英雄のプライドがそれを許さなかった、とか」
ティーゼは、実際に流れている噂について詳細を聞いたのは初めてだったので、金の件に関しては驚いた。
確かに良くは思われていないだろうな、と予想はしていたものの、自分はそこまで邪魔者に思われているのかと、少なからずショックを覚えた。
「……あの、なんか色々と黒いものを感じるのですが……もしかして私、英雄ファンに相当嫌われているんですか?」
「さぁ、どうでしょう。人間の事情なんて気にした事もありませんから」
なんとも彼らしい台詞だったので、ティーゼは、まぁ当然かな、と妙に納得して口を閉じた。
その時、ルチアーノが不意に口角を嫌味たらしく引き上げて、「それで、真実はどうなんです?」と続けて訊いて来た。
「英雄の逆鱗にもなると噂されている『エルマ』がいることですし、せっかくですから訊いてみましょうかね」
「逆鱗ってなんですか。怪我に関しては私が勝手に負っただけですし、あの時クリストファーを庇ったのは私だけじゃなくて、他にも四人の男の子がいたんですよ」
妙な勘違いをされるのも嫌で、ティーゼは、幼馴染の心配性の原因について、当時の様子を思い出しながらルチアーノに語った。
これまで詳細については人に話した事はなかったから、ぽつりぽつりと語る間に何度も言葉を途切れさせてしまったが、ルチアーノは普段のように冷やかす事も、話を遮ることもせず聞いてくれた。
大怪我で大人達に叱られ、心配されて泣かれた事。全員が最低でも十日間は療養のためベッドから出られず、その間、クリストファーが何度もお見舞いに来ていた事。皆で彼を励まして、ティーゼも仲間達に励まされた事……
「ルチアーノさんも言ってたじゃないですか。女の子だと、傷一つで嫁の貰い手がなくなるって。クリストファーは貴族として教育を受けているから、多分それを気にしているんだと思います。怪我が治るまでの間は毎日花を持って来て、すっかり治った後も、時間があれば都度様子を見に来ていたぐらいです」
話している間に、カップに半分残っていた紅茶は冷たくなってしまっていた。風が二人の間をすり抜け、ティーゼの柔らかい髪をすくっていった。
「実際に、あなた自身で気にした事はないのですか?」
「気にした事はないですね。平民の場合だと、必ず結婚しなければいけない訳でもありませんし、考えた事もないです」
だいたい、この件に関してはクリストファーが気にし過ぎなのだ。十年も経てば傷跡は薄くなるし、今ではそんなに目立たないというのに「服をプレゼント出来れば良かったけれど」と申し訳なさそうに口にしたりする。
思い出したら腹も立って来て、ティーゼは続けて愚痴った。
「あいつ、昔は塀の上を走ったり、木登りもした事がないお坊ちゃんだったんです。私達といるようになって、初めて友達が出来たってはしゃぐぐらいの箱入り息子で、喧嘩だって全然出来ませんでしたよ。ちょっと川で遊んだだけですぐに風邪を引くし、少し転んだぐらいで護衛の人が付いて来たり……受け身さえ取れない事を皆が知っていたから、だから、私達は反射的に彼を守ったんだと思います」
あの時、幼いクリストファーは半魔族の容赦ない攻撃に耐えられないと、ティーゼ達は同じ事を思って動いていた。
彼が貴族である事が脳裏に過ぎらなかったといえば嘘になるが、自分達が怪我をするよりも、彼が倒れてしまう方が、より多くの人間の悲しみや混乱を招くだろうと思った。
仲間同士、同じ痛みを分けあうのは当然だ。しかし、クリストファーの場合は少しだけ違っていた。彼は新参者であったし、面倒を見ている隣近所の仲のいい子供達と似たように、ティーゼ達にとっては守らなければならない弟分のような存在だった。
あの時、守れ、と叫んだのが誰だったかは覚えていない。ティーゼは直後に、猛烈な痛みと衝撃を受けてよくは覚えていなかった。
ティーゼは思い出したその情景についても、ぽつりぽつりと口にした。腹が立ったのは自分の不甲斐なさのせいだと実感して、声は弱々しくなっていた。
テーブルの紅茶がすっかり冷えてしまった頃、自分が喋りすぎている事に気付いて、ティーゼはようやく口を閉じた。恐る恐るルチアーノを窺えば、彼は椅子に背中をもたれさせ、敷地の門の方へ顔を向けていた。
ルチアーノの横顔の表情に変化はなく、礼儀がなっていないだとか、話しがまとまっていないと怒らせてはいないらしいと、とりあえずティーゼは安堵した。
「話しを聞く限りでは、どちらが悪いという事でもありませんね」
少しの間を置いて、ルチアーノがこちらへと顔を戻しながら、期待していた内容ではなかったとどこか残念がるように言った。噂とは違う印象だったとでも言いたいような、露骨な落胆ぶりだった。
この鬼畜は、一体どんな内容を想像していたのだろう?
「だから、幼馴染なんですってば。腐れ縁みたいな感じなんですよ」
自分でも驚くほど不貞腐れた声が出たが、ティーゼは、構わず紅茶に手を伸ばした。話し疲れた喉は思った以上に乾いていたようで、紅茶は冷めていても美味しく、ついカップをぐいと傾けて飲み干してしまう。
「あいつだけ、つまらない事をずっと気にしているんです。それだけなんですよ」
「それだけ、ねぇ……。恐らくは、違うとは思いますが」
「どういう事ですか?」
「あなたがどう思おうが勝手ですが、根は深い、という事ですよ。彼とのやりとりを穏便に済ませて解決したいのであれば、距離を置くと匂わせるような内容を安易に口にはしない方がいい、とだけ忠告しておきましょうか」
それは一体どういう事だろうか、とティーゼは首を捻った。しばし考えてみたが、やはりルチアーノの言い回しは難しいという事しか分からなかった。
「よく分からないんですが、過去の事に関しては、何も口にするなと言う事ですか? ……でも、ずるずると責任を感じさせるのは酷いと思いませんか? 気にしないでってハッキリ言ってあげないと、ずっと心配しちゃうと思うんですよ」
「『責任』ねぇ……――そんなに大きな傷跡が残っているのですか?」
唐突に問われ、ティーゼは少しだけ考えた。
「まぁ、『もう少しで出血多量で危なかった』程度には深かったと聞かされましたね。でも、みんな同じぐらいざっくりいきましたよ。リーダーなんて、手の甲から腕にかけて、私より深く抉られてましたから」
意識が混濁していなければ、損傷の酷さにティーゼも腰を抜かしていただろう。
表面上の傷が塞がった頃、皆で見せあった中で、リーダーであった彼の腕だけ、不自然な肉付きになって色も大きく変色していた。これでよく、ティーゼの傷口を抑えられたものだと一同で驚愕したほどだ。
ルチアーノが、じっとこちらを見ている事に気付き、ティーゼは興味があるのだろうかと小首を傾げた。
人間と魔族の感覚的な違いはあるだろうが、言葉にするよりも、実際に見た方が酷くないことが分かってもらえるような気がした。つらつらと説明を重ねるより手っ取り早いように思えて、ティーゼは軽い気持ちで「見てみます?」と提案してみた。
「首の左付け根辺りから入っているので、ちょっと襟を緩めたら見えますよ」
言いながらシャツの第一ボタンを解くと、彼が椅子を寄せて来た。
すぐにでも拒否されるだろうと思っていたティーゼは、「『いらないです』って言わないのか……」と少し意外に感じながらも、襟を少し開いて見せた。
ティーゼは、傷跡のある部分が目にとまりやすいよう、顔を右側へとそらしながら「見えますか?」と訊いてみた。ルチアーノが、そこを覗き込むように身体を近づけて来たのが分かったが、顔ごと頭をそらしているので、彼の反応は見えなかった。
ティーゼは数分ほど、ルチアーノの感想を待ってじっとしていた。
彼が離れる様子もないまま長い沈黙の時が続き、覗いた傷跡に向けられているであろう強い視線を考えると、何だか妙な恥ずかしさが込み上げ始めた。思えば、傷跡を人に見せたのは久しぶりで、近所で世話になっているおばさんに、二年前に心配されて見せて以来の事だ。
堪らず首を戻して「あの、もういいですかね……?」と視線を向けたところで、ティーゼは、予想以上に近い距離あるルチアーノの赤い瞳とぶつかった。
「気になりませんよ」
椅子から半ば身を起こしてい姿勢で、ルチアーノが薄い唇を僅かに開いた。
何故か、彼は傷跡ではなくティーゼの顔を見ていた。吐息が触れるような距離で話しかけられ、ティーゼは少しだけ驚いてしまった。
「……まぁ、私の傷跡が気に障らなかったようで何よりです。これ、結構薄くなっているでしょう?」
白い肌に傷跡がはっきりと浮いているが、太陽に晒していないので、目を背けたくなるような痛々しさはない事は自分が一番よく知っている。ティーゼはそう言いながら、開いていたシャツの襟から手を離し、そのままシャツのボタンを締めようと手を伸ばした。
その時、不意に首筋の一点がひやりとして、ティーゼは小さく飛び上がった。
何事だろうと振り返れば、傷跡の先端を覗き込んだルチアーノが、そこに指先を触れさせていた。傷跡を他人に触れさせた事はなかったから、ティーゼは目を丸くした。触りたいと思うようなものでもないと踏んでいただけに、魔族である彼の好奇心の強さには驚かされてしまう。
「全然気になりませんよ。恐らく陛下にとっても、然したる問題にもならないでしょう」
傷跡に触れた白く細長い指先が、すっと動いて首筋に回った。くすぐったくて身をよじるが、ルチアーノは冷やかしのような反応すら返してくれない。
「あの、ルチアーノさん……?」
ティーゼは、どうしたらいいか分からず戸惑った。ルチアーノが、真面目な表情で何を考えているのか想像もつかない。
「馬鹿なあなたでも分かるように言いますと、不快にはならないという事です」
「はぁ、なるほど……?」
「傷跡は、どこまで続いているのですか?」
「この辺ぐらいまで」
ティーゼは、その質問を不思議に思いながらも、自分の胸元辺りに手をやった。しかし、折角教えてあげたのに、ルチアーノが指し示した場所ではなく、こちらをじっと見つめている様子に気付いて、ティーゼは我知らず苦笑を浮かべた。
既に首筋の半分を覆ってしまったルチアーノの手はひんやりとしていたが、慣れてくると、心地良い冷たさだとも思えた。
「結構大きいですけど、さして面白くもない普通の傷跡ですよ」
「全部を見ても、私は不快にならないと思います」
「え。……あの、もしかして全部見たいんですか?」
尋ねれば、何故か訝しむような表情を返された。ティーゼの首筋の下に触れていたルチアーノの指先は、既に開いた襟からぎりぎり見える傷跡まで辿りついていた。
細かいところまで気になるタイプなのだろうかと、ティーゼは困ってしまった。
これまでティーゼは、肩や胸元を大胆に晒すような女性服を着た事がないため、同性同士であったとしても、必要以上に肌を見せることに対しては躊躇があった。
すると、その戸惑いが伝わったのか、ルチアーノが宥めるように彼女の顎先に触れ、そっと顔を持ち上げながら上から覗き込んで来た。
「見せろとは言っていませんよ。ただ、許可頂ければ勝手に確認するかもしれません」
「言い方がちょっと怖いんですけど? というか『するかもしれません』ってなんですか……?」
珍しく断言しない物言いに、ティーゼが疑いの目を向けると、彼は思案するような間を置いた。
首に手を触れたままのルチアーノの手が動き、その親指が、傷跡を撫でるように数回ゆっくりと肌の上を往復した。敏感な肌の上を他者に触れられる行為に、ティーゼはくすぐったさに似た、ぞわぞわとするものが背筋を走るような感覚に、困惑した。
「……私にも、よく分からないのです」
「はぁ?」
「不快ではない、気にもならなければ、さしたる問題にもならない。それを人間が、ちっぽけにも気にするというのなら、可笑しな話だと思っただけです」
その時、どこからともなく発せられた研ぎ澄まされた殺気と共に、一陣の風が起こり、瞬きの間に二人の間を裂くように一つの剣が突き入れられて――
その刃先が、咄嗟にティーゼから手を離したルチアーノの喉仏に向けられ、ピタリと止まった。




