四章 英雄となった男(3)
マーガリー嬢の走り込みコースは、人の邪魔にならないような落ち着いた通りがほとんどだった。
空の散歩より戻ってきたルイが、他人に注目されず、それとなく彼女と二人きりになれるような待機――という名の待ち伏せ場所に選んだのは、寂れた駅から近い距離にある小さな公園の入り口だった。
公園といっても、高さのない花壇が並んだ花園のようなもので、散歩道が設けられ、敷地の中央に小振りな噴水が一つしかない場所である。
小じんまりとした噴水はどことなく外観が古く、そこには建設記念日が刻まれていた。
「三百年前、この町で産まれた英雄の功績を祝った際に建てられたものです」
ルチアーノが、つまらなそうに言った。
「彼は神官でした。聖魔法を使える人間でしたから、異界から発生する瘴気も払える腕っ節の強い男ではありましたね。我々がつまらない天界の内乱に巻き込まれて戦っている時、影響を受けた地上を守り抜いたのが、彼です」
「え、天界? 天使がいるの?」
聞き捨てならないぞ、とティーゼは問い返した。
ルチアーノは、唖然としたティーゼの表情を見るなり、またしても下等種を小馬鹿にするように鼻を鳴らした。
「私達のような生粋の魔族である『悪魔』もいるのですから、当然『天使』もいますよ。彼らはエネルギー体で寿命事態存在しない特殊な存在ですし、人間とは異なった思考の持ち主ですので、地上に降りる事は一切ありませんが」
「へぇ。教会に描かれているような感じなのかなぁ――つか、ルチアーノさんって三百年前の英雄を知っているんですね」
「先に言っておきますが、あの頃の私は魔王軍に入ったばかりの若輩者でしたので、人界の英雄の様子はあまり見てはいませんよ」
「いやいやいや、びっくりしたのは年齢の話しです」
ティーゼは顔の前で手を振って強く主張したが、ルチアーノには伝わらなかったようだ。訝しげに見つめ返されたうえ、視線だけで馬鹿にされた。
価値観も文化も違う種族同士だと、こうも話しが噛み合わないのか?
諦めの心境を悟りそうになったが、ティーゼはひとまず、少しでも現状を理解してもらうための努力はしようと思い、こう続けた。
「ルチアーノさん、私はまだ十六年しか生きていません」
「昨日聞きましたが、それがどうかしましたか?」
「……いや、なんでもないです」
賢い男なので、恐らく種族別の生態については正確に把握しているだろう。ただし、種族的に劣る生物について、もとより感心も興味もないから共感という概念がないのかもしれない。
通りに人の姿はまばらだった。立ち寄る列車は一日に一本になってしまっているため、町の外からの来客がないせいか、がらんとして見える。
現在の時刻は、まだ町の店が開店し始めたばかりの早朝だった。
先程到着してからずっと、ルイは先程から公園の入り口に張り付き、そわそわと落ち着きなく通りの方を覗き込んでいた。時折り耳を澄ませる仕草をし、口の中で何事かを呟きながら思案している。
「うん、マーガリー嬢はまだまだの距離だね。いつ聞いても、規則的な足音と息使いだなぁ」
「あの、ルイさん? それはちょっとやばいんじゃ――」
「陛下、さすがの洞察力です」
ティーゼのぼやきを、ルチアーノが自然な台詞で遮った。
※※※
マーガリー嬢の到着までの時間が判明したところで、公園の中で手紙を渡す練習が始まった。
ティーゼは、たかが練習なのだと楽観視していたのだが、第一回目の練習開始をルチアーノが告げ、お互いが向き合ったところで、ルイが唐突に、ティーゼの背丈がマーガリー嬢に届かない事を口にした。
「どうも想定出来ないんだ……」
途端に、ルイが弱気になって悩ましげに眉を寄せた。
ただ渡すだけじゃん、なんでそこで細かい設定まで必要になるんだよと、コンプレックスを刺激されてティーゼは苛立ちを覚えた。
「ルイさん、私の事はその辺に生えている木で出来た人形だとでも思って練習して下さい。いいですか、『渡す』だけの練習なので、そんな細かな設定を設ける必要はないのですッ」
ティーゼとしては、平均女性に身長が届いていないのは、恐らく成長期が遅いかもしれないので仕方がないと受け入れているのだ。女性として体系に恵まれなかった事についても、同じ理由だと信じているので、これ以上突っ込まないで欲しかった。
物言いたげなルチアーノの視線には気付いていたが、ティーゼは無視した。
これ以上コンプレックスを抉られてなるものかと、ルイを説得すべく真面目な顔で言い切った。しかし、どこかの嫌味宰相と違って、女性への気遣いが出来て優しさに溢れるルイは、ティーゼの邪念に気付きもせず困ったように笑った。
「可愛らしい女性を、木に例えて見るのは難しいよ」
でも頑張るね、と彼は穏やかに微笑んだ。
美貌の花咲く笑顔がきらきらと目に眩しく、そういえば彼は魔族一の超絶美形魔王だったな、とティーゼはまだ始まってもいない練習会に対して、どっと疲労感を覚えた。
ようやく手紙を手渡す練習が始まり、ルイは、『呼びとめたマーガリー嬢にそれとなく話題を振る』という想定で練習した。
「マーガリー嬢、今日は手紙を書いて来たんだ」
彼はそう言い、流れるような仕草でティーゼに手紙を手渡した。ティーゼは、ルイが想定しているであろうマーガリー嬢の反応が想像出来なかったので、口を一文字に引き結んで背景のように立ち、忠実な練習台と化していた。
さすが魔族一の美貌とあって、恋した相手を想定した、ルイの甘い台詞や表情の色気は半端なかった。
しかし、それが自分に向けられていないものだとは分かっていたので、ティーゼは、第三者の鉄壁の心構えで冷静に見守った。練習は二回ほどで終わるだろうと思っていたが、気付くと、三回目に突入していた。
ルイが五回目の練習に入った頃、ティーゼは虚無の心境に至った。
六回目、七回目となると、突っ立って手紙を受け取るだけの役目に飽きてしまい、遠い眼差しで「どこでお役目御免になるのだろう」とぼんやり考えた。
思い返せば、まだ町の食堂にも行けていないし、気楽な散策プランも発動出来ていない。立派な屋敷の温泉に浸かれた事と、極上のベッドで眠れたのは良しとするが、一人でハーブのクッキー店を経営しているティーゼには、この長い祝日はまたとないチャンスなのだ。
あの町を出て、新しい何かに挑戦出来るような事をじっくり考えながら、色々と見て回れる絶好の機会だった。
ルイが悪い人でないことは、知り合ってからの短い期間で理解していた。彼は魔王という立場でありながら、驚くほど純真無垢で一途だ。
これも何かの縁ではあるし、別れた後も、ルイの恋路を応援し続ける気持ちを忘れないだろうと思えるぐらいには、彼には好感を覚えているし、応援したい気持ちも芽生えている。
だがしかし、現場を撤退するタイミングが掴めない現状は、実に悩ましい。
相手がちょっとした貴族であれば、ティーゼも気兼ねなく「またな」と立ち去れるのだが、今回の相手は魔王。つまり、特殊なパターンだ。
ティーゼとしては、本心から二人の恋を応援するつもりではあるが、予想される進展は亀の歩みほどの可能性が非常に高く、とりあえず国際問題に発展する事を避けるためにも、今は一刻も早い解放が望まれた。
「マーガリー嬢の代わりに口説かれておきながら、死んだ表情をするのはおよしなさい。陛下に失礼です」
「ルチアーノさんは黙っていて下さい。ルイさん、せっかく背丈を無視して練習出来ているのに、私が口を開いたら『声が違う』とか戸惑うかもしれないじゃないですか」
十二回目の手紙を受け取ったティーゼは、ルチアーノの指摘にぴしゃりと返答した。
何度考えても、本日の早い時間に休日プランがは勝ち取れる未来が見えてこないことに絶望する。手紙を渡す練習だけで十二回もするとは、一体どういう心情と思考回路をしているのだろうか。もはや、乾いた笑みしか出て来ない。
そんな彼女の向かい側には、練習によって前向きな表情を見せるようになったルイがいた。
「ねぇ、ティーゼ。僕の渡し方はどうだった? スマートだったかい?」
「あ~……うまくいくんじゃないでしょうか」
あまり見ても聞いてもいなかったけど、とティーゼは続く言葉を飲み込んだ。
ぼんやりとではあるが、後半の練習では、女性が耳にしても好感触な褒め台詞が多く出ていた――ような気もする。
ルイは、ティーゼの何気ない感想に満足したようだった。彼女とルチアーノを交互に見ると「手紙を渡した後は、どうやって立ち去るほうがいいかな」と次の課題を口にした。
「マーガリー嬢の前だと、いつも緊張してしまうんだ」
そう言って、思案に入って腕を組んでしまった。彼の両手が塞がってしまったので、ティーゼは、受け取った手紙を返すタイミングを待ちつつも小首を傾げた。
思えば、ルイはいつも緊張すると口にしているが、昨日の魔王と女騎士のやりとりを思い返す限り、彼の方には緊張なんてなかったように思える。自分の目が未熟なのだろうか?
……まぁ、ルイは謙虚で良い魔王なのだ。
本人が緊張しているというのだから、そういう事にしておこう。
ルチアーノがルイへ助言を始める様子を見守りながら、ティーゼは、余計な事を言って話しを長引かせるのは利口ではないと判断して黙っていた。
しばらく噴水の方を横目で眺めていると、ルチアーノに話を聞いたルイが「なるほど、そうか」と答え、唐突に「ティーゼもそう思うでしょう?」と同意を求めて振り返った。
話しを聞いていなかったティーゼは、思わず「え」と疑問の声を上げかけた。
ティーゼはルイの顔を視て、慌てて声を呑み込んだ。ルイは自信がついて明るくなった表情をしていた。折角練習で調子を掴んだルイに対して、聞いていなかった、と答えるには雰囲気を壊してしまいそうな気がする。
うん、練習を無駄にするような行動はとらないでおこう。
彼らがどんなやりとりをしたのかは不明だが、ルチアーノを見やれば、あなたは同意すればいいのです、と目が語っていた。
ティーゼは笑って誤魔化す事にした。普段のがさつさを潜めさせて、やんわりと曖昧に微笑んで見せた。すると、ルイは蕩けるように笑みを深めて、喜びを重ねて表現するように「ありがとう」とにっこりとした。
その時、空気が凍りつく殺気を覚え、ティーゼは笑顔を引っ込めた。
肩から首の後ろにかけて感じる、押し潰されるような重圧感は、ギルドの仕事で強い害獣と遭遇した時のような緊張感を思い出させた。いや、むしろ、それよりも遥かに強い、研ぎ澄まされた殺気に本能的な危機感を覚える。
反射的に振り返ったティーゼは、そこにいるはずのない人物を見付けて目を瞠った。思わず、錯覚だろうかと数回瞬きしたが、吹き抜けた風に彼の明るい栗色の髪がなびくのを見て、現実なのだと理解した。
いや、そういうことじゃなくて……
ひとまず幽霊や幻ではないとは分かったが、問題はそこではないのだ。呆気にとられたティーゼは、そのまま彼に疑問をぶつけていた。
「……なんで、ここにいるの?」
そこにいたのは、侯爵家の男子として相応しい正装に身を包み、英雄として授与された剣を腰に差したクリストファーだった。




