2-3
あれから適当に街中をぶらぶらして、日が暮れ始めた頃に帰路についた。
キセキの種を渡された男は気がついたら公園から姿を消していて、ウラがいない以上は行方を追うことも出来ない。まぁ、あの様子ではキセキの種を使うことはないだろうから、これ以上詮索をする必要はないのかもしれない。
それよりも、もう二度とウラに会えないのではないかという不安が俺の胸を締め付ける。途端に甘酸っぱい青春のような感じがして、もの凄く恥ずかしくなってきた。
これは一生引きずるな……。時折思い出しては枕に顔を埋めることになりそうだ。
とても悲しい。
「……お帰りなさい、五代君。私になにか言うことがあるんじゃないかしら?」
「へ?」
アパートの階段を上りきると、玄関の前で葦原さんが仁王立ちしていた。
しかもむちゃくちゃ怒っていた。
一体俺が何をしたのかと考えを巡らせようとした瞬間、葦原さんとの約束を思い出して冷や汗が吹き出る。
「すみませんでしたっ。すっかり忘れてました」
「台本は読んだ?」
「………」
「どうやらお仕置きが必要なようね」
綺麗なお姉さんからお仕置きと言われると凄くドキドキしてしまう。
色々あったとはいえ、こちらの完全な落ち度だ。ここは真摯に受け止めよう。
「辛いお仕置きと痛いお仕置き、どっちがいい?」
「えっ……じゃあ、辛い方で」
「……そう」
急に葦原さんの周りの温度が下がったような感じがした。
なにより葦原さんの瞳が氷のように冷たい。
そして自分の部屋のドアノブに手を掛けると、氷の瞳をこちらに向けて口を開いた。
「君には失望したわ。もうなにも頼まない。さよなら」
「あっ……」
そのまま部屋に入ってドアが閉められる。ガチャンという音がいつまでも耳に残っているような感じがした。
廊下に一人取り残され、沈黙が重くのしかかる。
同時に後悔と絶望が押し寄せてきて、涙が浮かんできた。海堂が死んだ時も涙は出てこなかったというのに、葦原さんに嫌われたという恐怖と約束を守れなかったという悔しさで、涙が滲んでくる。
辛い。辛すぎるよ……。
「どう? 反省した?」
「葦原さん……」
ドアが開いて葦原さんが姿を現す。
どれだけの時間が経ったのだろうか。恐らくはほんの僅かな時間だったのだろうが、俺には耐え難く長いものだった。
葦原さんの顔を見た途端、堰き止めていた何かが崩壊したのか涙がポロポロと零れてきた。
「ちょっと、なに泣いてるのよ。そんなに辛かったの?」
「うん……」
「なんか可愛い。うちの園児みたい」
そう言って葦原さんは俺の頭を撫でてくる。
頭を撫でられるなんて、一体何時以来のことだろうか。あまりに懐かしすぎて気恥ずかしさよりも、嬉しさの方が強い。
「そうだ、キンピラ作ったのよ。食べるでしょ?」
「食べます。むっちゃ食べます」
「じゃあ持ってくるけど、せっかくだから御飯も作ってあげようか?」
「是非ともお願いしますっ」
素晴らしいサプライズにビシッと直角にお辞儀をする。
年上のお姉さんの手料理なんて、まるで夢のような話だ。しかもキンピラ付き。なんか幸せすぎてこのまま昇天してしまいそうだ。
「君の部屋で作るけど、いいでしょ?」
「はい。さすがに葦原さんの部屋に入るのは気が引けます」
「君が常識を持ってたことに驚くわ」
「酷い」
「ふふっ、冗談よ」
そう言って葦原さんは笑いながら自分の部屋に戻る。
俺も部屋の片付けをしなくては……。
ウラが勝手に食べていたグラタンやらなんやらを、一通り片付け終えたところでチャイムが鳴った。
両手に材料を抱えた葦原さんを部屋に招き入れ、ドアを閉める。
よくよく考えてみると、この数日の間で三人もの女性を取っ替え引っ替えして部屋にあげているという事実を発見した。
すげぇ。すげぇよ俺。いつの間にそんなプレイボーイになってしまったんだ。
この連休中、暗い部屋で一人特撮を見る生活だったのに、五月に入ってからは自分でも信じられい程モテモテな生活を送っている。ついに眠っていたジゴロの才能が開花したのだろうか。
「なに玄関で突っ立ってるのよ。ねぇ、冷蔵庫開けてくれない?」
「俺に惚れたら火傷するぜ」
「そういうの、うざい」
「……すみません」
怒られた。目がマジだ。
残念ながら全然モテモテではなかった。
俺はそう上手くはいかない現実を受け入れ、冷蔵庫を開けて食材を入れるのを手伝う。
「さて、うちの弟は大体この辺に……」
「なにしてるんですか?」
「決まってるでしょ。さっき片付けたものを探すのよ」
「まさか……あなたも伝説のエロ本ハンターですかっ!」
「なによそれ」
というか全国の弟どもは姉にそんなスキルをつけさせないでもらいたい。男の沽券に関わる問題なので、徹底してお願いします。
そんなことを考えているうちに、葦原さんはビデオデッキの下を漁り始めた。
バレバレだった。
「あっ、手応えありっ」
「くっ……」
出てきたのは、ベッドと本棚の隙間に入りきらなかった『テレビちゃん 一月号』だった。
これもまたカイアストが堂々と表紙を飾っている。
とても恥ずかしい。
「……君が隠したいもののレベルがよくわからないわ」
「つみれにはドン引きされました」
「当然のことでしょうね」
やはり特撮への理解のなさが窺い知れる。
葦原さんならあるいはと思ったが、結果はこの冷たい視線がまざまざと物語っている。
悲しい。悲しすぎるよ。
「……これだけ探しても見つからないとは。まさか君、不能?」
葦原さんは積み上げたテレビちゃん他特撮雑誌を叩きながら俺を睨み付ける。だから今の時代、そういうのはパソコンのな……いや、やめておこう。
「とてつもなく不名誉なことを言われてますが、それを否定するために証拠を提示することはしませんので」
「……まぁいいわ。君の趣味を知ろうと思ったけど、なんか怖そうだからやめとく」
「いや、そんなアブノーマルなことは一切ないですよ」
太ももとかパンストとかは全然セーフですよね。
今も葦原さんのスラッとした足に見とれているけど、内緒にしていていいよね?
「ところで一つ聞いてもいいですか?」
「なにかしら」
「さっき、辛いのと痛いので辛い方を選んだらむっちゃ辛かったんですが、痛いお仕置きってのはどんなだったんですか?」
「……それは」
「それは?」
「約束を破る悪い子にはお尻ペンペンの刑よっ」
「………」
「………」
「……痛いですね。色んな意味で」
「ええ。かなり勇気を出して言ってみたわ」
葦原さんが顔を真っ赤にしているのを見て、俺まで変な汗が出てくる。こういうのは一度恥ずかしさを感じると、もう居たたまれないよな……。
それにしても、個人的には痛いお仕置きはアリかなぁと思ってしまうのだが、さすがこの状況でお願いするのは厳しい。
まぁどんな状況だろうがお願いする勇気なんてないのだが。
「さ、御飯、御飯。そうだ、五代君は嫌いなものとかある?」
「大丈夫です」
「うん、いい子ね」
先程のことを思いっきりなかったことにしようと、葦原さんは支度に取りかかる。
葦原さんのエプロン姿が眩しい。まさに男のロマンがそこにあった。
料理中に後ろから抱きしめるという〝恋人や新妻にしてみたい行為ランキング〟の上位を席巻するであろう、そのチャンスが今目の前にある。
この素敵すぎるシチュエーションで何もしないのは男が廃るというもの。だが、恋人でもない俺がやったら嫌われること間違いなし。
「うおぉぉぉぉぉ……。どうする、俺っ!」
頭を抱えて部屋中を転げ回ってみるが、一向に答えは出てこない。
つまりは目先の欲に囚われるか、あるかどうかもわからない次に賭けるかだ。そう考えると、抱きついても怒られないという奇跡を信じて行動を起こすべきか。
……奇跡……キセキ?
「そうかっ。これを使えばっ!」
ポケットからキセキの種を取り出し、握り締める。
こいつを使えば後ろから抱きつくことはおろか、葦原さんとキャッキャウフフな展開になることも可能だ。
なんて恐ろしいことを思いついてしまったんだ俺は。今ここで使ってしまえと、欲望のままに生きろと悪魔の囁きが聞こえてくる。
だが、これを使ってしまうと副作用によって死ぬ可能性がある。ロマンのために命を賭けるのも悪くはないが、あまりにも早計だ。
……いや、そんなことは問題ではない。今、俺がしようとしたことは海堂と同じだ。
キセキの力で人の心を変え、自分の都合のいいようにする。
そんなことは絶対に許されないのだ……。
「……ってことで、自力でロマンを追い求めるっ!」
もはや諦めるという選択肢はない。
気合いだ。気合いさえ勝っていればどうにでもなる。いざとなったら、ついカッとなってやった。後悔はしてない。の論理で乗りきろう。
「よしっ。やるぞっ!」
「なにをやるのよ。御飯出来たわよ」
「……え?」
振り向くと葦原さんが料理をちゃぶ台に運んでいた。
エプロンは既に外され、キッチリと畳まれている。時間切れだった。
とても悲しい。
「うあぁぁぁぁぁっ。ちっくしょーうっ」
「なんなの、いきなり」
「もうダメだ。終わった。全てが幻に消えた……」
全身の力が抜け、床に倒れ込む。葦原さんが何か言っているが、全く頭に入ってこない。うだうだと悩んでいたせいで俺は人生最大のチャンスを逃してしまった。
だが、思い立った瞬間に行動しないと後悔することを学んだのだ。あらゆる出来事が偶然だろうが必然だろうが、次に自分がどうするかということの前にはなんの意味も成さない。
結局……奇跡を起こすのは自分自身の意志ということなのだろう。
もしまた葦原さんがエプロン姿で料理してくれたら、今度は躊躇わずに抱きつくとしよう。
「御飯が冷めるでしょ。早く起きなさいっ」
「あでっ。……あれ?」
結構大事なことを考えていたはずなのに、葦原さんに引っぱたかれて失念してしまった。
仕方ないので大人しく食卓につく。
そこで俺は初めて……ようやく葦原さんの料理を目の当たりにした。
……何かがおかしい。
メインの皿にはハンバーグらしき物体とよくわからない和え物。それに御飯と味噌汁。あと忘れてはならないキンピラゴボウ。
見た感じはどこにでもあるような夕食……だと思う。
ただ、ハンバーグらしきものは妙に黒く、かかっているソースは妙に赤い。
よくわからない和え物は本当に何かわからない。きっと何かの野菜と何かの魚介類と何かの肉のうちどれかが入っているね。
御飯は普通だと信じたい。味噌汁もタマネギと豆腐っぽいのでまともな方だ。念願のキンピラゴボウもちょっと黒いなぁという程度で収まっている。
「ほら、食べましょう」
「……はい」
葦原さんが平然と食卓についているので、見た目はちょっと悪くても味はなんの問題ないのだろう。
なんにせよ、年上のお姉さんの手料理というロマン溢れるものを食べないという選択肢はない。エプロンの件で失敗しているので尚更だ。
「いただきます」
「……いただきます」
試しにハンバーグを一口。ソースを絡めてパクッといってみる。
「ぐふぅっ……!」
衝撃が襲ってきた。
二十年間生きて味わってきた料理という概念を根本から覆す程の衝撃だ。舌から得られる刺激には、苦いとか酸っぱいとかを通り越して形容不可能なものがあるのだと知った。
いや……待て。これを形容する端的な言葉がある。
不味い。むっちゃくちゃ不味い。
「どうかしら。口に合えばいいけど」
「……えっ……おっ、美味しいです……よ?」
「そう。よかった」
咄嗟に美味しいと言えた自分を褒めてあげたい。
そして、その満面の笑みの根拠を聞きたい。
……完全に予想外だった。あのつみれですらまともな料理を作ってくれたこともあって、葦原さんがこんなにもヤバイものを作るとは思ってもみなかった。
ちょっと前にお姉さんの手料理なんて幸せすぎて昇天しそうだとか思っていたけど、これは別の意味で昇天しそうだ。
だが、俺はこれを全て平らげなければならない。もう一度、葦原さんがエプロン姿で料理をしてくれるというシチュエーションを作り出すためにもっ!
そうしたら、またこんなのが出てくるという恐怖を押し殺してっ!
……とりあえずこのデンジャラスなハンバーグは後にして、他のを攻略していこう。
この和え物なんてどうだろうか。さらに危険な香りがするからこいつも後にしよう。
味噌汁くらいなら大丈夫かも。タマネギが生煮えだ。シャクシャクするよ。しかも、あまり味噌の味がしないよ。
キンピラゴボウはいけるだろうか。以前の話からして、初めて作った可能性がとても高いのは忘れることにしよう。
苦酸っぱい。何故かキンピラが苦くて酸っぱいよ。京風な酢を落とした酸っぱさとは別物の酸っぱさがあるよ。
全てダメなのかと、涙目になりながら御飯をモソモソと口に運ぶ。
……美味い。白米がとても美味い。
いつもと同じ米なのに、同じ炊飯器で炊いたのに、まるで全身の憑きものが取れるような美味さだ。
「御飯ってこんなに美味かったのか……」
「あら、お世辞を言ったってなにも出ないわよ」
「……あ、いや……はい……」
盛大に勘違いされてしまったが、結果オーライということで納得する。ちょっとイラッとしたのは内緒だ。
とにかく御飯を基点にこの味覚破壊料理を潰していくしかない。お茶で無理矢理流し込むのも一つの手だ。
意を決してもう一度ハンバーグに手を出してみる。外は焦げているのに中が生っぽいという典型的な失敗作。それだけならまだしも、かかっているソースが壊滅的に不味い。
「……このソースってなんですか?」
「それは私の特製万能ソース。どんな料理にも合うのよ」
「特製……万能……」
これは間違いなくどんな料理にも合わない。
葦原さんの味覚がかなりおかしいということは、もはや疑いようのない事実。
現に俺の目の前でこれを普通に食べている。
綺麗な薔薇には棘があるというが、こういうのも棘というのだろうか。いや、棘というか……毒?
「箸が進んでないけど、どうかした?」
「いやっ、なんでもないですよっ。……あ、お茶のおかわり貰えます?」
「ええ」
……いい加減こいつに箸をつけないと怪しまれてしまう。葦原さんが食べている以上、死にはしないだろう。
俺は涙目になりながら、よくわからない和え物を口にする。
「んぉっ……!」
口に入れた瞬間、まだ飲み込んですらいないというのに吐き気が込み上げてきた。ここまで来るともう味なんて一切わからない。必死で噛み、必死で飲み込み、必死で作り笑いをする。
なんのためにそんなに頑張るのかと聞かれたら、ロマンのためと答えよう。
男のロマンを追い求めるのだ。これくらいの危険は覚悟の上。エプロン姿で料理をする葦原さんに抱きつくまでは絶対に諦めない。
ロマンは諦めたらただの空想になってしまうのだ……。
「……お茶、貰えます?」
「五代君。もしかして、泣いてる?」
「泣いてませんよ。泣く理由がないじゃないですか」
「そう? ならいいけど……」
お茶を啜って落ち着きを取り戻す。
このよくわからない和え物に比べたら、ハンバーグなんて全然マシだ。味噌汁に至っては美味いとさえ感じる。人間の適応能力って凄いな。
こうやって葦原さんの味覚もおかしくなっていったのだろうか。俺の味覚が狂わないことを切に願い、一刻も早くこの地獄から抜けだそう。
味わってはダメだ。流し込むしかない。
そう思い、死に物狂いで掻き込んでいく。そして全ての料理を食べ終えた頃には精根尽き果て、寿命も十年は縮んだような気分になっていた。
「お……お茶……」
「そんなに好きなの?」
「………」
気が付かないなら、もはや何も言うまい。疲れたよ、もう……。
悪夢のような夕食を乗り切り、俺はもう一歩も動ける気がしない。葦原さんは後片付けまでしてくれるようで、洗い物をしてくれている。まぁ当然かもしれないが、エプロン姿で。
……だが、違う。違うのだ。
俺が求めているのは、料理が出来上がるの待ちきれずについ抱きしめてしまいたくなるというシチュエーションなのだ。
エプロンとキッチンだけでは成り立たない崇高な願い。
皿洗いの時では満たされない願い。
それがロマンってものだろう?
「……さて、一休みしたら始めるわよ」
「へ?」
洗い物を終えた葦原さんがエプロンを畳みながら戻ってくる。
始めるというのはなんのことかと記憶を辿ってみると、この一連の出来事は劇の代役を発端とするものだということを思い出した。
台本を読むことすら忘れていたり、約束をすっぽかしたりしていたのだから、遅れを取り戻さなければならないのはわかる。……が、さすがに今日はもう無理。お腹痛い。
「今日は勘弁してくれないですかね?」
「勘弁してあげないわよ」
「ううっ……」
「手取り足取り教えてあげるから元気出しなさい」
……手取り……足取り……。
いいかもしれない。うふふふふふっ……。