第七話 二人の対話と邂逅
飛ぶ。
跳ぶではなく、飛ぶ。
飛翔する。
喰は僅か数回の羽ばたきで二百メートルを越えた。
全身全霊で、止まる事なくあの場から離脱していた。商店街の屋根を通過し、そのくせ羽音は一切たてず、闇から闇を滑るように移動する。
それでも思い通りにならぬ身体が怪鳥にはもどかしかった。あの気の吸収範囲にさえいなければ、今の倍は速度を出せただろうに。
確実に振り切ったと認識した距離で、やっと片足に掴んでいた若い男へ呼びかける。
「おい、小僧! 刃を亡くした負け犬よ!」
その言葉に気づき、亡刃は反応した。
「……喰」
「やっと意識が戻ったか」
ふんっ、と鼻を鳴らした。
それから、言葉の意味を誤魔化すように、
「せっかくだから言わせてもらうが、貴様の判断は迂闊そのものだ。先ので言えば、あの餓鬼の正体が分からぬ以上、個人としての戦闘技能や奇襲・援護の可能性を把握し、意識を研ぎ澄ませるのは基本だろうが。いくら貴様の不死状態が優れていようと、それでは大量にいるウジ虫と変わらん」
あくまで懇切丁寧に、悪態をついてのけたのだ。
もっとも、そういう風に言ってくれることが、若い男には不愉快じゃなかったらしい。淡く微苦笑して、軽く息をついた。
「だから、あの雷撃を俺が食らっても、倒れたフリをしてたのか? たかが喉や眼球や内蔵が焼かれた程度では、問題ないだろうって?」
「……ああ、その通りだ。しかし、我が貸し与えた仙儀をすぐ使いたがる癖は、さっさと直して貰いたいものだ。いくら脳味噌や神経まで筋肉で出来上がっていようと、学習するだろうに……」
「ハッ、好きに言ってろ」
不敵に口を歪ませながら、若い男は自分の身体に何度か触れた。
「くそ、もろに食らったなァ。運動能力どころか、五感や仙骨まで丸ごと全滅とか。これじゃあホントにただの人間並み、だな。間違いなく数日では回復しない。あの國易に言って、たっぷりと養生と贅沢させてもらわねェとな」
「壊した建物や入れ物の回収、気を吸われた人々(ウジ虫)はどうする。我はこれでもあの入れ物は気に入っているのだが? 器はともかく、中身の土がアレではないとよく眠れん」
「うわ、土壌にこだわるってキモいな――面倒くせェけど、それも國易に言ってやるって。この街ってあれのお膝元らしいし、情報操作ぐらい簡単だろうよ」
「いろいろと用立ててもらっている身で、便利屋扱いするのもどうかと思うが」
「……ッ、そんなのどうでもいいじゃねェか!」
と、怒りを含みながら若い男は怪鳥の足を打つ。
先の言葉通り、腕力も人間並みになっているのか、三百キロ超の入れ物を持ち上げていた拳は、ぽすぽすと乾いた音を立てるばかりだった。
「……だが」
と、若い男は口にした。
「今の五火炎道手。それに……あの風を呼び寄せたのは……間違いなくアイツだよなァ……?」
「……そうだ」
口元を歪ませながら、怪鳥はうなずく。
「いかなる仙人であろうと、いかなる仙儀であろうと、あの風だけは呼び寄せられん。だが、その唯一の例外になるのが、アレだけだ」
「……ああ」
若い男の手が、胸元で拳をつくる。
その横顔は、ひどく複雑な感情を絡ませあっていた。
不安と怖れ、喜びと怒り、決意と覚悟がないまぜになった表情。
「やっと……やっと追いついたなァ」
「フッ、そうだな」
もう一度、怪鳥は口元を歪ませながらうなずく。
そのうなずきをはたして認識していたかどうか。若い男は熱に急かされたように、こんな言葉を囁いたのだ。
「今度こそ……捕まえてみせる……。<六道五岳>が造った……最凶最悪な兵器を……」
その時。
「申し訳ありません。つかぬ事を御伺いしますが、貴殿方はまともな生命でありましょうか? 僕はそのようには見えないので、このまま浄化してもいいでしょうか?」
怪鳥と若い男の前に、一人の人間らしき者が風の音と共に、穏やかであるが真っ直ぐな礼節さと殺意を持った声を発しながら、上空から急降下してやって来た。
そしてそのまま前に出て、気を足裏に集中し、空中を一メートルほど進む。
逃走の為でなく、話す為の移動。
黒原と自ら名乗った人間の姿は、白のワイシャツに黒い長ズボンという一般的な服を身に纏い、綺麗に整えられた髪に眼鏡をした、どこか残念な感じの少年だった。
「すみません、自己紹介が遅れました。僕は黒原正紀、貴殿方を浄化す名です」
その言葉に、若い男は首を傾げる。
普通の人間であれば、初対面で殺害宣言されたら驚きを隠せないが、人間並みの力になったとは言え、彼らは仙人と呼ばれる存在である。
人間程度の性能では弱体化させるのがやっとな筈なのに、それを殺すと言っているのだ。
不思議以外の何物でもない。
「オイオイ、俺を殺すだァ〜? 目的は知らねぇが人間。今、ちょっと不快な事があったからよォ〜、逆に俺に殴り殺されろッ!」
そう若い男――亡刃は、笑いながら右拳を一気に打ち下ろした。
運動能力が人間と同等とは言え、戦いなれたその速度はスポーツ選手の平均を上回る。
それに黒原は眉を少し上げながらも、左腕を自身の胸元に持ってきて防ぐ。
だが、その威力は小さな鉄球で思いっきり殴られたようなものだった。
手首が無理矢理折れる嫌な音がした。
その痛みに黒原は額に汗を流し、表情を歪ませるが、声を出さず、なんとか若い男の打撃に耐える。
「……っ!」
黒原は若い男が手強い事を覚ると、すぐさま右の手のひらに呪力を纏わせ、ポケットから何かを取りだす。
符だ。
呪術の威力・精度を引き上げる為の呪符だ。
瞬間、その手に小さな稲妻が現れてチリチリという、鳥が鳴いたような音が空間に振動する。
それが何なのか、軍に関わるものなら全員わかる。
雷呪の四・貫雷の上位にあたる呪術だと。
この呪術を発動しただけで黒原が、かなりの使い手だという事がよく分かる。
そもそも呪術というは、呪力形成の手順の一つでも間違えれば、自身にはね返ってくる危険な代物で、発動するまでにかなりの精神をすり減らす。
だから、緊急時以外では連動性を考えて呪符を媒介にして使うのである。
そこで、黒原は無慈悲に叫ぶ。
「目の前の外敵を滅しろ、雷呪の十三・雷線ッ!」
そして、若い男と怪鳥に向けて雷は放たれた。
放たれると同時に、雷は回転。まるで竜巻のごとき螺旋を描きながら、敵である若い男へと一気に向かう。
貫通性を増大させ、臓腑を破壊し、外敵を死へと至らしめる為の呪術。
その時。
怪鳥が、吼えた。
「ガア゛ァ゛ァァァァァッ!」
たったそれだけで、稲妻は形状を失い、いとも簡単に消失した。
その事態に黒原は考える。
一体、何があったのかを……。
しかし、今、思考へと移った時点で、黒原が敗北する事は確定してしまった。
この瞬間、勝負は決した。
若い男が再び黒原に向けて、拳を、さっきより高い場所から振り下ろした。
それに黒原は、脱力した状態で振り下ろされる拳だけを、じっと見つめる。
見る事だけを考えたおかげで何故、鉄球で思いっきり殴られたような痛みを感じ取ったのか分かった。
若い男の手首から肘にかけてまで、金属を黒いスーツの下に隠していて、近接戦に対応したのだ。
最初から人間とは思っていなかった黒原にとって、彼らは、自分が呪符で感知した異形の中で一番警戒するべき対象だと認識してはいた。が、一度呪術を発動させて直撃させれば、終わると思っていたであろう。
しかし、黒原の想定通りに進まず純粋なる力に弾き返され、下へと強制的に落とされていく。
だが彼は、黒原はその事態に僅かばかり口元を三日月の形へと変え、そしてこう一言呟いた。
「この国に君たちを呼んだかいがあったよ……」