第六話 無風世界と激闘(後半)
最初に仕掛けたのは、暁斗だった。
両拳に練り上げていた「気」を呪いへと変化させ、戦うための力へと到達した。
そして、呪いを纏うことになった暁斗の拳は、薄い紫色に変わる。
「おおおおおおおおおォ!」
暁斗は単純に握りしめた拳で、持っていた怪鳥を殴りつけた。
特になにか深い考えがあったわけではない。だが、妖怪の力を受け継いだ鳥“怪鳥”とはいえ実体化した生命であることは間違いない。なら、呪力をこめた拳で殴ればどうにかなるだろうと思ったのだ。
少年の打撃に、咄嗟に翼で防御した喰の動きは、野性の勘が働いたものであろうか。
しかし、その行動は無駄に終わった。
結果は、想定以上。 喰のガードの上を、インパクトとともに余剰なエネルギーが空気を襲う。
まるでダンプトラックに激突したような勢いで吹き飛び、二百キロを超える巨体を五メートル先の棺桶まで弾き飛ばした。そして、衝撃が遅れて暁斗の後方へと流れていく。
「て、てめえは…………」
亡刃は呆然と目を見張って、そのでたらめな光景を眺めていた。
戦闘と呼ぶのも馬鹿馬鹿しいほど、原始的な力任せの攻撃より、少年の思考回路に呆れているらしい。亡刃の考えは、一般人であるなら共感出来るだろう。だが暁斗は呪術の基礎しか知らないし、見習い軍人となっても平均的な軍人レベルに辿り着いてない。
それも相手は二人(?)もいるのだから、基本は逃げる。逃げまくる。見習い軍人としての決まりだ。それがかなわないなら予想外のトラブルを避けるため――最速の手段をもって相手を無力化する。
最後を、暁斗は選んだ。
しかし、少年が殴った腕は呪力を多く纏いすぎたのか皮膚が、血管が嫌な音を立てる。それはただの人間が到達できる筋力限界を超えていた。なので人外でなければ間違いなく即死の一撃。だが最低でもこのぐらいでなければ、このバケモノの相手になる事など出来ない。
十分な手応えを感じて、さらに少年は動く。
「お前も、どけえええええええっ!」
叫んだ。
足へと呪力を移動させての、鋭い跳躍。
斜めに飛び上がり、住宅壁をさらに蹴る。三次元空間をジグザグに進む変則軌道。闇夜に乗じて、その姿はまさに掻き消えた。
駆け抜け、飛び抜け、亡刃の死角へと踊り出る。
対して、
「……面白れェな」
若い男は喜びをもった顔をすると同時に、手が霞んだ。
後方数メートルにいた暁斗との間合いを一瞬で詰める。その速さは電光石火。
少年の目には影さえ残さず、パーカーの胸元を掴み上げ――そのまま、少年の身体を片手で持ち上げたのだ。
「っか、は――!」
結果として、少年の全体重が胸元に集中する。
気管を締め上げられてるわけではないから、窒息こそしないものの、だからこそ凄まじい苦痛が少年の神経を襲撃した。
(こいつは、あの鳥以上の……)
「いや、残念だがァ……でもないけどよォ、粗雑で幼稚で原始的な筋力じゃあ、あの喰にも劣るんだよ、これが」
暁斗の考えを読んだのか、ふるりと、若い男は嫌みたらしくかぶりを振る。
「まあ、それでも仙界の六道としては、この程度の芸当が出来ないと顔向け出来ねぇんだよ。――てめえも見た目より重いが、ひょっとすると腐った脳髄なりに、健気に鍛えていたのかねェ?」
「ッ……」
言葉が出ない、出てこない。
若い男はこちらの頭から足まで、ゆっくりと見つめる。
それから、異常に冷たい指が、少年の首もとを触れた。
「……ああ、聡明な顔立ちとは到底思わなねェが、気の香りだけはなかなかに素晴らしいなァ。人の手が加わってない野生の花を思わせる。まっ、気以外はただの塵みたいな身体だけどな」
楽しそうな瞳で、そんなことを口にする。
その瞳が、暁斗には何より嫌悪感を感じさせた。
ばかりか暁斗を持ち上げたまま、
「死なない程度なら、頂いていいよなァ」
その言葉とともに、若い男の手元からズルズルと何かが伸びた。
(――茨!?)
目を疑う。
若い男の着ている黒スーツの袖から、細い深緑の蔦が伸びて、少年の身体を拘束しはじめたのだ。あちこちに棘がついたそれは薔薇の茨。生育速度からして普通の植物ではありえないが、その見かけより数倍する強靭さで、少年の身体があっという間に縛りつけられる。
「俺ってさァ、<動く庭>って呼ばれてるだよねェ……」
そのまま、若い男の残った手はスーツ内ポケットから、小さな種を取り出した。
「でもよォ、俺の高貴な舌に乗せるには、かなり下卑た気だが、花の苗床には申し分ない。もとより植物には苗床がほどよく腐っているほど、美しい花を咲かせてくれるんだよねェ〜。さァ、さァさァ、てめえのどうしようも出来ない醜さが、花の美しさに昇華されることに対して、身が朽ち果てるほどの歓喜に震えろォオ!!!」
「…………」
想像、した。
その種が、自分の肌に埋め込まれるところを。
たちまち芽が伸びて肉を食い破り、禍々しい根が自分の骨と神経をグシャグシャに引き裂くところを。
自分の身体から残らず養分を吸い上げ、美しい花弁が咲き誇るところを。
「や、やめろ……」
そんなのは、たまらない。
そんなのは、許せない。
そんなのは、受け入れられない。
だって。
だって。
『ああ……ひどい事件だった』『放火事件だったらしい』『何もかもが焼けてしまった』
残響する、声。
五感を支配する、フラッシュバック。
灰崎暁斗の底のさらなる底で、沈澱したように溜まった言葉たち。
『でも、良かったんだったと思おう』『そう思うべきなんだ』『君は幸運であると……』
『死んでしまった“あの人”の分まで、君はずっとずっと幸せになるべきだ』
『だって、助かったのは君だけなんだから』
フラッシュバックする記憶の列。今この瞬間、肌を焼く錯覚の熱。肌どころか脳そのものが爛れてしまいそう。
種が迫ってくる。
こちらを恐怖させるためか、わざとゆっくり、小刻みに近づいてくる。
八十センチ。六十センチ。三十センチ。十五センチ。五センチ。現実には数秒の――暁斗には数十分にも思われた時間。
「あ?」
おかしな視線に、亡刃が眉を寄せた。
何かしらの覚悟を決めたかのような瞳。すでに少年の両手を拘束したはずなのに、最悪な打開策を見つけたような表情である。
その瞬間、バチッと青白い火花の音が響いた。
別に少年がスタンガンを握っている訳ではない。暁斗の手のひらに収まる規模の稲妻が出現。
それが残らず右腕に集約され、槍のごとく一直線に、若い男のもとへと雷が襲いかかった。スタンガンどころではない。呪力によって生み出された術“呪術”の一種、雷呪の四・貫雷だ。
そんな少年の腕から迸る、青白い雷撃の槍。言うなれば黒雲から光の速さで来る落雷を目で見て対処しろというのと同じだ。
今は避ける、なんて事が出来る訳がない。何せ若い男から自分の身動きを押さえるために、接近しているのだから。
なので、ドカッ!! という爆発音は一拍遅れて激突した。
「があああああああああァァァ、――――ッ!」
若い男の身体がたちまち青白い光に包まれる。
肌だけではなく、眼孔と口からも激しく雷光が噴き上がった。
だがそれは、暁斗も軽度ではあるが、痛みが走っていく。
どうしようもない雷撃が全身の細胞を死滅させようとしていた。
「ぐぁっ…………」
いくら状況を変えるためとは言え、自分の間近で雷呪を撃ち放つというのは、危険行為に近い。
何故なら呪術というのは、人為的に引き起こせない現象を発生させるだけではない。現象そのものを術者自身の「呪い」によって刻々と変化させるのだから。
なので、通常ではありえない結果を向かえる事がある。
例えば、ただの火が水そのものより優位になる為には、水を気体に変化させる程の莫大なエネルギーが最低限必要だ。しかし呪術はその優位性を「呪い」によって塗り替えてしまう事がある。ライター程度の火種で、プール一杯分の水を簡単に蒸発するなど。
もちろんこれは、名家と呼ばれる血統の生まれがごく稀に起こせる奇跡の領域。
だが、そんな危険行為をしたおかげで、少年の現状は変わる。
彼を拘束していた茨はバラバラに砕け散り、少年自身も僅かばかり斜め後ろへ吹き飛ばされたのだ。
それにより、少年は追撃に転じる事が可能になった。
しかし、自分も食らった呪術は少年の想定を、“ほんの少し”だけ超えていた。
すなわち、暁斗の全身が一瞬だけ痙攣し、歯を食いしばっていても溢れ出る、内蔵からの吐血。それに加えて雷が脳を刺激したのか、気絶する事さえ許さない苦痛という“ほんの少し”の怪我。
時間に換算すれば僅か四秒。
もちろん、暁斗は激痛を緩和するために別の呪術を瞬時に使ったのだが、これだけの事になってしまった。
だが、それをしたおかげで少年は死なずに、次の攻撃に移れるのだから。
しかし、その時には既に若い男――亡刃の両目は、雷撃で焼かれた状態から戻っていた。人間には絶対に不可能な回復力。生物という分類さえ疑問視する異常性。
それに、暁斗は恐怖を抱いた。
対して、
「……ふん」
亡刃の行動は極めて単純だった。
グッ、と拳を握りしめ、ほんの少しだけ膝を折り曲げたのだ。
少年の位置を確かめようともしない。ハッタリもフェイントもない、ただ単にこの拳で思いっきりぶん殴るぞというだけの姿勢。
「ご、りゃああああああああああああァァァ――――!」
踏み込んだだけのアスファルトが、ゴシャッと嫌な音をたてて砕け散る。
拳が、一気に迫った。
身体をねじり、前方やや上空に浮いていた暁斗のもとへと!
「くそっ!」
瞬間、こちらも攻撃寸前だった少年の体勢が、危機感を持った声と同時に大きく切り替わった。両腕が神経を通して反応。素早く重なり、呪力を纏いながら十字受けのごとく、若い男の拳を迎え撃ったのだ。
そこまで防御に徹しても、少年の身体は吹き飛んだ。
住宅に埋まりそうになるのを、足へと呪力を移動してかろうじて阻止する。
それでも内蔵まで衝撃が伝わり、拳を受け止めた両腕と飛ばされるのを止めた両足は、嫌な軋みをあげた。
「なん、つう……馬鹿げた……腕力だ……っ」
ズルズルと地面へと下がり、気管に血の臭いが混じるのを理解しながら、少年は呟く。
同じく、
「……おいおい、何で耐えきっちまうかねェ〜。腹に穴開ける気だったのによォ! さて、てめえは一体何者なんだ?」
と、若い男も不満そうに囁いた。今の一撃は、どんな防御態勢を取られようが、かまわず問答無用で肉体ごと飛散するつもりだったのだ。
「ただの、見習い軍人だよ」
「見習い軍人? 確か日本に新しく創られたって聞く、あの軍事組織の人間の事……じゃねェだろ? いやいやいや、いくら人間の勢力だからと言っても、それはいくら何でも可笑しいだろ? そうだろ?」
ほんの少しだけ驚いている、若い男の表情が面白かった。
「残念ながら。俺はその組織の最底辺の中で見習いをやってるってとこ」
「最底辺?」
「そ。ついでにトラブル一回時給千円のバイトもしてる」
少しだけ暁斗の言葉を吟味するかのように、若い男が目を細める。
それから、
「ふざけてんのか……」
「いや、そういうんじゃなくて、本当の話をしてんだけど……」
「だったら、こっちにも考えがある」
言うや否や左耳につけていたイヤリングを、若い男はもぎ取る。
自身の胸の前へと掲げ、邪悪な唇が短い口訣を唱えた。
「六道天仙の血をもって、亡刃が畜生道の四番目の観音に命ず」
「――――!」
瞬間、暁斗がガクリと膝をついた。
みっともなく、どうしようもなく力を奪われるのを、少年は感じた。
これまでの脱力感にも倍する侵食速度。けして目には見えず、しかし疑う事など出来ない根源的な「気」が片っ端から奪われていく。
それだけじゃない。
路地裏の隅に生えていた雑草さえ、たちまち萎び、枯れていった。
そして、周囲から奪った「気」の全てを、若い男が吸収していくのを感じたのだ。
(これ……や、ばい……っ)
「――ああ、やっぱり美味いなァ」
無慈悲無差別な「気」の略奪とともに、楽しそうに若い男が唇の回りを舐め上げる。
「後ろで使えなくなっている馬鹿と違って、俺の不死性能は一番単純なんだよ。せいぜい使えるのは植物を操る事ぐらいと、この仙儀を制御出来るだけ」
戦慄とともに、若い男の眼が、赤く、瞳が金色に輝いた。
すなわち、大陸のとある伝説で火眼金睛と呼ばれる双瞳の具現。
「黒曜集めて擂り潰せ、霊彗能」
「な…………ッ!」
少年が、呻く。
イヤリングを向けて、無数の「気」とは別のものが殺到したのである。
アスファルトや電柱の欠片、はてはその下の地面までもがひとりでに剥がれ、イヤリングへとまとわりつき、圧縮され、若い男自身の上半身ほどもある巨大な黒球と化した。ばかりか、黒石を繋いだ銀の鎖さえも長く太くなり、異形のモーニングスターを形成する。
「……お、おお、さすがに重たさがあるなァ〜」
若い男が、巨大な黒球を片手に一息つく。
三百キロ超えの棺桶を旅行用のペット入れ程度と評した若い男が、初めて『重い』という形容詞を使ったのだ。いや、単に『重い』だけではないだろう。そこに秘められた異変性を、暁斗は嫌というほどに感じ取っていた。
「少年、分かるかァ?」
若い男が、誇らしげに言う。
「これが俺の仙儀・霊彗能。俺らの事を仙人と言ったよなァ? だったら、その仙人の儀式物って事で理解してくれると助かるねェ〜。……ほい、」
最後の軽い一声とともに、若い男が黒球を振りかぶった。
ジャラリと鎖が宙を舞う。
動けぬ暁斗の喉が引きつり、刹那、鎖は勢いよく逆流した。
「ど、りゃあああああああああああああああっ!!!」
想定通りに――いいや、想定以上に、超重量の黒球をごくごく簡単に振り回し、若い男が暁斗の頭上へと振り落とす!
轟音は、大地をめくり上げる稲妻のようだった。
もはや地鳴りともまごう事なき衝撃が大地を揺るがし、裏路地に接した住宅の壁を砕き、半径二メートル程のクレーターを作りあげていた。出鱈目すぎる一撃はアスファルトもコンクリートも微塵に粉砕し、煙が立ちこめる粉塵に変換した。
それは誰の眼にも明らかな、単純すぎる暴力だった。
説明不要で簡潔した力は、もはや単純さに比重を向けたせいで、他を圧倒する域に達していた。
「…………、ぐっ」
暁斗は恐怖を取り払い、かろうじて反応した。
クレーターから、数メートルほど離れた地面だった。彼が生きていられたのは、寸前のところで反射神経が動いてくれたからだ。ちょうど破壊範囲にいた犠牲者も二人ほと担いでおり、ビキッ、と足から筋肉が悲鳴を上げる音を訊いた。
「チッ、しぶといなァ。やっぱその力が原因か……」
僵屍仙の若い男が、不快感を露にする。
「俺さァ、これ二回以上振るのは初めてなんだよ。面倒臭ェから、とっとと潰れておけよ」
そんな言葉に暁斗の思考は、
(警告、危険、対処不可。相手戦力は理解不能。現状での戦いは自殺に等しい。警戒しながらの撤退を)
そんな事は分かっている。会った瞬間から分かりきっている。
今の「気」の略奪で、少年の身体は――いいや、精神さえも、疲労の極致に達している。指一本動かすどころか、もはや呼吸さえしたくない。生きたまま水中に沈められた方が、マシと言い切れる最悪な気分。
「――でも、ダメ、だ」
「……これで逃げたら……ホントに、何も動けない……、最底辺の塵じゃないか……」
奥歯を噛みしめる。拳を握りしめる。
両腕は、まだ先ほどの犠牲者をしっかりと掴んでいる。
それだけじゃない。周囲には、まだ多くの人々が倒れている。こんな状況で、再び黒球が放たれればどうなるか。――そんなの火を見るより明らかだ。
何とか視線だけをあげた暁斗へ、若い男は獰猛に微笑する。
「ふっ、逃げないのかァ〜。まあ、逃がす気は微塵もないんだがな」
亡刃の頭上で、黒球がゆっくりと回り出した。
準備動作。
「ちゃんと話も訊きたいから、最低限に頭だけは綺麗に残しといてやるよ。知ってるか、少年? 人間っうのは胴体無くなっても、数分は生きてられるらしいぜ」
「…………」
答える気力すら、もはや暁斗から失せている。
多分肉食獣と出会った獲物が、もう逃げられないと悟ったなら、同じような状態になるだろう。一刻も早く楽になりたいと、自ら首を差し出す動きになるに違いない。
必死に死の誘惑と抗う拳から、それでも気力が逃げていくのを、少年は否応ながら感じた。
(……く、そ…………)
「……私の声が聞こえるかい? 暁斗」
遠く、聞き覚えのある少女の声を訊いた気がした。
その時だった。
一陣、突風が少年の身体を吹き抜けた。
(え…………?)
まともな風ではない。それだけは分かった。
何故なら。
その風が触れるや否や、若い男の振り回していた巨大な黒球が、突然ぼろぼろと外殻を剥ぎ取られていったのである。
「霊彗能っ?」
邪悪な唇が、呻きを漏らす。
「……少年、てめえ……本当に……を……っ!」
誰かの、名前を告げたようだった。
しかし、暁斗の耳にはその名前は届かなかった。
少年は、見た。
少し離れた、七階建てくらいの小さなビルの屋上だった。
嫌になるぐらい、月が大きい。ほんの僅かに欠けた満月。ドクンドクンと心臓が鳴るたびに、ますます大きくなるような感じ。
そして、その月明かりの下。
月光から現れたような、白い帽子、白いワンピース姿。
キュッと唇をへの字にして、こちらを強く睨みつけている少女。
「……ラ……ユ……?」
「古き五氏族の血を使いては、始解天仙の三番目の娘に乞い願う」
声が、聞こえた。
そんなはずはない。この距離で、少女の声など聞こえるはずもない。だけど、確かに少年は聞いたように思えたのだ。
ただの声じゃない。
物理の法則さえねじ曲げる、常識外の口訣。
ばかりか、少女の瞳孔は黄金、緑取った目は紅に染まっていた。
そう。
その瞳もまた――火眼金睛だったのだ。
双瞳と口訣に応え、少女が手にした金属の手甲に、ゴオッと焔が巻き上がる。
「――火生三昧、烈風、振るいて叫べ、五火炎道手!」
夜気が、沸騰した。
振るった手甲から噴き上がった炎の、とてつもない熱量ゆえに。
刹那に干上がった空気の水分が、絶叫のごとき水蒸気爆発を引き起こす。灼熱の業火は巨大な蛇にも似て、路地裏の暁斗や倒れた犠牲者たちを避けながら、ビルの屋上から数十メートル離れた亡刃だけを正確に補足し、燃える牙を剥いて襲いかかった。
「――――っ!」
亡刃は、動けない。先ほどまでの暁斗と同じく、生命力を奪われた身体は若い男の意思に応えられない。
火生三昧の焔に、呑み込まれる直前。
「――何をしている、小僧!」
倒れていたはずの喰が立ち上がり、駆け寄ったのだ。
あの不思議な風は、この怪鳥にも効果を及ぼしているらしく、飛び勇む喰の翼はぐらりと揺れた。それでも怪鳥は若い男の身体を片足で掴む。
「喰――!」
「すぐに逃げるぞ! 我が担い手よ!」
怪鳥の翼が、強く羽ばたいた。
焔がアスファルトを焼くのと、怪鳥が飛翔するのはほぼ同時だった。
大幅に力を奪われているようだったが、それでも驚くべき筋力で、二人の身体は商店街の屋根より高く飛び立ったのである。
そのまま、怪鳥と若い男の気配は闇夜へと消え去った。
あれほどの暴虐を振るった相手とは思えぬ、見事なまでの撤退だった。
「…………………………あ」
暁斗には、分からない。
一体何があったのか。自ら僵屍仙と名乗り、それにふさわしいバケモノぶりを見せた怪鳥と若い男。その二人を退かせた、今の常識外の応酬はどういう事か。
「あ、暁斗! 無事か!」
聞き覚えのある声が、したように思った。
白い帽子とワンピースが、視界の端で揺れた。
だけど、それを確認する気力や体力は、根こそぎ奪い取られていた。
そして――少年の意識も、ついに閉ざされた。