第五話 保護者と異変の入り口
「……まったく、忙しい奴め」
暁斗かいなくなってからラユは、ふっ、と困ったような顔になった。
野菜やら豚肉やら牛乳を大量に詰め込んだ、複数のビニール袋を持ったまま、少女の感覚は数百メートル先を走っている少年を捉えている。
視覚ではない。
気を、感じているのだ。
生きとし生けるものの全て。必ずしも有機物とは限らず、この星の何処かで流れている無形のエネルギー。精気でも龍脈でもよい。力の呼び方は世界の各地で異なるだろう。
そうしたものを、少女は気と呼んでいるのだ。
ゆえに、
少女が、自らの事を仙人と言ったのは嘘ではない。
仙人のようなもの、ではあるのだ。ただ、それが明らかになった時が、自分の去るべき瞬間だろうとも思っていた。
なのに、あの可愛げある少年はそんな私の力を、まるで気にしていない。
「見習い軍人……だってさ」
もう一度、独りごちる。
自分の正体を、一度も訊かない人間。
訊きもしないのに、私を居候としてアパートに泊める、変わった人間。
そんな関係が、ラユには初めてで、心地良かった。
だから、ついつい悪いと思いながらも、長居をしてしまう。
「それに、あいつのほっぺたは美味しかったからな」
ペロリと唇を舐めて、陽気に笑う。
じきに、アパートが見えてきた。
遠目にも、凄まじく古めかしい建物だった。
春の麗らかなお日様の下、ベタッと広がった二階建ての様相は、いっそ壮大な材木置き場と考えていいぐらい。
庭にある大きな桜の木から影響を受けたのか「はるさき荘」と木製の看板に書かれている。
学校まで徒歩十分。最寄り駅まで徒歩十分。
その101号室が、ラユと暁斗の二人と保護者の一人が住まう根城だ。
と、そこのすぐ近くに一人の大人な女性が、桜の花びらや落ち葉を掃いていたのである。
「おー、ラユちゃんではないか! お疲れ、……って、君一人だけか!?」
ぐるりと箒を回して、大人な女性――藤山夏希が、声をかけてくる。
外見は、長い黒髪をした美人で母性を感じさせる程の胸があり、それなりの格好をすれば周囲から注目を集めるほどだ。
その反面、ヘビースモーカーでどこかおっさん臭いところがあり、未だに結婚できていない。本人が言うには、自称二十九歳と三十八ヶ月。愛車は左ハンドルの高級スポーツカー(世界に三十台だけ)。これで私たちの保護者にして、暁斗の担任教師である事は見抜けまい。
「うむ、そうなのだ。夏希んも掃除当番お疲れさま」
丁寧に、ラユが一礼する。
一度持っていた箒を置き、ラユのところに歩いてきながら、夏希は深いため息をした。
「で、その暁斗はどうしたんだ? 一緒に帰って来るかと思っていたのだが……」
「知り合いの先輩に呼ばれたみたいでね。それで、私が買い物だけ持って帰ってきた、という訳さ」
「はっはぁ〜ん。それで、この状態になったのか。まあ、彼も何かしらの事情が面倒くさいみたいだからな〜。以前は、しょっちゅう来栖くんを起こしに、嫌そうによく家に行ってたみたいだけどな」
そう言う夏希の言葉に、ラユの心臓はわずかばかり跳ねた。
“彼も”というところを強調したからだ。
一週間前――あの少年が道ばたで倒れていた私をアパートに招き入れた時、いろいろとご助力してくれたのが、この人だった。
実は元一流のスタントマンだとか、神様とお酒を酌み交わしたとか、ボクサーの試合に乱入して選手二人とも倒したとか、謎の伝説的な話が絶えない人だが、私に対して何かに追われている感じがする、と言われたのだ。
その事を思い出したせいで、ラユは声を震わしながら言う。
「……ど、どうだろう。私は会った事がないからわからないが」
どうやら私には、女優ほどの演技力はないようだ……。
「ふふふっ、ラユちゃんが会っても、面倒くさい事になるんじゃないかな〜?」
「面倒くさい? む、やはり私の姿や態度かが、この国の常識から外れてるんだろうか?」
「いやいやいや、問題はそこじゃないさ」
「…………?」
ラユの眉が、一気に寄せられた。
対する夏希の方は、一層楽しそうにニヤニヤと笑うばかりだ。
「クククッ、別に分からなくていいさ。むしろ分からない方が楽しい! そういうのは、分からない間のふわふわ感が見てて面白いからな! 保護者といえば親も同然、同居人といえば我が子も同然! とすれば、家族のややこしい人間関係は、いい酒のつまみになるのさ〜!」
「……えっと、夏希ん。自分の世界に入らないでくれないか?」
混乱を見せながら、ラユが首を傾げる。
時々、この保護者の言う事はまったくついていけない。
「だから分からなくていいんだって。あ〜、でも、暁斗の情報とかもっと知りたくなったら、いつでも私のところに来るといい。どんな相談でも乗るからさ。クククッ」
片手で自分の胸を叩きながら、夏希は背筋をピンッと伸ばす。
多分、この相談という発言は、彼女が学生たちの問題を解決してきた自信によるものだろう。
あの少年の話しによると、屋上から飛び下りた女子中学生より速く加速していき、地上ギリギリで救出した、と訊いた。その時、病院に行ったらしいが、骨折してなかったので問題なく日常生活に戻ったというのだ。
私が言うのもなんだが、彼も普通と比べて大変おかしいが、この人はそれ以上だと思う。
よくあの少年が、口癖のように「早く誰か貰ってくれ。でないと見てる俺が息苦しい」、と言っていたのも頷ける。
分かりやすく言うなら自分勝手なのに、他人が困ってたらすっ飛んでくる性格。
だから結婚が遠くなってるんですよ、と言いたくなる。
とはいえ、私たちの生活はおおむねこんな感じだった。
たった一週間ではあるが、ラユと暁斗そして夏希の三人が過ごしてきた時間と場所。
すると、
「あ」
と、ラユが声をこぼした。
「ん、どうした?」
少女の頭に乗っているビニール袋を持ちながら、夏希は訊き返す。
「あ〜、いや、タバコ屋で買うのを忘れた……」
「なっ……、ま、まあ大丈夫さ。私が買ってくればいいんだからな」
「いや、本当にすまない。夏希ん」
夏希はその言葉を訊くや否やビニール袋を部屋の前まで置いて、アパートから出ていった。
そしてそのままタバコ屋まで、急いで走っていった……。
ラユはそれを見届けた後、自分の部屋に向かう。
玄関を通り抜けて、キッチンの冷蔵庫に手際よく並べていく。一部の食材には三割引きのシールの上に、二度目の半額シールが重ねられていたりして、さぞ暁斗がギリギリまで粘ったのだろうと窺わせる。
「まったく、どこまで貧乏性だ」
微苦笑して、シチューに使う食材を手前に入れる。
そして、ラユは食器棚に移動した。
せっかくだから、遅めに帰ってくるだろう少年の為に、中国茶でも準備してやろうと思い、簡単に淹れられる形式の茶器を取り出した。
数少ないラユの持ち物で、長い時間の間に色あせてところどころ欠けているカタチが、少女自身とどことなく似通っていた。
そこで、少女の視線が持ち上がった。
「……もう出なきゃいけないのかな?」
小さく、呟く。
自分に質問するように、小さく呟く。
「いや、分かってる。確実に今回は長居しすぎている。一週間も同じ街に滞在するのは、目覚めて以来初めての事だ。私の行為は意味がないどころか、間違いようがなく猛毒だとも……」
飄々とした白い帽子の少女は、こればかりは妙に窮した感じでこめかみを掻いて、しばらく天井を見つめてから、ポツリとこう言った。
「だけど――もう少しの間、許してはもらえないかな?」
「…………」
誰もいないから返答は無いはずなのに、自分の言葉を肯定してくれるのを待った。
「もしかして、あの少年に情でもうつったのかな……」
「まさか」
自分で否定して、ラユは瞬きをした。
二、三度瞬きを続ける。
それから、
「……いや、そうかも、しれないな」
ポサッ、と近くにあるクッションを敷いた椅子に座り込んだのだ。
「ただ、情がうつるとかどうとか、私には分からないからな……。だから、これがそうだと言われれば、私も否定が出来ない」
困ったように、少女はかぶりを振る。
そんな状態に陥った少女だが、ほんの一瞬驚いた顔をした。やがて不機嫌そうな声でこぼした。
「もう近くまで来たのか、ヤツらは」
そう言うや否や焦った顔に少女はみるみるうちに変わっていく。
「しまった! やつらの気を嗅いでしまった。こっちに来ようと思えば、そんなに難しくないはずだ」
迷惑そうな顔で言い終わると同時にガラリ、とスライド式のガラス窓を開いたのだ。
少女の小さな身体は、ガラス窓から半分以上を乗り出している。すでに帽子を深く被り直していて、細い手が少女の目元を隠していた。
そして、
「行かなければ、行けなくなったか……」
言うが早いか、悲しそうな顔をしながら、ラユは凄まじい勢いで、窓から外部へと脱出したのであった。
◆
「……やっぱり俺、誰かのトラブル解決するのに向いてないのかな?」
小さく愚痴を呟きながら、暁斗はとぼとぼと山から下っていた。
そのため息が、今までの中で一番、情けない。
丸まった肩と背中も、情けない。
近所の親御さんから見ちゃいけませんと、子供の目を覆い隠しそうなほどの弱々しさであった。
すでに日は傾いており、コンクリートに落ちた影は昼間より長くなっている。加えて、少年自身の顔も暗いせいか、やたらと陰鬱な雰囲気が辺りを漂っている。ただでさえみすぼらしい姿が、今なら三倍増しといった感じであった。
だがそれも、仕方ないと言えば仕方ないである。
ついさっき、みっちりと見習い養成所のトップを務める青年、来栖所長に責め立てられた帰りだったのだ。
<はるさき荘>とは程遠い、山の中に隠された建物群を背にして、少年はガックリと頭を下げた。
――『あのさ〜、灰崎くん、任務後だけどちょっとそこに座って貰えるかな〜?』
その第一声に始まって、青年の説教はたっぷり二時間以上懇切丁寧に続いたのである。
――『さて、いいかい? 人間には向き不向きがあると思うんだ、ぼくは。それに人生の選択とか、君は確かに見習いの中じゃ優秀だけど、早く軍人になろうと考えすぎじゃないかな〜?』
――『君にその気があるなら、僕だって協力は惜しまないよ〜。でも、どうしても軍人になりたいなら、変えるべきところがあるんじゃないかな〜? ほら、ここに入ったときから続けてる簡単なトラブル時給千円稼業とか、そういう小さな部分から見直してみたらいいと思うんだよね〜』
どれも、極めて正論だった。
そして、どう聞いても、二十歳になる青年の言いぐさではない。
どちらかと言えば弟か妹のそれで、しかも大変にイラつかせる部類である。むしろ、イラつかせられるが故に、暁斗の心へとグサグサと突き刺さった。いずれも見事な致命傷で、今もなお胸にズキズキと痛みが残っている。
一応、暁斗としては、五年前のあの彼女に会うために、決めた事なのだ。
金額設定にしろ、学生や見習い軍人との兼業生活にしろ、自分なりの思いはあるのだが、しかし、来栖さんの説教に言い返せるかというと、適切な言葉を何ひとつ考えられないでいた。
「あー……、絶対にこの顔で帰ったら、夏希さんにからかわれるよな」
人の悪い、熱血な保護者の顔が鮮明に思い出される。
クククッ、とアホらしいアニメの小悪党みたいな笑い方をする女性の事が、暁斗はわりと嫌いじゃない。
なにせ、自殺しようとした女子学生に「今度死にたくなったら私に相談してくれ。それでも死にたいなら一緒に死んでやるからさ」、と平然と言える人物だからだ。 だが、今のまま帰るのはまずいだろう。しっかり酒のつまみとして使われるのは、目に見えている。そのくせ、『学生に飲ませると都条例に引っかかるよ。それに、酒は大人の特権なのだ』なんて酔いながら言って、こっちには一滴たりとも譲らないのだ。はっきり言ってダントツで面倒くさすぎる。
(……来栖さんのところに寄ったのは、ラユから聞いているだろうし)
もうひとり。
白い帽子の小さな少女が、少年の脳裏に浮かんだ。
自分の事を仙人だとかいう、突然暁斗の世界に転がり込んできた少女。一週間前、暁斗が関わった事件が原因で、時々、力を貸してくれる相手。
「……もう一週間か」
改めて、確認するように口に出す。
はじめは、とりあえず一日だけ泊めてやるつもりだったのだ。それが二日になり三日になり、指折り数えればあっという間に一週間なわけである。
もちろん、暁斗も健全な男子ではあるのだから、女の子と一つ屋根の下という状況が嬉しくないわけじゃない。まあ、夏希さんの部屋に泊まっているから、厳密には同じ空間というわけじゃないにせよ、無防備な少女の姿に、慌てているのは事実だ。
しかし、こんな風にずるずると生活が続いているのは、もっと別の大きい理由が――、
「――って言うほどのものでも無いんだよなぁ……」
首を傾げながら、適当に頭をポリポリと掻く。
全体的に成り行きだ。出たとこ勝負の勢い任せ。深い考えなんて最初から皆無。おかげ様で独り暮らしの予行演習と思い、決めていた食費が圧迫されているわけで、商店街の人に言えば間違いなく笑われるだろう。
ただ、あの少女の話しは興味深かった。
こちらから尋ねる気はしなかったが、たまにラユの方からいくつかの思い出を聞かせてくれる事があり、そのどれもが暁斗にとっては心躍る話だったのだ。
草原に吹く乾いた風を、あるいは自分で釣った不思議な魚の姿を、少年は自分がそこにいるかの如くに感じれた。仙人だとかいう自称は妄想だとしても、それらの出来事を語る素朴な言葉には、少年の五感に訴えるほどの生々しさがあった。
(インドとか、中東の方かな……)
ぼんやりとは想像するのだが、それも深く考えたことはない。
あまり考えすぎると、スッとあの少女が消えてしまいそうな――そんな感覚がしたからかもしれない。
もちろん、そんな思考自体が、現実逃避なのかもしれないが。
(それこそ当の本人が、『だからキミは変わっているんだ』とか『見習い軍人なんだから、ちゃんと危機意識を働かせるべきと私は思うよ』とか、言い出しそうだ)
そんな風にも、思うのだけれど。
だけれど――、
「――うひゃあ!」
不意に、少年が硬直した。
ポケットの中で、マナーモードにしていた携帯電話が、突然震えたのだ。
(……俺の携帯驚かす機能でも付いてんのか?)
「はい、もしもし灰崎です」
また来栖さんかと思って、少し丁寧さに気をつけて出たところ、
『…………あッ!』
電話の向こうから、風の音と共に、気の抜けた声がした。
大変悲しい事に、それだけで全ての事が分かってしまった。
「委員長?」
『ああ……僕だ』
極めて律儀な声音。優等生という概念がそのまま形を成したかのような、抑制された口調。
折り目正しい服装に洒落っ気の薄型メガネをかけているところまで想像できるし、実際その通りなのである。
命守中学三年二組の学級委員長にして黒原病院の跡取り息子・黒原正紀は、意外な事に俺と同じ見習い軍人なので今、まるでトランポリンを跳ねるが如く、「気」を使って空を移動しているんだろう。
が、
少し疲れた顔で、暁斗は尋ねてみる。
「ひょっとして、また間違えたのか?」
『申し訳ない事に、電話を押し間違えたらしい。担任の藤山教諭と君の名前が、アドレス帳ですぐ隣にあるのが困り者だ……』
なんとも実直なままの声音で、口ごもりつつ向こう側の相手は肯定したのである。
優等生なのに、ひどく迂闊で残念な男だった。
たしかマークシート式の筆記試験の時、解答欄を全部ひとつずらして、配点が取れなかったのは、漫画みたいな冗談だとおもったのは記憶に新しい。一年生から生徒会の椅子に座りながら、嫉妬や羨望の視線より、「あれで大丈夫なの……?」という不安の声ばかり大きかったのも、いかにも彼らしくて笑ったものだ。
正紀はコホン、とひとつ咳払いして、
『なら、ここは間違いのお詫びとして、暁斗君に仕事をお願いしよう。確か時給千円だったな。悪いが、文具店で大学ノートと三本入りのシャーペンを二つセットで買ってきておいてくれ。領収書の名義は黒原病院事務室名義で――』
「だから、うちは時給千円の便利屋じゃねぇぇぇぇぇッ!」
ほとんど反射的に、暁斗が通話を切る。
ツーツーという断線の音を聞いて、しまったと顔を歪め――どうせ間違い電話か、と思いながらもため息をついた。せっかく自分が決めた事なのに、どうして誰も分かってくれないのだろうか?
「……やっぱり俺、誰かのトラブル解決するのに向いてないのかなぁ?」
思わず振り出しに返ってしまう暁斗である。
ますます背を丸くして、とぼとぼと足元だけ見て歩いていく。下を向いて歩こう、とばかりの姿勢であった。
多分、そのせいだろう。
(……あれ?)
と思った時には、少年の周囲は、ガラリと雰囲気を変えていた。
パチパチと二、三度瞬きして、
「商店街……?」
呟くのに、もう数秒かかった。
一口に商店街と言っても、全部が全部、店特有の建物になっているわけではない。外周近くの裏通りなど、他の住宅街と大した違いはなく、だからこそ暁斗も気づかずに迷い込んでしまったのだった。
(そういや、ラユにあまり近づくなとか言われたっけ……)
といっても、つい八時間前に猫の捕獲で踏み込んだばかりである。
もともと治安が悪くなりそうもない場所だし、養成所から<はるさき荘>を一直線に進むと、どうしてもこの商店街に引っかかってしまう。だから、暁斗としてはちょっぴりラユへの罪悪感があるくらいで、それ以上の感慨はなく、今まで通りに歩を進めて行った。
――後になって、思い返してみれば。
おそらく、この一歩こそ、灰崎暁斗の日常がより危険な世界へと、たどり着いた瞬間だったのだ。