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第三話 白い帽子の少女

 三月の上旬――

 人口二十三万人、東京都から車で三時間程度離れているごく普通の小さな都市・希望市。

 頭上に浮かぶ白い月が、街を取り巻く山々を冷たく照らしている。

 時刻はすでに真夜中に近く、間もなく日付が変わろうとしている。

 明かりの消えたビルの窓ガラスは、街灯の光を反射して、歩道を日中以上に輝かして明るくしている。街の南にある駅前の繁華街は、きらびかなネオンの海。深夜営業のファミレス。カラオケ。コンビニエンスストア。路上にはまだ若者たちがあふれている。 イベントの帰りだろうか、無邪気に騒ぎ、笑いながら、彼らは時折、暇潰しにと様々な噂について語り合う。

 退屈を紛らわすだけの意味ない話題。遊びとしての都市伝説語り。この世界のどこかに存在するという真祖という怪物について。

 真剣な口調で男は言う。真祖というのは不死にして不滅。一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ破壊の限りを尽くす化身を従え、人の命を奪い、殺戮し、絶望を与える。世界が生み出した冷酷非情な人間の敵対者で、過去にも多くの文明を滅ぼしている怪物なのだと。

 隣にいた男は、笑いながら言う。

 ――妄想も大概にしとけよ、厨二病って呼ばれちまうぞ。


 東京都・希望市。そんな都市伝説を信じる者はいない。

 何故なら、真祖という存在を事実とは思ってないからだ。



 その頃。

 真祖の存在を知る少年は、繁華街から北に三キロほど離れた歩道を歩いていた。

 彼は学校指定の制服に、コンビニ袋をぶら下げた若い男の姿をしている。

 年齢は十五、六歳というあたり。ただの高校生のように見えるが、彼はまだ中学生だった。

 まるで狼の体毛のように、前髪の色素がやや薄くて、横へと流れている、が。それを含めても少し筋肉質ということぐらい。どこにでもいそうな、ごく普通の少年だ。

 疲れているわけではないだろうが、彼の足取りは気怠けだった。コンビニ袋に入っているのは、百円おにぎりが三個。まるで家で夕飯の用意が出来てなくて近くのコンビニへと買い物したような雰囲気を、男子中学生が醸し出していた。

 路上には、少年以外にチカチカと明かりが明滅する電灯の近くに複数の人影がいた。

 それを確認すると少年が携帯を取り出す。数コール鳴ったところで、相手が出る。

 少年はその相手としばらく話してから、言う。


「こちら識別コード01、前方にカテゴリーCの亡者を発見、数一、現時刻20時38分14秒。これより除霊を開始する」


 少年の落ち着いた声が、ひっそりと発せられる。

 その言葉からは、聞いた者を安心させるような響きと、確固たる決意が感じられた。


「はい、こちら希望市拠点の関東養成所。コード01除霊に移行してください」

「了解」


 少年は携帯を切り、目の前の光景を視認する。

 青年の目線の先には謎の生物、否、それは亡者と呼ばれる悪霊がそこかしこにいた。背中を突き出した白い骨を剥き出しにして、不気味なのっぺりとした顔と同じ漆黒の身体をしている。

 そのどれもが生理的な嫌悪感を芽生えさせ、ある種の禍々しさを感じさせる。

 まるで猿のようにダラリと手を垂らし背中を丸めて徘徊し、手から生えている独特な形状の骨で現場にいた者を虐殺にしたのだろう。

 だが少年はコンビニ袋をその場に置いて、亡者の群れに悠然と歩を進める。

 その足音に1体の亡者が気付いた。


「アアァ……ギャ……ググゲ……」


 亡者が、歩きながらこの世のものとは思えない呻き声を上げる。まるで、聞いた者全てを呪い殺すような凄味があった。

 その時、亡者に異変が起こる。歩く速度が、徐々に上がっているのである。

 歩く姿勢も、一歩進むごとに、ゆっくりと前傾気味になっていく。二歩、三歩、四歩そうやって速度を上げながら歩いていくごとに、更に体は傾いていく。

 そして遂に、亡者は四つ足の姿勢となり、地面を激しくベチベチと鳴らしながら、凄まじい速度で少年目掛けて突進し始めた。

 少年は、依然としてゆっくりとした歩きを続けながら、


「おいおい、元気だな。何かいい事でもあったか? こっちはお前のせいで最悪だよ……」


 亡者の異臭に鼻を手で擦りながら、そう嫌みたらしく言い放つ。

 少年が、亡者に歩み寄りながら、軽く肩を回す。亡者は、アスファルトを激しく打ちつけて、その突進の標的を、少年に絞り込む。

 青年と亡者が激突するまで、もう数秒ほどしか時間はない。激突まで、残り五、四、三、二──、一。

 残り一秒となった瞬間、少年が攻撃を仕掛けた。


「はッ!」 


 短い叫び声とともに、少年の右腕が唸りを上げる。

 そして、大砲のような凄まじい拳が、亡者の額を打ち抜いた。

 亡者の首は、打拳の衝撃に耐えきれず、天を仰ぐように上方へもたげていく。

 そして遂に──

 ボキッ、という鈍い音を立てながら、真後ろの方向へと折れ曲がった。


「……ッアッァァアァガァァアアアアアアア!!」


 首の骨が折れ、頭部が奇妙な状態でぶら下がったまま、亡者は苦悶の叫びを上げる。

 すると、酷く折れ曲がっていたはずの亡者の首を亡者は力ずくで頭部もとの位置へと戻した。

 通常の人間ならば、死んでしまうであろう程の重傷が、である。

 しかし、亡者は苦痛に喘ぎ、よろめいてはいるものの、事切れる様子は全くなかった。

 亡者は、一瞬ピクリと全身を揺らすと、両腕を少年に向けて伸ばす。


「…………」


 それを見た少年は、無言のまま、腰を低く落とし、息を吐きながら両拳を構える。

 次の瞬間、亡者の両腕が、まるで拳銃の弾丸のように発射した。

 そして、飛んだ両腕は風を切りながら凄まじい勢いで、前方の少年へと襲い掛かる。狙いはただ一つ、少年の首であった。

 しかし、亡者の両腕は、少年の首を捕えることはなかった。

 首に到達する直前、亡者の両手首は、少年の両腕によって簡単に握られたのである。

 そして次の瞬間。

 少年は掴んでいる両手首を、それぞれの手で粉々に握り潰した。

 そして、今度は少年が亡者の目前まで駆け上がりそのまま亡者の体を引き寄せると、亡者の水月目掛け、重い膝蹴りを繰り出したのである。


「ギャウ゜ア……ア……アアアッ!?」


 手首を握り潰され、渾身の膝蹴りを食らったことで苦痛に悶える、亡者。

 浄化させてやる、と言わんばかりに、少年は更なる攻撃へと移行した。


「ハッ!」


 少年は口から呼気を漏らしながら、亡者を目掛けて打拳を放つ。縦拳による鋭い一撃が、先程膝を受けたばかりの亡者の水月に、深々と突き刺さった。


「ギェ……ゲェ……」


 亡者が漏らした呼気は、少年のそれとは全く異なる。

 急所を打ち抜かれた激痛に耐えきれず、肺から大量の空気が絞り出た事を示す呼気であった。

 少年は立て続けに、左右の拳を用いた連打で攻め続ける。

 放った連続技のどれもが、亡者の体の急所を正確に抉り抜いていく。

 堪らず亡者は、後方へと後退った。

 しかし、連撃は終わらない。少年は、後退った亡者に向かって素早く踏み込み、一気に間合いを詰める。


「何、下がろうとしてるんだ?」


 少年の挑発的な笑みと共に、両拳による重い拳の連打が、亡者の水月に再度叩き込まれる。

 青年の放つ連打は素早く、一秒間に十数発撃ちこんでいる。まさしく機関銃の如き猛攻であった。

 八十発近く打ち込んだ頃であろうか。

 少年は、先程までの激しい連打をピタリと止め、フラフラとよろめいている亡者の首を、緑色に光る右手で鷲掴み、

 そのまま、


「ふんっ……」


 地面に向かって、亡者の体を力強く叩き付けた。その無慈悲な一撃が、勝敗を決した。


「……ガァァァアアアッッ!!」


 アスファルトに叩き付けられ、腐ったスイカの如く体がグチャグチャになった亡者は、激しくもがき苦しみながら、断末魔の悲鳴を上げる。

 しかし、徐々に悲鳴は小さくなっていき、体の動きもゆっくりとしたものへと変わる。

 そして、動きが完全に停止した時、亡者の肉体は塵状になって消滅した。


「…………」


 少年は無言で構えたまま、亡者が消滅した場所を見つめる。

 この少年の名は、灰崎暁斗。

 見るからに平凡な少年から外れた人間である。

 何せこの少年がしていた仕事は、日本で秘密にされている「日本浄鬼軍」の、母体組織がしていた基本的な主任務であるのだから。

 そしてこの少年・灰崎暁斗は、その「日本浄鬼軍」の関東養成所の一つに所属している見習い軍人なのである。

 暁斗がコンビニ袋を取りに行っている間にもこの路地は今、日常とは不釣り合いな世界に歪み、亡者の異臭で溢れ、さながら腐ったイワシの臭いと錯覚してしまいそうな光景へと変化して行った。



 亡者と遭遇し終えた暁斗はまだ路地を歩いていた。

 何故なら本来の目的地点に、まだ遂げていないから。

 それなりに造りのいい顔であるのに気怠げな表情なのは、あの亡者みたいな悪霊と遭遇するからだと判断してしまう。

 少年がいつものように歩いていると、こちらへと通行人が来ているのが見て分かった。

 一瞬、暁斗は悪霊を想定して警戒体勢に入るが、全体像が分かるにつれ、徐々に緊張を緩めていった。

 色鮮やかな浴衣を着た、若い女の二人連れだ。

 彼女たちは、暁斗よりも少しだけ年上なのだろう。学生の雰囲気をまだ残しているが、中学生にはない色香がある。時折のぞく横顔も、ナチュラルメークなので、なかなかの美人だ。

 少年は二人から離れて歩いている。だが、馴れない下駄履きのせいか、彼女たちの歩みは遅い。互いの距離は次第に詰まっていく。夜風に乗って彼女たちの香水の匂いが漂ってくる。

 暁斗の前で、小さな悲鳴が上がる。

 彼女たちの一人が段差に躓き、バランスを崩して転倒しかけたのだ。胸元の浴衣が大きくはだけ、女の首筋が一瞬あらわになった。

 それに少年は、無意識に立ち止まってそれを眺める。

 浴衣の襟と、結い上げた髪の間にのぞく、細い首筋、白い素肌。そして胸の谷間。

 少年は、息を止めてそれを見つめた後、首を振って歩きを再開しようとする。

 その時。


「わおっ!、ツッキーくんだ!」

「はぃ?」


 もう一人の女から、声が掛かった。

 視線を急いで上げ確認すると、やはり自分に掛けられた声。

 外見に似合った明るい声をした、見知らぬ人物。

 と、考えたが記憶を探ると渡辺詩織(わたなべ しおり)の名が出てきた。

 かつて、少年にストーカー退治を依頼したことのある女子高生だった。「君とはまた会いたかったのよ――っ!」、と。彼女は慌てる少年の身体を抱きしめ、満面の笑顔を浮かべた。交流は短期間に過ぎないのだが、よほど印象に残っていたのか、しっかり覚えててくれたらしい。が、突拍子のない行動に焦りながら、少年は彼女の身体を引き離して、その後の経過を訊いてみると、


「もうバッチシよ! まだ彼氏はいないけど、毎日楽しいわ!」


 と、不安の欠片も残っていない様子の詩織。


「それは何よりです。でも、こうやって抱きしめてたら、トラブルがまた起こりますよっ!」


 顔を赤らめ視線を外しながら、少年は彼女に話す。だがこの日初めて、少年は(胸的な意味ではなく)本心から嬉しい気持ちになった。自分が関わったことで、依頼人の人生が上向きになるなら、今まで必死に頑張ってきた甲斐がある。

 だが、少年の言葉に彼女は、


「え――っ、ツッキーくんなら人の嫌がることはしないでしょ? そ・れ・に、どうでもいい男の子には絶対に私は抱きつかないよ♪」


 そう魅惑的な言葉を暁斗にかけると、隣にいた彼女に詩織は、「咲、ちょっと待ってて!」「え? その人誰? お姉ちゃんの彼氏?」「うん! 正義の味方でお姉ちゃんの彼氏だ!」などと会話をしながら、少年を連れてどこかの駐車場の奥へ。

 それに少年は「ちょっ、何言ってんのっ! 彼氏じゃないからね!」と弁解を喚きながら、詩織に引きずられて行った。



 どこにでもある駐車場の一角。

 彼女はこんなことを、少年に向けてさらりと言った。


「で、私を連れ込んでナニをするつもりなの?」


 彼女が発した言葉の意味を少年は理解すると、まくし立てるように反論する。


「べ、別に何もしませんよっ! というか、連れ込んだのアンタ! 魔王に囚われたお姫様ポジにクラスチェンジするなっ!」

「ありゃ、もう普通のエロに興奮できないのかな? それともツッキーくんは今年で高校生になるから、お姉さんだけじゃもの足りないって言う話? なら今から、妹の咲を呼んで三人で愛欲の世界へ旅立っちゃう?」


 と言って、たわわに実った乳を突き出す。服の下で胸がプリンのように揺れた。悲しいかな、男の性で、ばっちり釘付けになってしまう。

 それでも、少年は必死に抵抗を試みる。


「その明け透けで、周りを困らせるところに、俺、詩織さんに踊らされるのは無理なんで、勘弁してください。もうほんと、その可愛らしいのもいい加減にしてくださいよ」

「はは、必死になっちゃって可愛いなツッキーくんはっ♪」


 言いながら彼女は、少年の首に手を置いて撫でるように上下に動かす。あまりに淫靡な手つきに息が漏れる。子供っぽさの残る彼女が逆のことをすると妙に色っぽい、ちょっと上目遣いの目線に、思わず少年の心臓は、どうにかなってしまいそうなほどばくばくしていた。


「いい加減にしてください、詩織さん」


 少年は彼女の手を払い、行為を止めさせて、気持ちを落ち着かせる。上がった心拍数を下げようと、少年は何度も深呼吸をした。


「あれ〜、怒った? ごめんね! で、どうかしたの? 中学生の君が、平日の夜中にこんな都会側に来るってことは、仕事なんでしょ?」


 やはり年上の人間は、なかなかに察しがいい。

 少年は秘密を厳守してくれる彼女に、今日の仕事を手短に説明する。

 すると、彼女は心配そうに言う。


「ツッキーくんは、色々と問題に関わりたがるから、なるべく身体を壊さないでね?」


 少年の仕事は一体何をするのか彼女は分かっていた。それでも警察に通報しないのは、彼女が成熟した精神を持っているから。


「またどこかで会おうね、ツッキーくん!」


 その言葉に黙って頷き返し、少年は駐車場を離れた。



 あの日から五年が経過しようとうとしていた。

 俺はあの災厄で、唯一の生還者だから世間に騒がれる存在になるのだが、それでニュースになった事はない。

 何故なら、自身を日本浄鬼軍所属と言っていたあの男が、俺の個人情報保護に尽力してくれた……らしい。

 どうして、そこまでするのかは俺を何かに利用するためだろう……。

 だが、テレビやラジオ何かでは、いまだに約五年前の事を取り上げる事はあるし、学校なんかでももちろん習ったりはした。

 でもそんなのは、そこに関係していない人間なんかにはよく分からない事だろう、大抵の者は記憶の片隅に追いやり、日常を送っている。

 これは以外と悪いことではなく、明日に向けて歩く為には、災厄(あの日)を度々思い出していては、生きていこうとは考えなくなるからだ。

 何にしても、日本は無事あの災厄を乗りきった。

 ただ、やっぱり約五年前のあの事件はこの国、いや世界中にその影響と恐怖を残しているのも確かだった。

 大まかに一般に報道された情報を説明すると、2114年3月21日午前8時34分47秒。

 その時、日本の中部地方にある長野と岐阜のちょうど真ん中・真理(まり)市浦革(うらがわ)町で、球体状の光が突然現れた。

 光の発生から消失までの時間は、僅か二・三秒。

 光が消えるとともに、後には巨大なクレーターだけになり、建造物から道路までもが無くなった。

 いや、この程度の言葉では、適切とは言えない。

 だが、この出来事をマスコミ各所はあの災厄をこう呼んだ――広域異常災害現象(イレギュラー)と……。

 この災害における被害は、中部地方の総人口、2400万人のうち死亡及び行方不明と公式発表されたされた者は、七割以上。

 たった、たった数秒で、日本にある一つの地方は丸々崩壊した。

 言葉のアヤじゃない。

 文字通りすべて、瓦礫一つ残さず崩壊したのだ。

 噛み砕いて言えば、人類が開発し、最悪な武力になった核兵器がある。

 その中でも爆弾皇帝と呼ばれるツァーリ・ボンバー(第二次世界大戦中に、全世界で使われた総爆薬量の十倍の威力を持つ水素爆弾)の三倍にもなる破壊をもたらした。

 その威力は公式記録によると、第一次影響圏による破壊範囲は半径43.6キロメートル、致命傷になる衝撃波領域は半径108.5キロメートル。

 発生から消失までの流れは、巨大な光のエネルギー球体が発生し、それに触れた物質が完全に消滅。第一次影響圏である球体内部は空気も消滅した可能性があるため、球体の縮小・消失後は真空となった圏内に周囲の空気が流入、第二次影響圏で突風が発生し、さらに高範囲に被害を与えた。

 なお、爆発、熱反応、は全く計測されず、第二次影響圏終了後は政府が放射能汚染を調査したが、基準値のままだったので、放射能被害は起こらなかった。

 もちろん災害によって日本の経済は麻痺になり、政府及び日本は、未曾有の大混乱に陥った。

 だが、事態はそれで終焉を迎えたわけではなかった。

 経済機能が一時的に崩壊になった日本は、日本人テロリストの活動規模の増大や貧困問題の悪化、そしてあの災害の脅威に晒された低迷期に、突入した。

 昔、つまり災害前までは人口が一定だったらしいんだが、あの後から現在にかけて、周辺の街やら何やらから次々に人が流れこんできて、ちょっとした新都市を形成したらしい。

 で、現在。

 災害以上にテロ活動の危険度が高いので、身を守るために誰だって護身術や格闘技の類いは習っている。



 3月5日午後9時7分。


 誰も、助けてくれないと思っていた。

 だが、それは私からすれば当たり前の事だった。

 今日までは……。



 星が、見えていた。

 星ぐらいしか、見えなかった。

 路地裏の形に切り取られた夜空は、ひどく痩せてみすぼらしい。

 しかし、横たわったままの私には、その夜空を見る以外にする事もなかった。身体中に鉛でも突っ込まれたかのようで、指一本どころか、瞬きするのも億劫な気分。肌には傷一つないのだから、きっと致命傷を受けたのは身体じゃなくて、精神(こころ)の方なのだ。

 四月まであと一ヶ月とはいえ、吹き込む夜風は冷たい。

 ひどく、疲れた気分だった。


(……止まってはいけない)


 頭の中で、誰かが言った。

 それが自分の声だと分かってはいた。分かっていても、私には動くことが出来なかった。動く為の気力など、残っているはずもなかった。

 なのに、


「……ぉおい!」


 誰かの声が、聞こえた気がした。


「え?」


 そんなはずはない。いや、あり得ない。

 私を捜している連中は、十分引き離したはずだ。ましてや私の同種でも、今の私の存在には気づけぬだろうに。


「……ってこんなとこに人なんかいるのか? もしかしてにダメなったとかじゃねぇよな……」


 声は、誰かに話しているようだった。というより『何か』に愚痴ている。

 しかし、人影は一つしかない。携帯電話を持っているようでもない。随分と奇妙な人間だったが、その『何か』の知恵でもあったのか、人影は真っ直ぐこちらへ歩いてきた。


(…………?)

「うおっ、こんなところに」


 ほんの一メートル前で、人影は驚いたように停止する。

 それで、やっと顔が見えた。

 十五、六のまだ少年の年頃で、 平均的な体つきより筋肉質だと制服の上からでも分かり、目と耳にかかるくらいの長さの黒髪が、横へと流れている。

 どちらかと言えば年の割に幼さが感じられ、どこか悪戯っぽい顔つきをしていたが、――生来のやんちゃ小僧みたいな愛嬌もまた、真っ黒な瞳から垣間見えていた。

 頭をカリカリと掻きながら、その少年は言う。


「今日は何なんだよ、日常と違うことが起こりっぱなしだぞ」

「……放っておくといい」


 私が応えると、少年はビクッとと大げさに震えてみせた。


「……起きてたのか」

「どちらでもいい」


 ため息をつく。


「とにかく放っておいてほしい。キミも、うっかり他人と関わったせいで傷つくのは嫌だろう」

「……お前、追われてるのか?」


 やっと気づいたのかと、私は思う。

 見ての通り、厄介者なのだ。とっとと切り捨てればいい。

親切心とやらを発揮して警察でも呼んでくれれば、無理にでも動く言い訳になる。どちらに転んでも、私にとって損はない。

 そう、いつも通りだ。

 少しだけ、休んだ。後はいつもの時間に戻るだけ。その決心を、この数秒で私はすませていた。

 しかし、


「そっか、なら問題ないな。それに良かった」


 などと、少年はトンデモナイコトを口にしたのだ。


「……良かっ、た?」

「俺、見習い軍人ってやつなんだよ。多分、他のどこよりも安全だと思うぞ」


 そんなふざけた言葉を、続けて言う。


「見習い軍人? キミ、せいぜい高校生だろう?」

「高校生になるのは四月からな、ついでに言えば、トラブル一回千円でバイトもしてるんだぞ」


 何か、ひどく馬鹿げた事を訊いた気がした。

 私が言うことじゃないかもしれないが、極めてタチの悪い戯画にでも放り込まれた気分。つい先ほどまで、自分こそが非日常の側にいたはずなのに、突然現実と虚構が反転したかのような。


「……見習い、軍人?」


 もう一度呟いた私に、


「ほら」

「え?」


 気がつくと、キミの手が差し出されていた。


「手、出せよ。それと名前は?」

「…………」


 沈黙した。

 戸惑った。逡巡した。困惑した。

 どうしようもなく、みっともないぐらいに混乱した。

 何よりも、自分自身に戸惑っていた。

 そんな私が……どうしてキミに応えてしまったのだろう。

 指一本も動かすのも億劫だったはずの私が、どうして温かな手を握って、自分の名を言われるままに告げてしまったのだろう。


「……ラユ」

「ラユか。女の子らしい、可愛くて優しそうな名前だな。俺は暁斗。灰崎暁斗って名前だ、よろしくな」


 そこで、初めてキミは笑ったのだ。

 ニッコリと夜空に優しく溶け込む、明るい月のような笑顔。

 ……ああ。

 正直に、言おう。

 きっとキミに向かって言う事は永遠に出来ないだろうから、せめてこの胸の中だけででも、素直に告白しよう。

 私は、見惚れたのだ。

 自分のこれまでの人生の中でも、私を可哀想と思わず、対等に扱ってくれたキミのその笑顔が――灰崎暁斗のその笑顔こそが、最も貴いものに思えたのだ。


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