第二話 暁斗の決意
暁斗が再び目を覚ました場所は、病室のようなところだった。
白い天井。
白い壁。
その部屋は、白以外の色が消失しているように見える。
部屋にある簡易のベットから、彼は体を起こす。
上半身は裸で、幾重にも包帯を巻かれていた。胸がズキズキと痛む。だが、おそらく致命傷に繋がるものではない。なら、何故意識を失ったのか? そして、自分がここにいる理由について、
「…………」
まず暁斗は包帯をめくり、中身を見る。
皮膚の色が、胸の半分ぐらいの大きさで青くなっている。どうやら中の太い血管が、切れたようだった。それで血液が不足してしまって意識を失ったのだ。皮膚に切開した小さな手術跡がある。おそらくは血管を繋いだのだろう。
怪我の具合を確認した後、暁斗はどうして自分が何故ここにいるのか、記憶を順に遡っていく。
「…………」
公園。
ブランコとすべり台しかない近所の公園。
将来の約束を決めるぐらいにお互いが大切で、必要な存在だと思っていた幼なじみ、姫柊明日菜と口論のすえ、殴り合った。
……違う。
殴られた。
でも、彼女は僕を殴る度に次第に力が弱くなり、最終的には彼女が泣きながら、殴り続けるという事態に発展した。
きっかけは唐突に彼女からのものだったのは間違いない。
(明日菜に、何の脈絡もなく、殴られたんだっけ……)
殴られた理由が、悲しいものだった。
明日菜は、全部が嫌になったんだと言った。
何をしようとも、何を話そうとも、どんな経験も、僕とは一緒にいれないという気持ちになってしまうって。
だって僕には許嫁がいるから。
それが不安だと、とても不安だと彼女は言った。
「全部が無駄だと思うから、今日で繋がりを終わらせてしまうのも悪くないかなって……」
と。
その為に、殴り掛かってきた。
分からない。
分かるものか。
何もかも同じで繰り返していれば、あの穏やかな日常は少なくとも中学を卒業するまでは続いたというのに、それを不安になったという理由で殴ってきた明日菜の事なんか。
(…………)
自覚している。
僕も大概ダメな奴で、おかしい。
明日菜の考えが≪全てが一緒にいれないという気持ちになって、不安になる≫という確定した未来からくる感情だとしたら、僕はその真逆、≪不安があるからこそ安心出来る≫。
ゲームをする際、攻略本も買わず付属品のストーリーでさえ読まないで、最初からプレイを始めるようなものだ。
真新しさという感覚を得るためだけにゲームを始め、新鮮味という感覚が少しでも下がった瞬間に止める。
それは確かに明日菜の言ったように不安になるかもしれないが、確定したシナリオが未来だとしても、最悪の結末に繋がるとは限らない。
どこかで心踊るハッピーエンドな事が起こり、バットエンドじゃなくなるかもしれない。
明日菜は不安だからこそバットエンドを迎えることに、恐怖を抱いているけど僕は違う。
僕はバットエンドを迎えるのを知っているから、様々な手を使い、努力して防ぎに行く。
普通じゃなくたっていい。
不幸にならなければいい
世界を変えようなんて思わない。
今は、あの明日菜を異常にさせた存在のみを倒せる力と、彼女を抱き締められる手さえあれば、それで十分だ。
例えば、
──その影でとてつもない不幸に苛まれ、誰かが苦しんでいても、いいのかい?
「え」
頭に浮かんだ、突然の思考。
僕の意識の中に浮かんだそれは、僕の思考でしかないはずだ。
自分自身に嫌気がさしてきそうなろくでもない傲慢な思考。
なのに。
誰かに言われた言葉だった気がした。
(今のは、一体なんだ……?)
けれど、見回せばそこにあるのは白色だけの空間。
当然他のベットに誰がいるわけでもない。
窓の外を見れば空の青さが届いて多色になるが、ずいぶんとつまらない。もしかして自分は天国へとやって来たのかと考えるくらいに、風景の無さを痛切に感じた。
これを病院と呼ぶべきか分からないが、たまたま患者が少ない時期なのかもしれない。
こう言ってはなんだが、この病院に腕の良い医者が揃っているからこそ入院する患者がいないのかもしれない。
この病院が繁盛しないのは、それだけ病気や怪我の人が少ないって事で喜ばしいものだと思える。
けれどそうではなく、高名な医者がいるのに治療や手術に至れない人しかいなかったら?
部屋が空いていても、そこに意味がないのでは……。
暁斗は急に悪い方へと考えてしまい、途端に落ち着かなくなる。
あの公園にいた明日菜が持つ優しさと柔らかくて落ち着けるのに、それでいてどこか放っておけない儚さと共通したものがあったように思えた。
だから僕にとっての明日菜は、強い熱というより霧という名の水の膜の向こうにしかおらず、美しくて遠い幻に似ている。
確実に存在しているのだとしても。遠すぎて今の僕には手が届かない……。
なのに、微笑みの柔らかさは忘れがたく、どうしたって希望を抱きたくなる。
天女、聖女、女神……彼女を端的に示そうとすると、どの表現でも役者不足で違う気がするほどだ。
「……ふむ」
と、暁斗は独り納得してうなずく。
するとそれに、
「ふむ、じゃねぇだろう?」
病室の外から声が、する。
男の声。
聞いたことのない、男の声だ。
暁斗はそちらに視線を送る。
すると開いたままになっていた扉の外に一人の男、というより青年が立っていた。
耳にかかるほどの長さがある、ごく緩やかなウェーブの黒髪。
そしてやる気なさそうな顔立ちなのに、少し冷たそうな目つき。
黒い服を身に纏い、腰には日本刀らしきものを差している。
青年は軍人のようだった。
青年は困ったような顔で暁斗を見つめている。初対面の相手にどう声をかければいいのか分からない――そんな顔でこちらを見つめ、そして、
「……包帯勝手に取るなって母親に言われなかったのか?」
なんて事を言う。
そしてそれに、暁斗はどういう態度で青年に接するかを考えてから、
「ぼ、……俺の家には、母親なんて人間は一度も見た事もないので分かりませんでした。教えて頂きありがとうございます」
と、皮肉まじりに頭を下げた。
すると、青年の瞳の奥が少し波打ったように見えた。
そして、言う。
「ああ、お前も母親っていうのが、どんなもんか知らないのか……」
「知らない、というのはどういう……」
「そのまんまの意味だよ。母親と生活した事がないっていう、その通りの意味だ」
それに、暁斗は答える。
「ふーん、お前もそうなのか」
「…………」
「なら、何で俺たちの母親って急にいなくなったんだろう」
が、遮って青年は言う。
「もういい。喋るな、黙ってろ」
そう命じられて暁斗は黙った。青年の声はほんの少し怒ったような色を帯びていたから、黙らざるを得なかった。
青年は病室に入ってくる。
暁斗はその青年の顔を見上げた。やはり、少し怒っているように見える。
だが少年は見ているだけ。
今、青年の過去について言えるだけの力を自分はまだ持っていない。
何せ、あの公園の出来事から何一つも状況は変わっていないのだから。
それにふと、公園で彼女が苦しむように胸を両手で掴んだのを、思い出す。
――『ねぇ、私たちって大人になっても、ずっと一緒にいられるかな……?』
そんな彼女の一言を思い出して、だが、あの時の自分は何もしなかった。
何故なら明日菜はそんな冗談を毎日するので、心配して彼女に近づくと笑って抱きついて来るのだから。
でも、あの日だけは違った。
突然、彼女を中心としてまばゆい光に包まれたかと思うと、あの現実味のない光景に変わっていた。
暁斗はその光景をゆっくりと記憶に刻みつけながら、違う事を言う。
「名前も分からない奴が、いきなり入ってくるの嫌だから名前教えろよ」
そんなどこか危険な雰囲気を漂わせている青年は、暁斗の横柄な態度に対して口を開いた。
「その前にこちらから質問する。少年、お前の名前は何て言うんだ?」
暁斗はその鋭い視線に少し戸惑い拗ねた後、自分の名前を告げた。
「……灰崎暁斗って言う名前だ」
それに青年は、口元を緩め再び言葉を紡いだ。
「預言通りだな……、俺の名前は霧生宗介、階級は中佐で日本浄鬼軍に所属している。暁斗、お前を俺の目的の為に保護してやる」
ちなみに日本浄鬼軍というのは、七十年前に勃発した第三次世界大戦の戦時下で、日本国の自衛隊は敵国からの攻撃を受けてからしか、防衛に入れなかった事や人を殺す恐れのある戦争に、日本が巻き込まれるのを拒絶する人間(戦争という言葉を訊いただけで議論しようともしない層)の反対運動が起こった事で、自衛隊の存在意義が災害救助を中心とした組織と化してしまい、本来の意味を失い、敵国の脅威が過去最悪になった時に、政府が承認して設立した全く新しい軍事組織である。
しかし、この組織内部情報の大部分が機密扱いなので、テロリストや各国の諜報員がこの国の裏で動いていると噂されている。
その情報の中で唯一公表されているのが抗鬼装と呼ばれる武器の書類だけ。
その武器の利点は以下の二つ。
・軍事教練終了後に契約し所持が可能。
・現行の戦車10台相手でも確実に勝利できる。
なので暁斗は、宗介の紹介を訊いて彼女と離れ離れになる時に決意した“あの覚悟”を隠しながら、一言だけ告げた。
「……俺を、その日本浄鬼軍に入れてくれないか?」
暁斗の言葉に宗介は驚いた。この年の子供ならば、日本浄鬼軍について教育しているものであるが、泣きわめくか、大人に助けを求めるものである。
この少年は自ら進んで軍への入隊を志願したという事に。
その疑問を、
「何故、軍に入りたい? 覚悟が無ければすぐに命を落とすぞ」
宗介は思うままに、暁斗へと訊いた。
「ここで目が覚めるまで、大切で手放したくなかったアイツが、世界から否定された……。だから、もうアイツが悲しまないで済むように、俺が守りたい。いや、俺が護るんだ!」
小さな少年、暁斗は自分の持った感情を、大きく爆発させた。
それに納得した宗介は言う。
「お前の意志は分かった、俺がお前を軍人にしてやる。だから、これからは自分の言葉に後悔するなよ、灰崎暁斗」
「ああ、分かった」
暁斗は、怒気混じりで応えた。
自分が弱すぎたから、どんな道のりになろうが血を吐く事になろうが俺が護る。あの時、明日菜を護れなかった俺が、今度こそ絶対に……。
「そうか。じゃあ俺は仕事があるから、ちゃんと安静にしとけよ、暁斗」
と、宗介はこちらを見つめ、それから踵を返し、こちらに背を向ける。
そしてそのまま宗介は病室を出ていった。
暁斗はその宗介がいなくなった扉の方を見つめる。
真っ直ぐ見つめる。
つまらなそうな顔で、誰もいない、白い壁を見つめて、
「宗介、お前が俺の敵にならない限りどんな事でも手伝ってやるさ……」
嫌そうに、そう呟いた。
もし暁斗がこの日、軍への入隊を決めなければ、普通に学校を卒業して、安定した中小企業に就き、婚活で付き合い始めた彼女とそのまま結婚して、平均寿命を迎えて一生を終えただろう。
しかし、その将来はこの瞬間消えて、精神と肉体が焼き切れるような苦痛を負う人生が、今日、この日、この瞬間に決定した。否、決定してしまった。
この日から、あっという間に五年の月日が流れ、少年は軍人としての道を歩き始めた。