一章 1周忌
日野本と呼ばれる島国の東海部に摺河と呼ばれる小さな国がある。
地形は山がちで変化に富んでおり、国の北側には日野本で1番高い山「富岳」を始め、3000m級の山々が連なる山岳地帯が広がっている。
南側は大伊川や天龍川などの大きな川の下流には平野が広がっている。
また日野本で最も深い湾とされる摺河湾は豊かな海の恵みをもたらしている。
東側には複雑に入り組んだリアス式海岸となっている生津半島があり、更に生津半島から北東側にかけては富岳を含め多くの山が火山帯に属し、火山性の地形の影響からか古くからの湯治の地として有名……ハッキリ言ってしまえば国全体が観光地そのものだ。
特産物は蜜柑やお茶を始め、温泉饅頭や温泉卵など、温泉にまつわる観光土産や宿泊施設が立ち並んでいる。
そんな摺河の最東部……と言っても首都・摺府の隣に位置する場所だが、新見領と呼ばれる小さな――地図で見ても、摺河と比べると豆粒ほどの大きさ――都市がある。
生津半島の東側付け根に位置し、相神灘に面しており、摺河が所有する観光地帯の1つだ。
相神灘の海岸一帯は岩が多く、賑わう首都から離れた場所――いわゆる辺境の地――であるものの、経済性は悪くない。
ここの特産物は火山性の土地の影響からか、やはり温泉であり領内の市域は殆どが丘陵で別荘地や住宅、商店街区などが高台の上に立つ所が多く、道路も勾配の急な坂が多い。
さて。
その新見領の最南部に、やたら立派な文字で『玉虫屋』と書かれた看板を掲げる店がある。
建物は地下1階を含めて3階建てで、地下1階は従業員達の寝泊まり場所、1階が風呂や食堂に小さな遊戯場、地上2階は客人達が寝泊まりする寝床場所、そして湯宿にしては珍しく、1階の裏側に相神灘を一望出来る露台がついている。
その店に1人の男性が、1階の番台に座り、店の玄関から外の様子を眺めていた。
視界に映るは温泉商店街を歩く観光客達。
時刻は朝申の刻(午前9時)。
商店街に立ち並ぶ店が開店時間を迎え、一気に賑わい始める時間帯である。
通路を歩く観光客の数は多く、立ち並ぶ温泉宿に入っていく姿が映るものの何故か、この玉虫屋という店には誰1人入って来ない。
来店の外装は中々良く、一目見れば何となく足を踏み入れたくなるような……そんな建物だ。
しかし、それに反して店内そのものは客人の姿がなく、閑古鳥が鳴いている状態。
そんな現状に、番台に座る男――下河元昭――は苦々しい思いをしながら悔しげに呟く。
「口惜しいおじゃ。何故ここ最近、客人は来ぬのかの……」
「そんな姿をしていたら無理ですよっ!」
番台に座っている男の後ろから、鋭いツッコミを入れながら1人の男性が入って来た。
細見の体格で優しそうな青年である。
名を黒沢秀明と言い、玉虫屋で番頭をしている。
歳は26歳と若いが、番頭としての実務能力は確かであり、かなりの切れ者である。
「この姿に、何か問題でもあるかの?」
「大有りですよっ! 自分の姿を鏡で見てみましたか?」
「うむ。毎度の事ながら良い姿よの♪」
「見たんですか……というより、まるっきり店の雰囲気と一致していませんよっ!」
秀明が叱るのも無理はない。
烏帽子のような冠に銅色の欠腋(けってき/武官仕様の束帯装束の袍)、銀色の貴族袴、金箔の巨大扇子、深沓(ふかぐつ/儀式用に履いた履物で牛革製。中に靴敷きを入れてクッションにする)を履き、顔に白粉を塗って眉を描いて口紅をつけている姿は、どこぞの気位の高い貴族か、はたまた馬鹿殿を思わせる風貌である。
どこをどう見ても、どれだけ贔屓目に見ても湯屋を纏める者とは到底思えない。
「貴方は仮にも店主なんですから、もっとまともな衣装を着て下さい。いくら都に憧れているからって、姿形まで貴族の真似をしなくていいんですっ! 前から言ってるじゃないですか」
「店主服は地味でイヤでおじゃ。やはり派手な服装で『いんぱくと』をつけようと思っての。目立たせる事が大事でおじゃ」
「発想は良いですけど、それが斜めに傾いているんですよ。派手過ぎて却って怪しい店と間違われるんですっ! とにかく早く、元の正装に着替えて下さいっ!」
秀明の忠言に元昭は人を見下したような顔をしながら言い返す。
「そういう黒沢とて、まともな服装に着替えるおじゃ!」
元昭は目の前に居る番頭の姿を見て注意を促す。
秀明の姿は、どうかと言うと全身黒装束に顔全体を隠している黒頭巾……まるで歌舞伎舞台で見る黒衣そのものだ。
「この間、その姿で番台に立っていたら客人に歌舞伎小屋と間違えられて苦情が出たでおじゃろ?」
「仕方ないじゃないですか。これが、この店での制服なんですから。店主も、もう少し節度を考えて下さい。貴方が貴族の真似事をするから、お客様達も逃げるんじゃないですか」
「麻呂のせいではないでおじゃ。麻呂の外見から偏見的な考えをして店に入らぬ客人が悪いおじゃ」
「そういう自分勝手な考えが駄目なんですっ! 店主なんですから、お店の経営を考えて頂かないと……もう少し自覚を持って下さいっ!」
「なら、お主がすれば良かろう?」
「まったく、この人は……」
元昭の言葉に呆れたのか、秀明は片手を額に当てて困った素振りをして心の中で愚痴た。
(先代店主……貴方の御子息は、私達では手に負えません。どうしたら良いでしょうか……?)
下河家が湯宿を始めたのは、今より約二十数年前の話である。
なんでも商売を始める前までの下河家は一介の小さな武家だったらしく、前当主だった父親が亡くなってから武家の地位を返上して商家に転職、今の商売を始めたという。
ちなみに父親の名前は知っているものの姿や顔というものを元昭は知らない。
それもそのはず、自分が産まれる前に父親は他界したと去年、病で亡くなった母から聞かされていたからだ。
玉虫屋の商売は、先代店主だった元昭の母による経営手腕のおかげで、そこそこ上手くいっている。
馴染みの固定客や稀に他国から泊まりに来る新規の客による来店で小さな店なれど、元昭や数少ない奉公人達が手にする録(今で言う給金)や建物の維持費を支払っても僅かながらに黒字である。
キツキツな毎日ではあるものの、秀明は今の生活に不満などはなかった……たった1つだけを除いて。
その1つとは言うまでもなく、現店主である元昭の自堕落振りである。
彼は生涯1度も見た事のない父の跡を継ぎ、下河家の次期当主であると同時に玉虫屋の跡取りである。
ハッキリ言ってしまえば典型的な『お坊ちゃま』だ。
先代である母親から溢れんばかりの愛を受けて育ったせいか、幼い時からお店の事をほとんど手伝わず毎日、遊んでばかりいた。
元武家にして商人の息子である元昭は浪費癖が無いものの、お店を放ったらかしにして好き放題に生きてきた結果、傍若無人な道楽者へと育ってしまった。
小さい頃から花洛(京都)文化に興味を持っており、玉虫屋に宿泊する客人に花洛に住む人の生活や文化を聞いては小遣いをせびって花洛の人――主に貴族――の言動や遊びを真似し始めた。
やがて貴族のような姿が気に入ったのか、その姿や言動のままで流行の小説を買いに行ったり、蹴鞠の真似事をしたり、どこぞの文化協会に入って茶道や俳句や川柳をしたり、舞を観に行ったりなど自分の興味あるものに没頭する日々を送っている。
秀明は度々、跡取りである元昭に襟を正せと注意をするも貴族になりきった気分で反論する始末。
元昭の母も何度か注意しようとするものの、どういうわけか中々注意することが出来なかった。
その結果、19歳になった今では身も心もすっかり花洛貴族気分でいる。
ハッキリ言ってしまえば典型的なダメ主そのものだ。
(もう少し店主がマシになってくれれば……)
などと秀明は内心そう愚痴りながら、どうにもならない事態に溜息をついていると、
「貴方達、いつまで漫才をやってるのっ!」
そこへ1階にある食堂の厨房から1人の中年女性――黄山若菜――が出てきて、2人に声を掛けた。
彼女は秀明と同じく、玉虫屋の奉公人で主に厨房を担当している。
秀明みたいに頭巾と装束に身を包ませているも、色は黄色で統一されている。
玉虫屋に居る奉公人は元昭を含めて秀明と若菜の3人だ。
秀明と若菜は玉虫屋で働く者として、頭巾と装束という制服を着ているものの装束の色が違う。
2人は元々、同じ黒色で統一していたのだが『頭巾で顔を隠しているため、誰が誰なのか声や仕草でないと分からない』と元昭が言い出したため、区別をつけるため各自違う色に変えた。
そんな事をしなくても頭巾を取って顔を見せれば良いじゃないか、と思うだろうが、それは先代店主だった元昭の母の意向で頭巾を脱ぐ事は許されなかった。
ならば、駄目元で『せめて色で判断したい』と申し出たところ、呆気なく許可が下りた。
明らかに色を変えるより、頭巾を取った方が余計な費用も掛からないし良いのだが、それを言うと先代の怒りを買うため奉公人や元昭は一切、口にしなかった。
どこか変な所に拘りを持っている所は、さすが親子と言えるであろう。
それはともかく。
若菜は普段、常に朗らかで明るい人だ。
その彼女は今、体中から闘気を放ちながら、右手に包丁を持ったまま同僚と店主代理に近付く。
「き、黄山よ。落ち着いてたもっ! 早まった真似をするでないっ!」
「黄山さん、すいません」
後退りながら宥める元昭に、素直に謝る秀明。
2人の態度に、若菜は包丁を持っていた右手を下げて呆れながら言う。
「毎日いっつも、こんな調子なんだから……元気なのは良いけど、お店の顔と言える玄関で口喧嘩しないの。往来を通っているお客さんの視線が痛々しいくらい感じるわよ?」
「その玄関先で、包丁を持ちながら近付く黄山も人の事は……」
「何か言ったかしら?」
若菜は目にも留まらぬ早さで、包丁の切っ先を元昭の鼻先に突きつける。
「うむ、麻呂が悪かったおじゃ。じゃから、そんな物騒な物を早よう引っ込めてたも……」
女奉公人に対し、すかさず謝る元昭の姿は店主という雰囲気は、まったくない。
むしろ若菜の方が上に見えるくらいだ。
元昭の様子に気を良くした彼女は両手でパンパン叩きながら、促す。
「素直でよろしい♪ さっ、急いで頂戴! 何かと手間が掛かるんだから。店主は早く玄関に臨時休業の札を貼って。黒沢くんは早く迎えに行ってあげてね」
「はぁ……そうしようかの」
「分かりました。すぐ行きます」
若菜に急かされるまま2人は持ち場につく。
彼女自身、せっせかと休業の準備をしながら元昭達に言った。
「今日は大事な日なんですからね? この店の元店主、貴方の母上の1周忌なんだから」
「あれから、もう1年……時の流れとは早いものよの……」
元昭は玄関に臨時休業を知らせる札を貼りながら、感慨深く呟いて1度だけ深い溜息をついた。
玉虫屋の地下1階にある従業員専用室の一角に、先代店主の仏壇が備え付けられており、仏壇の中央に先代の遺影が置かれている。
その遺影の前に、秀明が近くのお寺から連れてきた住職が鎮座していた。
室内を線香の煙が細長く漂わせながら、住職の口から発せられる経文に合わせて、木魚の律動が鳴り響く。
住職による法要の後ろで元昭、秀明、若菜の3人は目を閉じ、合掌したまま冥福を祈っている。
こうして1周忌の法事は、つつがなく行われた。
皆で死者を悼む気分で軽食したあと、住職は玉虫屋を後にする。
これからは3人の時間だ。
故人の想い出を偲びながら語り合うのは遺された者達の特権である。
しかし3人は住職を店の玄関先で見送りを済ませた後、そそくさと店内に戻って再び地下1階へと下りて行く。
向かった先は先代の部屋だ。
先代は病で亡くなってから1年間、施錠してからずっと開けていない部屋である。
「母は死ぬ間際、妙な事を言い残したでおじゃるな」
部屋を前にして元昭は手を顎に軽く当てて呟く。
「『自分が亡くなって1年後に、遺品整理をするように』って……何故、1年後なのでおじゃ?」
「やはり死後まもなく整理されるのは、何かイヤな感じでもするのでは? 相手が死んですぐに部屋を片付けるのは、『やっと死んだか。清々するぜ』って受け取る方が居るかも」
「死者なのに?」
元昭の右隣に並んでいる秀明が意見をする。
「肉体が死んでも霊魂がありますからね。もし殿が亡くなった後、私達が悲しみに暮れながらも、すぐに殿の部屋を片付け始めたら、どう思います?」
「麻呂だったら絶対に『想い出を残してたも』って言いながら化けて出るかもの」
「でしょう? それと同じ事です。死んだあとも少しくらい自分は、この店に居たい、という気持ちを表したかったのでは?」
「なるほどの。そういう見方もありかもしれぬおじゃ。あ、整理整頓と言っても全部処分するわけじゃなかろう? 少しくらい母君の面影くらいを残すのは……」
「それは本人の自由だけど、少なくとも良いんじゃないかしら? オバサンも出来たら先代との想い出の品があったら残しておきたいしね♪」
元昭の左隣に位置する若菜が頷く。
「ならば各自想い出のある品だけを残して、あとは適当に処分するとしようかの。黒沢よ、開けてたも」
「では、開けます」
白塗りの店主に促されるまま秀明は、懐から鍵を取り出して鍵穴に差し込む。
カチリと開錠を知らせる小さな金属音が鳴ったあと、元昭はドアノブに手を伸ばして、ドアノブを開店させる。
そして3人の視界には1年振りに目にする亡き先代、そして元昭からにしてみれば亡き母の部屋を目にすることとなった。
「不思議でおじゃるな……」
部屋の中を見て元昭は頭を掻きながら呟く。
「何故、扉を閉めておるのに……こんなに溜まっておるのかの?」
この部屋の主が逝ってから1年の間に、室内は少し変わっていた。
主に塵や埃が溜まっている事に目がいくが、それ以外にどことなく部屋全体的が傷んでいるような気がした。
家とか部屋というものは、その主がいなくなると途端に生気が失われるかのように老朽化が進み始める。
何処が、というわけではなく厳密に言えば空気が淀み、湿気が溜まり、やがて全体的に傷んでくる。
部屋という空間や家という物も、ある意味では人と同じ『生きて』いるのかもしれない。
手入れをしていない事を物語っているかのように、室内には目視出来るほど埃が溜まっている。
置物や書物、布団まで埃特有の臭いがしている。
「些か面倒でおじゃるが、3人もおれば時間はそんなに掛かるまい」
「遺言に従って整理するとしましょうか」
「オバサン、腕が鳴るわ♪」
秀明は元昭と一緒に布団の片付け作業に入り、若菜は天窓を開けて換気をする。
普段、怠け癖の塊である元昭ですら、今は亡き母の遺言に従って彼なりに真面目に掃除していた。
やがて若菜も片付け作業に加わり、瞬く間に要る物と要らない物とに分別される。
しばらくすると、
「あら、懐かしいものが出てきたわ♪」
と何やら嬉しそうに言いながら、若菜は押入れを整理している時に出てきた胡弓を手に取り、2人に見せた。
それは生前、先代が趣味として使っていたものだ。
1日の仕事が終わり、夕食のあと自ら弦を弾いて皆を楽しませていた事がある。
それもあってか元昭は楽器による演奏に興味を持ち、一時は暇を見て母から教えてもらった事がある。
それを活かしたら、と思った事もあって、たまに客人の前で演奏を披露して御捻りを貰う事もあった。
しかし母が病で倒れてからというものの、胡弓に手を伸ばす事はなかった。
店主代理としての忙しい日々を送って……などではなく、胡弓を見る度に病床で苦しむ母の姿を思い出すため、わざと持たなくなったためである。
そしていつしか、母の部屋に置いて以来そのままだった。
「ほほう、確かに懐かしいでおじゃるな。もう2度と奏でる事はないと思っておったが、どれどれ……」
元昭は若菜につられるように、懐かしい表情を浮かべながら長い年月の間に放置していた胡弓に手を伸ばし、弦を弾く。
しかし、その音響は実に歪んでいた。
「ほよっ……ダメでおじゃるか。黒沢よ、直せぬか?」
「聞く限り、調律しても無理な段階ではないでしょうか? 何せ長い年月が経ってます。手入れしていれば、まだまだもったでしょうけど」
元昭の問いに対し、申し訳なさそうに頭を下げながら答える秀明。
白塗りの店主は、些か残念そうな顔をしながら口惜しそうに呟く。
「この胡弓も、もう寿命でおじゃるか。手入れしなかった事が原因とは言え……あとで母の下へ送ってやるとしようかの。向こうの世界でも奏でられるように」
「それが良いかもしれませんね。先代は胡弓が好きでしたから」
感慨深く頷きながら答える秀明は一旦、楽器を閉まって室内の整理に戻る。
すると再び何かを見つけたのか、若菜と元昭に呼び掛ける。
「店主、黄山さん。こんなのを見つけました」
「ん~? 今度は何でおじゃるか?」
「また懐かしいものかしら?」
皆が目にしたものは飾り気のない1枚の封筒だった。
その封筒には『従業員の皆へ』と先代の筆跡がしたためられている。
質素な封筒に、皆へと書かれた文字……3人は容易に想像できた。
「もしや、これって……遺言状でおじゃるか?」
「十中八九、そうでしょうね」
「もし本当なら、まさか遺産の分配かしら? 店主、開けてみてよ」
若菜に促されるまま、元昭は封筒の端を切って中に入っている手紙を取り出す。
そして白い紙に墨汁で書かれた先代の字で、こう記されていた。