Nebura Memoria
母は、朝靄に消えた。
「ごめんね」
それが彼女の最後の言葉。
マンションの七階から飛び降りた彼女は、泣いているわけでもなく、苦しんでいるようでもなく、伏し目がちに微笑んでいた。
「ママ」
夢だと思った。寝ぼけ眼をこすれば、窓枠を乗り越えて母が帰ってくるはずだ。
窓の下を見た。裏庭の芝生は色のない朝露に濡れていた。駐輪場の屋根にもへこみがなかった。人が飛び降りた痕跡は、どこにもない。
夢だ。
蝙蝠の羽ばたきが聞こえた。目で追えないほどの速さで、夜の生物が靄に消えていった。
音のない世界がやってくる。
湿った風が前髪を揺らす。じっとりと重い空気が不快でしかたがない。額を拭うと、湿り気が手のひらに移った。
「ママ。どこ?」
取り残されたのだと、認めたくなかった。
心の震えが裏切る。陽が昇る前の薄い暗闇のなかで、どうしようもなくわなないた。
小鳥のさえずりが聞こえた。空が徐々に白み始めていた。
朝が来る。
「待って」
母への哀訴と、夜への懇願を口にした。
現実が足を止めることはない。
*
シーカは、首に回された腕を鬱陶しく思った。女の細い腕だ。ひんやりとした触感が心地悪いわけではない。束縛されているのが気に入らないのだ。
前肢で押してみた。爪を出さないように気をつけて、少し硬い肉球を押しつける。
「ん」
甘い声とともに拘束の輪が縮んだ。
シーカは声にならない悲鳴を上げて、筋肉を膨張させた。狼の力は強くはない。全力の抵抗も虚しく、喉が圧迫されて呼吸が断たれた。
数秒が長い。
泡を吹く寸前に、弛緩がやってきた。空気を求めて舌がひくついた。呼吸を落ち着かせてから、控えめに喉を鳴らした。
「うるさい」
不機嫌な声で一蹴された。シーカの耳が垂れる。
項垂れるシーカとは裏腹に、彼女は恍惚とした表情で毛皮に頬ずりした。
「気持ちいいわ」
シーカは忍耐力を発揮して沈黙した。されるがまま、嵐が過ぎ去るまで待つ。
冬ならまだしも、春先や夏は勘弁して欲しかった。肌を密着させられると、暑くてかなわないのである。体毛のない人種にはわからない苦痛だ。
エアコンが欲しい。
シーカは涼しい部屋を思い浮かべ、目を細めた。儚い夢である。家計はいつもぎりぎりの綱渡りで、現実感は欠けらもない。
しばらくして、瞑想の時間が終わった。眠りについた女の腕から、そっと抜け出した。
絨毯の上で伸びをして、開放感を満喫する。肩のこりをほぐそうとしたが、前肢が届かなかった。狼の肉体だったことを思い出す。
シーカは頭をそびやかした。骨格が音を立てて膨張する。毛皮が髪になり、四肢が人間の手足となる。丸まっていた背筋が伸び、二十代半ばの男に変化した。
「自分だけ、気持ちよさそうに寝やがって」
人間の形態になって、最初に口にするのは決まって捨て台詞だ。黄色い瞳で、寝ている女を睨み付けた。唇から牙がこぼれ、ぬらりと光っていた。
「おい、吸う気だったのか」
シーカは首の後ろを撫でた。
寝所を共にしていた彼女は人間ではない。シーカが狼男なら、彼女は吸血鬼だ。頬ずりですんだのは僥倖だ。
「寝ていれば、かわいいのに」
女吸血鬼の寝顔は子供のようだった。幼子の抱き枕になってやっていると思えば、大目に見る気にもなる。
「……風呂に入るか」
シーカは自分の体臭を気にした。彼女のほうは気にしていないようだったが、そのままにしておくのは気が引ける。
シーカは忍び足で寝室を後にした。もちろん、彼女を起こさないために。
ネブラは胸騒ぎを感じて目を開けた。
「逃げたわね」
腕の中の抱き枕がなくなっていた。頬に触れる毛皮の感触、日向と野性味のある男の匂い。それが彼女の心を落ち着かせる。性的な意味は皆無で、ぬいぐるみを抱いている気持ちが強い。
「シーカ」
数枚の壁を隔てた浴室から、シャワーの音が聞こえた。呼び声が聞こえなかったのか、あるいは無視したのか、返事は返って来なかった。
「覚えてなさい」
ネブラは目を閉じた。目蓋の裏に、カーテンからもれた穏やかな光が映った。もう日の出はすぎている。吸血鬼である彼女にとって、この先は眠りの時間だ。
突然、大音響の目覚ましが鳴った。窓ガラスが飛び散っていた。寝室に光が浸食してくる。カーテンが引き千切られ、絨毯の上に窓の残骸とともに散乱した。
「うるさいわね! 眠れないじゃない」
ネブラは棺の蓋の陰に隠れた。彼女が横になっていた寝台は、陽光に照らされていた。寝床は土を敷き詰めた棺である。
「こんな朝遅くに、なんなのよ」
吸血鬼は早朝に眠りにつく。寝入りばなを邪魔されて苛立ちを覚えた。
ガラスの破片の中に石ころを見つけた。いたずらか、悪意を持った誰かの仕業だ。安眠を妨げた行為を見逃すほど、彼女は寛容ではない。どうやって罰を与えるか思案した。
まずは犯人捜しだ。シーカの鼻を使えば、犯人を捕らえることは難しくない。
「おはようございます」
廊下とは反対の窓辺から、男の声が聞こえた。
「何者」
ネブラは、彼女にしては珍しく緊張した声を出した。近づいてくる音が聞こえなかったのである。
「失礼いたします。窓からお邪魔する無礼をお許しください」
丁寧な口調だった。ただし、訪問の礼儀はなっていない。
「なんだ、今の音!」
シーカが寝室に飛び込んできた。彼の足下に水溜まりができる。
「お前、誰だ」
「無礼な客よ。あんたもだけど」
ネブラは目を逸らした。家を壊した侵入者と、全裸のシーカにため息をついた。
「わりぃ」
シーカは手で股間を隠した。
「無礼とは心外です」
侵入者は厚手の雨合羽を羽織っていた。外は晴れている。不似合いな姿だ。
「吸血鬼か」
シーカがそう考えたのも頷ける。フードで隠し切れていない顔の下半分は、色白の肌と紅い唇だった。吸血鬼の身体的特徴だ。
「露出狂に用はない。私はご令嬢を訪ねてきたのです」
「知り合いか?」
シーカは不機嫌な顔になった。反論はできない。股間を押さえた格好では、犯罪者扱いされても間違いではない。
「どうかしら」
ネブラは記憶を探った。どこかで聞いたことがある声のような気もする。顔を見れば思い出すかもしれないが、光を遮る黒檀の盾を下げるわけにはいかなかった。
「お初にお目にかかるはずですが……もしや、どこかでお会いしたことがありますか?」
声だけではわからない。ずっと昔のことなのかもしれなかった。
「まあ、いいわ。私を訪ねてきたのなら、名乗りなさい。氏素性のわからない輩とは面会しないのよ。それとも、紹介状があるかしら」
男が勝手に上がり込んで来たことに対して、ネブラは皮肉を言う。
「失礼いたしました。私は河野昇平と申します。吸血鬼狩りを生業としていると言えば、用向きも了解していただけるかと」
河野と名乗った男の身体が沈み込んだ。合羽がふわりと膨らむ。
「シーカ!」
皮肉は受け流され、正面から切り込まれた。そうなると、ネブラも正攻法をとるしかない。「おう!」
シーカはネブラの意図を汲んだ。猟犬としての働きを求められていた。
彼の黄色みを帯びた目がより鮮やかな輝きを放った。全身が毛皮に覆われ、鼻先が前に張り出す。人間の体躯と、狼の造形が共存する半人半狼の姿が顕現する。
「覚悟しろよ」
シーカは河野を敵と定めた。不届きな侵入者を排除するのは彼の務めである。ネブラが棺の蓋を掲げて廊下に走り込んだのを確認し、彼は男に飛びかかった。
*
狭い廊下に逃げ込んだ。
何かにぶつかって尻餅をついた。見上げると、背の高い男が立っていた。
分厚いコートを着た男は、手を伸ばして後ろのドアを閉めた。光が遮られ、あたりが暗くなった。
「どなたですか?」
男は腰を屈めて、フードを取った。青白い顔と、紅い唇と、尖った牙。どれもが見慣れた特徴だった。
「ネブラか」
「どうして私の名前を知っているの?」
紳士的に差し出された手を取り、彼女は立ち上がった。
「お前のグランパ……いや、パパだから、知っているのはあたりまえだろう」
「パパ? パパは死んじゃったって、ママが言っていたわ」
幼いネブラはまつげを揺らした。つい今し方、母が窓から消えたことを思い出す。
「あいつは、行ってしまったようだな。だが、これからは私がいる。グランマも……新しいママもいるぞ」
ネブラは首を振った。涙がぽろぽろと落ちていた。
「ママはどこ!」
「落ち着きなさい」
紳士は彼女を抱きしめると、そっと首筋に牙を当てた。ネブラの身体は力を失った。
「嫌なことは、パパが忘れさせてやる」
彼はコートの中にネブラを招き入れ、フードを引き下げた。身を翻して狭い玄関に向かう。
数秒後、そこには誰もいなくなった。
朝がやってきた。
*
銃声。
河野の合羽の合わせ目から、銃口が顔を出していた。
「物騒なもん、出しやがって」
シーカの腕から血が出ていた。毛皮が濡れている。
「ご冗談でしょう?」
河野は胸から胴を狙っていた。的の面積が広いからだ。たとえ逃げようとしても、外れることはまずない。だが、命中した部位は腕だった。避けたのだと理解できても、素直に受け入れられるものではない。
「いてて」
狼男が腕の肉をほじり出した。ひしゃげた弾丸が赤い糸を引いて落ちる。
「化け物め」
再び、引き金が引かれた。
「あたらねえよ!」
シーカは身体を縮こまらせて跳んだ。撃ってくるとわかっていれば、避けるのはたやすい。銃口の向いた先に身を置かなければいいだけだ。狼男の動体視力と運動能力では容易な芸当だ。
「終わりか」
弾切れが切れたところを見計らい、シーカは銃をはたき落とした。
河野は銃に執着せず、素早く身を引いた。
腕をつかもうとしたシーカの手が空を切った。追い打ちをかける。爪を伸ばし、踏み込んだ。
河野のフードが引き裂かれた。大きく開いた窓の光に、黒髪が照らされた。彼は倒れ込むように部屋の隅に身を投じた。
「お前、吸血鬼じゃねえな」
短時間ではあったが、河野は陽の光を浴びていた。しかし、皮膚は溶けず、燃えあがりもしなかった。
「私は人間です」
ただ、光を避けていた。肌が少し赤くなっている。陽光を避ける理由はあるようのだ。
「あなた方とは違います。……化け物ではありません」
「冗談言わないで」
廊下で息を潜めていたネブラが口を挟む。
「吸血鬼というだけで、私を殺しに来たの? ただの殺し屋ね。被害者のことを考えたことある? 私からしたら、あんたのほうが化け物よ」
「人間に……人々に害をなす吸血鬼は、死んで当然なのです。化け物はこの世界にいないほうがいいのですよ」
河野は、人間という言葉を言い直した。ネブラは引っかかりを覚えた。
「化け物、化け物ってうるせえな。俺たちは大人しく……というわけでもないけどよ。そこそこ静かに、慎ましく、節約して、暮らしているだけだぞ」
「節約は関係ないでしょ」
「生きているだけで迷惑なのです」
河野は二人の言動を一笑に付した。
「そんなこと、誰が決めたの。人間の総意を代弁しているとでも言うのかしら」
ネブラは先程感じた引っかかりを忘れていない。人間という単語に力を込めた。
「なかには、あなたに血を差し出した者もいたかもしれません。欲に飢えた愚かな輩は、除外しておきましょう」
「愚か者を除外する、ね。自分を除いたってことになるわよ。わかっているの? 身の程をわきまえない、人間」
ネブラは更に強調した。
「言葉遊びはやめてください」
河野の返事から、話題を避けようとする様子が窺えた。
「本当は、あんたも吸われたいんじゃないの?」
ネブラは言葉の攻撃を続ける。彼を辱めることに、少なからず興奮を感じる。
「血を吸われながら、私を抱きたい? それとも、抱かれたいのかしら?」
「おい、ネブラ」
シーカは落ち着きなく耳を回した。敵を挑発して冷静さを奪うのはわかるが、男としては彼に同情していた。
河野が怒りで顔を赤くした。
「女性がそのような言葉を用いてはなりません! あなたは、自分を貶めたいのですか」
「夜這いに来た男の科白じゃないわね」
「……これは手厳しい」
河野は拳を強く握りしめた。痛みで冷静さを取り戻したようだ。
「謝罪いたします。お詫びの品を受け取ってください!」
河野の雨合羽が広がった。
シーカは反射的に飛来した物体を叩き落とした。手に液体が絡みついた。
「なんだ、これ」
絨毯の上を見ると、ひしゃげたペットボトルがあった。中に何か入っていたようだ。
室内に独特の臭いが広がる。
「シーカ、ガソリンよ。部屋から出て!」
彼の鼻は強い臭いで麻痺していた。ネブラに言われるまで、判断できなかった。
壁や棺にも、口の開いたペットボトルが投じられていた。部屋中にガソリンが撒かれていた。
「焼かれて、滅びなさい」
河野はマッチを落とし、窓から逃走した。
「てめえ、待ちやがれ!」
炎の川が遮った。シーカは跳躍をためらった。身体に引火したら火傷ではすまない。
「こっちに来なさい!」
「ああ」
シーカは窓を一瞥してから廊下に逃げ込んだ。
絨毯から燃え広がった炎はネブラの棺を焼いた。姿見には熱でひびが入り、壁に掲げられた絵は灰になった。
黒い煙が溢れ出した。
*
屋敷は木々が生い茂った庭に囲まれていた。屋根の上に出ないと、他の家が見えないほど広大な敷地の中にある。玄関へと通じる道路も整備されていないため、誰かが住んでいることも知られていない。
「これからは、ここがお前の家だ」
「はい」
ネブラは素直に頷いた。頭を撫でた人は、父親のはずだ。実感はわかない。
今まではもっと狭いところに住んでいた気がする。空気もよどんでいて、喧騒に包まれていた。思い出せなかった。
「ねえ、パパ」
幼いネブラは父の手を握り返した。聞こうとしていたことがあった。それなのに、頭のなかがもやもやとしていて、言葉にならなかった。
「何かな」
父親の手を通して伝わってくるのは、冷たい体温だけだ。薄いようで厚い壁を感じた。
「何でもないわ」
「ネブラね」
物静かな女性が微笑んでいた。優しそうで、あたたかみを感じる。
「はい、ママ」
口にしてから、ネブラは違和感を覚えた。おたまじゃくしを見て蛙と言っているような、ミスを犯した気分だった。
「可愛らしい娘ね」
彼女は優しく抱き締めてくれた。予想したとおりの冷たさだった。それでも、安心する。
「今日はもう遅いから、休みましょうね。ちゃんと、あなたの寝床も準備したわよ」
厚いカーテンの向こうで、鳥たちが歌を歌っていた。ネブラは強い眠気を覚えた。
土が敷き詰められた棺が恋しかった。
*
河野は樹間の小径を走った。疲労を感じた矢先、腐葉土に足を取られて転んでしまった。
雨合羽の前がはだけ、木漏れ日が降りかかってきた。急いでフードを頭に被り、光を遮った。フードは狼男にやられてぼろぼろになっていた。隙間から差し込む光で、頬と額がひりひりと痛んだ。
立ち上がると、一匹の犬がいた。黄色い目が見つめていた。太い前肢で地面を掻き、悠然と頭をそびやかした。
「犬」
河野は吐き捨てた。
「狼だ」
半人半狼の姿に変化したシーカがうんざりした様子で答えた。
「犬と狼じゃ、大違いだろ。目の色と、この平らなところを見ろよ」
シーカは額から鼻先にかけてを指でなぞった。
「これが狼の特徴だ。あと、この鋭い牙な。短剣みたいだろ。ラテン語でシーカ。俺の名前だから、よく覚えておけ」
「お断りします」
「かわいげのない野郎だ」
シーカは河野から十数メートル離れていた。これ以上近づくと、彼の銃弾をかわせなくなる。
「やっと追い付いたわ」
河野の背後にネブラがいた。声をかけられるまで、彼は彼女の存在に気づかなかった。
「何故、出てこられるのです」
日中の外出は、吸血鬼のタブーである。雲が太陽を隠しても光は消えない。空に太陽があるかぎり、昼は煉獄のはずだ。人間にたとえるならば、炎天下の砂漠にサンオイルを塗って出ていく行為である。
河野は昼の危険性を考慮して、屋敷に火をつけた。狼男のシーカはともかく、屋内から出られないネブラを滅ぼすためだった。だが、彼女は陽光の下を歩いてきた。
「意外だった? 私には父の加護があるのよ」
ネブラは厚手のコートを羽織っていた。頭をすっぽりと覆うフードと、くるぶしまでのロングコートだ。河野の雨合羽と似ていたが、こちらは古めかしく野暮ったい。かつて彼女の父親が着ていたコートを手直しした品だ。
ちょっと辛いけどね。
ネブラは心の中で呟いた。
コートを身につけていても、陽光はじわじわと全身を焼いた。今も身体が悲鳴をあげている。熱い湯につかり、荒い砂を練り込まれ、濡れた布で締め付けられているようだ。
頭が痛い。身体もだるい。平然と構えて見せているが、気を抜くと意識を失いかねなかった。
遠くで、炎のはぜる音がした。
「あんたは殺人未遂と放火の罪を犯した。落とし前をつけてもらうわ」
屋敷は炎に包まれていた。もう、戻れない。
「死人に口なしです」
河野がシーカの動きを警戒しながら、ネブラを観察した。
ネブラは表情を覚られないように、フードを引き下げた。
「大した自信ね。私たちを相手にして、生き残れると思う?」
「難しいでしょう。ですが、あなたは戦力外と見受けられます。ごまかしても、苦痛の色は隠せていません」
「わかるのね。あんたの半分が、私を理解している」
河野は無言で銃を抜いた。沈黙は肯定だった。
「暑くない? ハーフならそうでもないのかしら」
「泣き言は滅んでから言いなさい」
河野は唇を噛んだ。血の滲みを舐めた。フードの奥の目が赤光を放った。
「自分の本性を認めたわね。人間でも吸血鬼でもない中途半端な存在のくせに、純血種に手を出した罪を贖いなさい」
シーカはネブラを危ぶんだ。口では何と言っても、疲弊しているのがわかる。河野を追うと言い出したとき、止めればよかったと思う。吸血鬼狩りの彼へのこだわりは、いつもの彼女と違っていた。
今更悔やんでも遅い。こうなったら一刻も早く男を倒し、彼女をどこかの暗闇に連れていかなければならない。
シーカは後ろ肢で地面を蹴った。前肢で木の根元を探り、腐葉土に落ち込むことを避ける。顎から生える天然の短剣を光らせ、河野に迫った。
河野の銃口がネブラからシーカに反転した。彼女に背を向けることにためらいがない。吸血鬼を戦力外と判断した証拠だ。
自らの血によって覚醒した河野の半身は、動体視力を劇的に向上させた。狼男の一挙手一投足がコマ送りになっていた。
シーカは撃たれることを覚悟した。急所でなければ、痛みは我慢できる。初弾だけしのげば仕留められる。
最後の跳躍で両手を顔の前にかざし、肉の盾を作った。腕が吹き飛んでも、牙をねじ込めば勝ちだ。そうすれば、ネブラを連れ出せる。
河野はシーカの動きを見極め、冷静に引き金を引いた。
銃弾が赤い花を咲かせた。
狼男の腕が砕け散った。弾道はずれたが、彼の毛皮は血にまみれた。シーカは牙を振るうことなく、腐葉土に埋もれた。頭部がえぐれていた。
一瞬の出来事であった。
「シーカ?」
ネブラは名を呼んだ。返事がなかった。銃で撃たれたくらいではびくともしないのが彼だ。潤沢な生命力を有している狼男がただの銃弾に倒れることはない。何かがおかしいことに、彼女は気づいた。
「銀です」
河野は得意気に語る。弾丸は鉛ではなかった。魔除けの力を持つ銀の銃弾だった。吸血鬼や狼男の力を奪い、致命傷を与える金属である。
「シーカ!」
ネブラは走った。
「動かないでください」
河野の銃がネブラを狙う。
彼女は止まらない。
銃声が長くたなびいた。
ネブラはシーカに折り重なって倒れた。コートに小さな穴が開いていた。光は遮れても、金属の弾は無理だ。胸の中に留まった銃弾が彼女の身体を蝕み始める。
「シーカ」
咳き込んだ。手のひらに血が飛び散った。
「起きな……さい」
ネブラは血に濡れた毛皮を撫でた。彼の血と彼女の血が混じりあった。どちらも赤かった。
体内の激痛が皮膚の痛みを上書きした。熱かった身体が冷え始める。だるさが消え、夢の心地好さに変わる。
「とどめを差してあげましょう」
河野が近づいてきた。
ネブラは顔をあげた。彼の顔を見ようとしていたことを思い出した。フードが落ち、顔の痛みが増した。彼女の肌に水ぶくれができ始めていた。
彼の目を見た。
群青の瞳だった。
ネブラよりも濃い、黒の混じった色。
「あんた、私より若いのね」
遠い記憶を呼び覚まそうとするとき、いつも靄がかっていた。
今は晴れている。一度も見たことがない青い空の下にいる気になった。銀の力が頭の中の霞を取り去っていた。
「思い出したわ」
朝靄に消えた蝙蝠。
電話越しに聞こえた低い声。河野によく似た声。
一度だけ見たことのある人間の男。
嬉しそうな顔で微笑む、本当の母。
「ママは、生きていたのね」
「ママ?」
「ねえ、あんたの顔、見せてくれない」
河野は銃を構えたまま、慎重に近づいた。ネブラの顔を覗き込んだ。美しかったと思える顔が陽の光を浴びていた。
河野は目を背けた。そして、気づいた。
「似ているわ」
ネブラは、彼に母の面影を見た。
「あなたは、何者です」
河野も、ネブラに母を見た。
ネブラは目を閉じた。言わなくていいことは言わない。確証のない質問への沈黙は、肯定ではない。
「化け物よ」
河野は歯噛みした。はぐらかされたのがわかった。
「ねえ、頼みを聞いてくれないかしら」
「そんな義理はありません。……ですが、いいでしょう」
「ありがとう。シーカのところに連れていって」
河野はネブラを抱き上げた。軽かった。
ネブラはシーカの首に腕を回した。彼の毛皮に顔を埋めて、頬ずりをした。
「気持ちいいわ」
眠るときのいつもの癖であった。
「よく眠れそう」
それが彼女の最後の言葉。




