【へドィッグ・アンド・アングリ-インチ】 ~ラストの解釈は?~
登場
シリーズ 『みんな欠けている』
【アダプティッドチャイルドは荒野を目指す】
第2部 月光の囁き
第5部 月のひつじ
コチラは『短距離恋愛」の異色の番外編で、何故か別シリーズに組み込まれてしまった『アダプティッドチャイルドは荒野を目指す』の二話と五話に登場しています。
シリーズが違うものの、主人公が大の映画好きで映画研究部に所属していることもあり、映画ネタが短距離恋愛シリーズなみに満載となって進行しています。
星野秀明が、後輩である月見里百合子に貸したDVDがコチラ。そしてこのシリーズというか、物語の隠れテーマになっている映画でもあります。
この作品、元々裏ブロードウェイの大ヒットしたミュージカルが元となっています。その舞台はマドンナ等多くのセレブリティをも虜にして、デビッド・ボウイはグラミー賞をすっぽがしてコチラの舞台を観に行ったという逸話も有名です。ロックミュージカル史上最高傑作とまで言われているほどの名作で、しかも映画化にあたって監督をしたのは、舞台の脚本・歌詞・主演を勤めたジョン・キャメロン・ミッチェルが行っている事で、舞台の空気をそのまま映像化するのに成功しています。
普通のミュージカルは、沢山あるうちのメインを含む何曲かが素晴らしいというものなのですが、この映画に関しては、好みの差はあれどイマイチの曲はなく、どの曲も素晴らしくロック魂に満ちています。そんな曲を、ヘドウィックというヒロインが熱唱するので、観客には彼女の心の叫びが心にストレートにビンビンと響いてきます。
観て考えるというよりも、全身でその音楽や世界を感じる映画です。
またこの作品の魅力は音楽だけでなく、内容が哲学的、宗教的要素をもっていることもあり、見終わった後に、愛とは、男と女とは? 孤独とは? 人間とは? といった事を考え人と語りたくなる人も少なくないはずです。
私が描いた物語においては、この映画の解釈を『結局人は、欠けている自分を受けいれて、一人で生きて行くしかない』としましたが、実はジョン・キャメロン・ミッチェルがこの作品を通して言いたかったことはそうではないのではないようなんですよね。
「人を受け入れ融合することで、本当の自分になれる」という物語なようです。
その後のジョン・キャメロン・ミッチェル監督の作品を観ていっても、彼は人間の孤独ではなく愛を描く方だというのが良く分かると思います。
映画においては、ヘドウィックの半身ともいうべき、トミー・ノーシスが別の人物が演じることで、二人の関係というものが個と個で触れ合う事が出来ても交わることのできない二人のようにも感じるのですが、実は舞台においてはヘドウィックとトミー・ノーシスって一人二役で演じられているんです。
ですから同じように自我を崩壊させ、ウィッグも衣装もかなぐり捨て裸になるヘドウィックの見え方も変わってしまい、私がみた舞台の一つでは、明かに二人は融合するという演出がされていました。これは、舞台監督の解釈の違いもあるのかもしれませんが。主演と演出を違う舞台を二度程観劇しましたが、どちらも一人二役でラストはへドィッグでもないトニーでもない、ドチラの虚像もかなぐり捨てた人物が残るともとれるラストになっています。
もともと抽象的なラストということもあるので、コレは私の勝手な解釈かもしれませんが、そういったラストの解釈を含め色々と楽しめる作品です。皆さんはどう解釈されるのでしょうか? 色々聞いてみたいです。
Hedwig and the Angry Inch
2001年 アメリカ
監督・脚本:ジョン・キャメロン・ミッチェル
キャスト:ジョン・キャメロン・ミッチェル
スティーブン・トラス
撮影:フランク・デマルコ
作詞:スティーブン・トラスク
作曲:スティーブン・トラスク