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空気を悪くしない令嬢として使われ続けた私は、婚約破棄されて潮風の街へ辿り着きました

作者: すっとぼけん太
掲載日:2026/05/21

王都の社交界には、一枚の(おうぎ)があった。


白絹(しろぎぬ)銀糸(ぎんし)月桂樹(げっけいじゅ)


ぱちり、と開けば、

険悪だった空気がほどける。


す、と閉じれば、

誰かの失言が静かに流される。


まるで魔法みたいだと、

貴婦人たちは笑っていた。


侯爵令嬢(こうしゃくれいじょう)エリシア・リンドールは、

いつもその扇を手に微笑んでいた。


だから誰も気づかない。


その笑顔が――


胸を締めつける痛みと引き換えに、

作られていたことを。



リンドール侯爵家は貧しかった。


海沿いの領地。

潮風で痩せる畑。


冬になれば塩害で作物は枯れ、

港へ入る船も減る。


当然、税収も落ちた。


王都貴族たちは陰で笑う。


「海風だけは立派な領地ですこと」


幼いエリシアは、

その言葉を忘れられなかった。


社交界で失敗すれば、

家が終わる。


母の薬代が消える。

冬を越せない領民も出る。


だからエリシアは、

“空気を読む”ことを覚えた。



十五歳の冬。


リンドール領は、

過去最悪の塩害に襲われた。


白く染まる畑。

船の減った港。


父は毎晩、

帳簿を睨み続け。


母の咳も、

日に日に酷くなっていく。


その頃にはもう、

エリシアは充分理解していた。


自分が完璧な令嬢にならなければ、

この家は終わるのだと。



「笑いなさい」


「空気を読みなさい」


「侯爵家の娘として恥を(さら)してはいけません」


マナー。

礼法。

会話術。

笑顔の角度。


エリシアは、

眠る時間を削って覚えた。


吐きそうになりながら。

泣きそうになりながら。


けれど。


十五歳の少女が背負うには――


その重圧は、

あまりにも大きすぎた。



その日。


中央貴族の視察団が、

港へやって来ていた。


歓迎会。


緊張で顔を強張らせる父。

頭を下げ続ける使用人たち。

無理に笑う領民たち。


空気を壊してはいけない。

不安を見せてもいけない。


笑わなければ。


エリシアは、

顔から血の気が引いていくのを感じていた。


額を冷たい汗が伝う。


それでも、笑う。


笑って。

笑って。


そして――


息が出来なくなった。


慌てて扇を開く。


誰にも見られないように。


“笑えなくなった顔”を、

隠すように。



エリシアは、

大人たちの間をすり抜けるように、

一人で海岸へ逃げ出した。


冬の海。

灰色の波。

冷たい潮風。


遠くで、

錆びた鐘が鳴っている。


胸が苦しい。

息が吸えない。

涙が止まらない。


喉の奥が、

ひゅう、と細く鳴った。


その小さな手には、

白絹の扇。


笑顔の角度と一緒に、

開き方まで何度も練習したせいで。


骨の一本が、

折れかけていた。


扇を閉じる。


ぱちり。


その音はまるで――

自分の心を削る音みたいだった。


その時。


「……死ぬぞ」


低い声がした。


エリシアは、

細い肩をびくりと震わせる。


顔を上げた。


そこにいたのは――


濃紺の軍服を纏った青年だった。


冬の強い海風の中でも、

姿勢は微動だにしない。


肩には、

若い士官を示す徽章(きしょう)


二十三歳。


北方航路調査のため、

中央視察団へ同行していた海軍士官。


ローラン・ヴァイス。


まだ“提督”と呼ばれる前の男。


灰青色の瞳が、

エリシアを見る。


たった一目。


なのに。


取り繕った笑顔も。

押し殺した涙も。


全部見抜かれてしまった気がした。


「子供のくせに、

 世界を背負った顔をするな」


ぶっきらぼうな声だった。


慰めるでもない。

抱き締めるでもない。


ただ事実だけを置いていくような、

不器用な言葉。


そしてローランは、

水筒を差し出した。


魚のスープだった。


潮の匂い。

強い塩気。

立ち上る湯気。


「……飲め」


「温まるぞ」


エリシアは、

震える手で受け取る。


冷え切った指先へ、

じんわり熱が広がった。


そっと一口飲む。


熱かった。

舌が痛いくらいに。


けれど。


締めつけられていた胸の奥へ、

少しだけ空気が入った気がした。


ローランが、

海を見たまま言う。


「胸が苦しい時は、息を吐け」


低い声。


波音へ沈むような、

静かな言葉。


「吐けば――そのうち吸える」


エリシアは、

ゆっくり息を吐いた。


「余計なもんは、

 全部吐いちまえ」


たったそれだけの言葉だった。


けれど不思議なくらい、

苦しかった胸へ真っ直ぐ入ってきた。



ローランの視線が、

ふとエリシアの手元へ落ちる。


白絹の扇。

歪みかけた骨。


「……貸してみな」


「えっ?」


「壊れてるだろ」


エリシアは、

反射的に扇を隠しかけた。


だがローランは、

軍服の内側から細い補修ワイヤーを取り出す。


北方航海用の補強材だった。


慣れた手つきで、

扇の骨を静かに整えていく。


海風が吹く。


波の音。

遠くを横切る帆船。


「道具も人間も、

 無理をすれば折れる」


静かな声だった。


「次に会う時は、

 そんな顔で笑うな」


それが――


白絹の扇、

最初の修理になった。



三年後。


十八歳。


初めて出席した、王城の冬季夜会。


天井では、

無数のシャンデリアが黄金色の光を揺らしている。


磨き抜かれた大理石。


甘い香水の匂い。


宝石の輝き。


壁を埋め尽くす、

豪奢(ごうしゃ)なタペストリー。


そして――


笑顔の裏で、

静かに牙を隠し合う貴族たち。


その中心で。


エリシア・リンドールは、

微笑みながら計算していた。


北部侯爵家は、

鉱山事故で資金繰りが悪化。


南部伯爵は、

愛人問題を中央派閥へ握られている。


第二王女は昨夜、

侍女と口論したばかり。


今日は機嫌が悪い。


不用意な話題は危険。


そして――


第三王子派と中央派閥は、

今夜も一触即発だった。



中央派閥は、

格式と血統を重んじる旧貴族。


第三王子派は、

軍部と地方改革を掲げる新興勢力。


両者の仲は最悪だった。


同じ卓へ座るだけで、

空気が軋む。


だからエリシアは、

必死で計算する。


誰を先に褒めるか。

誰と誰を近づけるか。

どの話題を、

誰の前で出してはいけないか。


たった一言で、

数年積み上げた関係が壊れる。


だから彼女は、

白絹の扇で戦っていた。


笑いながら。

呼吸を忘れるほど神経を張り詰めながら。


誰かが怒る前に話題を変え。

失言が出る前に視線を逸らし。

席を立たれる前に、別の笑い声を差し込む。


ぱちり。


白絹の扇が開く。


その小さな音ひとつで、

空気の流れが変わる。


笑顔が笑顔を呼び。


張り詰めていた場が、

ほんの少しだけ和らいでいく。


まるで。


誰にも見えない糸を、

一人で必死に繋ぎ止めているみたいに。


けれど。


誰も気づかない。


その一手一手が、

一人の少女の消耗で成り立っていることに。



化粧室へ飛び込むと。


エリシアの指から、

白絹の扇が滑り落ちた。


カラン。


白絹の扇が床を滑る。


指の震えが止まらない。


息が浅い。

胸が苦しい。


次の瞬間。


胃の奥がひっくり返った。


「――っ」


彼女はコルセットを外し、

そのまま洗面台へ縋りつく。


吐き気。

過呼吸。

焼ける喉。


小刻みに震える肩。

肺へ空気が入らない。


吸わなければと思うほど、

喉が細く閉じていく。


鏡の中では――


青ざめた顔のまま。


悲しげな眼をした笑顔だけが、

まだ顔へ張りついていた。


――まるで、

剥がせなくなった仮面みたいに。



しばらくして。


呼吸を整えたエリシアが私室へ戻ると。


「君は本当に助かるな」


婚約者アルベルト・グランシアは、

いつものように微笑んでいた。


若き宰相補佐官。


見栄えが良く。

話術に優れ。

王族受けもいい。


誰もが、

次代の宰相候補と称える男。


だが。


彼は気づいていない。


その“完璧な調整役”という評価が、

誰によって支えられているのかを。



翌日。


夜会帰りの馬車の中。


揺れるランタンの灯りが、

薄暗い車内をぼんやり照らしている。


「今日の北部侯爵、危なかったな?」


アルベルトはネクタイを緩めながら、

どこか満足げに笑った。


「君がワインの順番を、

 “偶然”ずらしていなかったら――

 あの場で完全に決裂していた」


エリシアは、

静かに視線を伏せる。


「……そうですね」


本当は。


北部侯爵が酒に弱いこと。


酔えば、

第三王子派への敵意を隠せなくなること。


さらに今夜は、

南部伯爵が露骨に挑発していたことも。


全部、事前に計算していた。


だから給仕係へ、

“偶然”ワインを出す順番を遅らせた。


北部侯爵が怒鳴ったのは、

会談が終わった後。


ただ、それだけの差だった。


誰にも気づかれない程度に。

誰にも悟られないように。


「いやぁ、本当に助かった」


アルベルトは、

心から感謝していた。


悪意なんてない。


利用している自覚すらない。


だからこそ、

残酷だった。


「お前は言いつけ通り、

 空気を悪くしないから助かる」


エリシアは、

扇で口元を隠して微笑む。


その扇の骨は、

すでに四度修理されていた。


一回目は、

あの海辺で。


二回目からは、

全部エリシアが夜通し自分で直したものだった。


けれど。


どれだけ扇を修理できても。


自分の中で静かに壊れていくものだけは――


直せなかった。



リンドール領を含む沿岸地区は、

長年、“塩害特例税制”によって支えられていた。


塩害で農地は痩せ、

冬になれば港も止まる。


本来なら、

とっくに破綻していてもおかしくない土地。


だから国は、

特例として税負担を軽減していた。


――建前の上では。


だが実際は。


王都の中央貴族たちが、

そんな減税を素直に認めるはずもない。


「地方の甘えだ」


「赤字領地を甘やかすな」


毎年のように、

同じ反発が繰り返された。


だからエリシアは、

王都で頭を下げ続けていた。


夜会。

茶会。

寄付。

人脈。

笑顔。


相手の機嫌を読み。

欲しい言葉を与え。

怒りそうな話題を避ける。


敵同士を同席させ、

壊れかけた空気を繋ぎ直す。


そうしてようやく、

今年も特例延長へ漕ぎ着ける。


そのたびに。


エリシアの中で、

何かが少しずつ削れていった。


けれど。


表へ立つのは、

いつもアルベルトだった。


若き宰相補佐官。

中央派閥期待の星。


彼は完成した報告書を、

王族へ提出する。


『北部沿岸税制改革案、成功』


『地方安定化へ大きく寄与』


『中央と地方の融和を実現』


整った文章。

美しい署名。

若き政治家の功績。


沿岸地区の住民たちは、

皆、彼を褒めた。


「アルベルト様のおかげだ」


「中央にも理解者がいた」


エリシアは、

何も言わなかった。


言えば、

空気が悪くなるから。


そして二十歳(はたち)になる頃には――


リンドール領の寿命は、

とうに尽きかけていた。


減額を迫られ続ける特例税制。


エリシアの綱渡りみたいな交渉と、

夜会で貼り付ける笑顔だけが。


領地没収を防ぐ、

最後の砦だった。



崩壊は――


二十一歳になる二日前。


王立慈善晩餐会で起こった。


王城大広間。


無数のシャンデリア。

弦楽器の音色。

重なる笑い声。


香水とワインの匂いが満ちる、

いつも通りの華やかな夜。


――のはずだった。


けれど。


ふいに、

大広間の空気が揺れる。


ざわめき。


視線。

囁き。


人々が一斉に入口を振り向いた。


そして。


アルベルト・グランシアは――

第二王女を伴って現れた。


寄り添う距離。

自然すぎるエスコート。


周囲へ向ける、

政治的に完成された笑顔。


それだけで十分だった。


エリシアは理解する。


ああ。


切り捨てられるのだ、と。


第二王女の生家は、

国内物流を牛耳る大貴族。


中央派閥との結びつきも強い。


宰相候補であるアルベルトにとって、

これ以上ない縁談だった。



エリシアは静かに視線を伏せる。


するとアルベルトが、

少し困ったように笑った。


まるで、

物分かりの悪い部下を諭すように。


「政治的判断だ」


その言葉に、

周囲の貴族たちが小さく頷く。


仕方ない。

合理的だ。

理解すべきだ。


そんな顔だった。


アルベルトは続ける。


「……少しは僕の立場も考えてくれ」


その瞬間。


頭の中で、

何かが静かに切れた。


怒りではない。

悲しみでもない。


もっと乾いた何か。


長年、

無理やり張り続けていた糸が――


音もなく、

綺麗に切れた。


けれど。


エリシアの顔は微笑んでいた。


完璧に。


「承知いたしました」


アルベルトは、

目に見えて安堵した。


泣きわめくとでも思っていたのだろう。


そして――


その夜。


エリシアは、

初めて扇を開かなかった。


ぱちり、という音は。


最後まで一度も、

響かなかった。



それは晩餐会の終盤だった。


第三王子派の伯爵が、

不用意な失言をする。


「北部貴族は保守的すぎる」


軽口のつもりだったのだろう。


だが。


その一言で、

北部侯爵夫人の顔が凍った。


空気が止まる。


南部貴族が口を挟み。

中央派閥の老貴族が眉をひそめ。

第三王子派の若手が鼻で笑う。


火種が転がった。


今までなら。


エリシアが間へ入り、

白絹の扇を開いていた。


だが今夜。


ぱちり、という音は鳴らない。


そして。


「まあ、

 本日の葡萄酒は北部産なのですね」


エリシアは、

澄ました顔で静かにグラスを持ち上げた。


――ただ、それだけ。


次の瞬間。


鼻の赤い北部の老貴族が、

第三王子派の若者の胸元を掴んでいた。


椅子が倒れる。


怒声。

割れるグラス。

止まる演奏。


「ど、どうすればいいんだ……!」


誰かの悲鳴のような声。


視線が、

自然に、

エリシアへ向く。


けれどもう。


ぱちり、という音は鳴らない。


小さな亀裂が。

音もなく。


静かに。

けれど確実に――


王城大広間全体へ、

広がっていった。



三日後。


共同事業、二件停止。


一週間後。


婚約破談、七件。


二週間後。


北部侯爵家、寄付撤回。

王立慈善院、予算三十八%減。


さらに。


第三王子派と中央派閥の会談決裂。


抗議文。

告発文。

面会拒否。


晩餐会では、

露骨に席を外す貴族まで現れ始めた。


そして。


失言した第三王子派の伯爵は、

中央宮の監督下へ置かれた。



二ヵ月後。


アルベルト・グランシアの執務室には、

一日百通を超える書簡が届いていた。


抗議。

確認。

苦情。

撤回通知。


机の上は紙で埋まり、

整理すら追いつかない。


「どうなっている!!」


アルベルトは、

机を叩いて叫んだ。


額には汗。

目の下には濃い隈。


今まで“自然に回っていたもの”が、

次々と崩れていく。


老執事が、

震える声で答えた。


「以前は……

 エリシア様が、

 事前に全貴族へ手紙を送っておられました」


「……手紙?」


アルベルトが顔を上げる。


「席順の理由。

 会話の誘導。

 贈答品の順番。

 避けるべき話題。

 機嫌を損ねている相手……」


老執事は、

乾いた喉を鳴らした。


「……すべてです」


アルベルトは絶句する。


だが。


追い打ちをかけるように、

老執事は続けた。


「先日の夜会後、

 第二王女殿下より婚約の完全破棄が通達されました」


「……なぜだ」


老執事は、

言い淀んだ。


「『あのように見苦しい夜会しか差配できない男が、

 次代の宰相候補とは笑わせる』とのことです」


アルベルトの顔から、

血の気が引いた。


さらに。


「先ほど、

 宰相閣下からも通達が」


老執事は、

静かに頭を下げる。


「……『グランシア。

 君が有能だったのではない』」


「『リンドール侯爵令嬢が、

 異常なほど有能だっただけだ』と」


「今後の登用は見送る、とのことです」


沈黙。


アルベルトは、

何も言えなかった。


自然に回っていると思っていた世界は――


全部。


一人の女が、

眠る時間を削り。


呼吸を擦り減らし。


壊れそうになりながら。


必死に繋ぎ止めていただけだった。


己の無能さを、

王都中へ晒されたアルベルトは。


ただ愕然と、

崩れ落ちることしか出来なかった。



その頃。


エリシアは、

王都から遠く離れた港町にいた。


潮風。

魚の匂い。

浜へ打ち上げられた流木。


船着場からは、

荒っぽい怒鳴り声が響いてくる。


王都の香水とシャンデリアとは、

何もかも違う世界だった。


エリシアは足を止め、

静かに空を見上げる。


カモメの群れが、

曇った空を横切っていった。


遠くでは、

帆船がゆっくり揺れている。


故郷の海に、

少しだけ似ていた。


ずっと来たかった。


けれど来られなかった。


夜会用のドレスが先だった。

領地の税が先だった。

母の薬代が先だった。


自分の望みは、

いつも最後だった。


エリシアは、

小さな食堂の扉を押し開ける。


――チロリン。


頭上で、

古びた鈴が鳴った。


温かな湯気。

煮込まれた魚の匂い。

木椅子の軋む音。


狭い店の中には、

王都にはなかった“生活の熱”が満ちていた。


「温かいスープをください」


少しして。


店の女主人が、

湯気の立つ皿を運んでくる。


「ありがとうございます」


エリシアは、

小さく微笑んだ。


恰幅のいい女主人が、

じっと彼女の顔を見た。


「あんた、

 変な笑い方するねぇ」


エリシアは、

ぱちりと目を瞬かせる。


「……変、ですか?」


「港じゃ、

 そんな顔してる奴、

 大体ぶっ倒れるよ」


冗談めいた口調だった。


だが。


その言葉が妙に、

胸へ刺さった。


――その時だった。


「その通りだ」


低い声。


波みたいに静かな声。


エリシアは、

ゆっくり振り返る。


そこにいたのは――


濃紺の軍服を纏った男だった。


海軍提督ローラン・ヴァイス。


北方航路を束ねる男。


無愛想。

口数が少ない。


貴族嫌いで有名な、

冷徹な提督。


エリシアは、

小さく息を呑む。


胸元の高位の徽章。

鋭くなった眼差し。


かつて二十三歳の青年士官だった彼は、

今では北海そのものみたいな男になっていた。


けれど。


不器用で。

乱暴なくせに。

押し付けない優しさだけは。


五年前の冬の海と、

何も変わっていなかった。


「……ローラン様……?」


ローランは、

エリシアの手元を見る。


白絹の扇。

骨の継ぎ目。

幾重にも残る補修の痕。


短い沈黙。


それから。


「……まだ使っていたのか」


低い声だった。


責めるでもない。

驚くでもない。


ただ。


長い航海の果てに、

ようやく探していたものを見つけたみたいな声。


「六年ぶりだな、エリシア」


そして。


ローランは、

ほんの少しだけ目元を和らげた。


「……ようやく見つけた」


「え……?」


「王都を泥舟みたいに飛び出したと聞いてな」


呆れたような口調。


「この半月、

 寄港した港を全部当たらせていた」


その言葉の奥には、

隠しきれない安堵が滲んでいた。


「……相変わらず、

 無茶な生き方をする」


ローランは、

湯気の立つスープ皿をエリシアの前へ静かに押す。


魚の匂い。

潮の香り。

立ち上る熱。


「……飲め」


「温まるぞ」


六年前と、

まったく同じ言葉だった。


その瞬間。


凍えていた記憶が、

胸の奥で静かにほどけていく。


そして。


ローランは、

灰色の海を見るみたいな目で言った。


「もう、ここでは――

 その扇で戦わなくていい」


低い声。


「俺の視界にいる間は、

 ただ息だけしていろ」


ぶっきらぼうな言葉だった。


けれど。


その不器用な優しさは、

凍えきっていたエリシアの胸へ、

驚くほど静かに染み込んでいった。



その翌月。


“塩害特例税制”は正式に廃止された。


中央派閥は、

混乱の責任を地方へ押しつける。


「赤字領地への過剰優遇だった」


「王国財政正常化のため」


「時代に合わない旧制度の整理」


王都では、

そんな言葉ばかりが並んだ。


けれど。


実際に切り捨てられた沿岸領地では、

冬を越せない者たちが続出した。


当然。


リンドール侯爵家も例外ではない。


税を支払えず、

領地は没収。

屋敷も差し押さえられた。


エリシアの父は、

最後まで頭を下げ続け。


母は咳を抑えながら、

小さく笑った。


「……暖かい土地で、

 一度くらい暮らしてみたかったわねぇ」


昔から、

何度も聞いた言葉だった。


北の海風は冷たい。


冬になれば、

母の咳はいつも酷くなる。


だからエリシアは、

ずっと必死だった。


この家を守らなければ、と。


だが結局。


沿岸地区は、とっくに限界だったのだ。


エリシアは、

もう、何も出来なかった。


何ひとつ――

止められなかった。


そして王都は――


最後まで、

何も守ってはくれなかった。



時を同じくして。


アルベルトは、

港町へ来ていた。


仕立ての良い外套。

磨き抜かれた靴。

乱れ一つない髪。


王都にいた頃と変わらない、

完璧な貴族の姿。


――のはずだった。


けれど。


何かが、

決定的に壊れていた。


視線が落ち着かない。


船乗りたちの怒鳴り声に肩を震わせ、

酒場の笑い声にすらびくりと反応する。


もう彼は、

“空気”を読めなくなっていた。


その時だった。


港通りの先。


古びた宿屋の二階テラスに、

白い人影が見えた。


海風に揺れる長い髪。

細い肩。


手すりへ(もた)れ、

静かに海を見つめる横顔。


――エリシア。


アルベルトの呼吸が止まる。


足が勝手に前へ出た。


石畳を踏み外しかけ、

壁へ手をつく。


肩で息をしながら、

階段を駆け上がる。


「エリシア……!」


海へ突き出したテラス。


その柱は海中まで深く沈み込み、

潮の流れを受け止めるように立っている。


足元では、

行き場を失った白い波が、

吹き溜まりみたいに静かに揺れていた。


ちゃぷ……。


小さな波音だけが、

古びた木柱へ触れては消える。


白い帆船。

遠くを飛ぶカモメ。


その穏やかな景色の中で。


アルベルトは、

縋るみたいな声を投げた。


「戻ってくれ」


エリシアは振り返らない。


海風が、

長い髪を揺らす。


「第二王女との縁談は白紙になった!」


「社交界の調整に失敗した僕を、

 宰相閣下も見限ったんだ……!」


血走った目で叫ぶ。


「君がいないと……

 王都のすべてが、

 僕のすべてが――

 何も回らないんだ!」


その声に。


エリシアは、

ほんの少しだけ目を細めた。


「アルベルト様」


静かな声だった。


視線は、

海へ向けたまま。


「そこまで声を荒らげては、

 この港の空気が悪くなりますわ」


その瞬間。


アルベルトの息が止まる。


かつて。


自分が何度も彼女へ言っていた言葉。


空気を乱すな。

場を壊すな。

感情を見せるな。


その全部が、

静かに返ってきた。


「僕は……」


アルベルトの喉が震える。


「そんなつもりじゃ……」



その時だった。


――コト。


小さな音がした。


湯気の立つ茶器が、

エリシアの隣へ静かに置かれる。


ローランだった。


無愛想な海軍提督は、

アルベルトを一瞥する。


灰青色の瞳。


「……なるほど」


ただ、

それだけ言った。


そして。


エリシアの紅茶が冷えていることに気づくと、

何も言わず新しい茶を淹れ直した。


それを見て。


アルベルトは、

言葉を失った。


昔の自分なら、

絶対に気づかなかったことだった。


手すりの上には、

白絹の扇。


閉じられたまま。


「エリシア……頼む。

 もう一度だけ――」


そこで初めて。


エリシアは、

ゆっくり振り返った。


その瞳は、

凪いだ海みたいに静かだった。


かつて彼へ向けていた感情は、

もう何一つ残っていない。


「……失礼ですが」


海風が、

白いワンピースの裾を揺らす。


「何かおっしゃいましたか?」


アルベルトは息を呑む。


エリシアは、

小さく目を伏せた。


「心地よい海風の音で――」


静かな声。


「私の耳には、

 何も聞こえませんでしたので」


潮風が吹き抜ける。


遠くで、

一羽のカモメが鳴いた。



ローランが、

静かに階段へ向かって歩き出す。


エリシアは、

その背を追うように歩き出した。


そして。


テラスの縁へ置かれていた扇へ、

そっと指先を伸ばす。


白絹に、

銀糸の月桂樹。


何度も修理された扇。


エリシアは、

静かにそれを海へ落とした。


ひらり。


扇は風へ(さら)われるように舞い、

深蒼色の海へ落ちていく。


――ちゃぷん。


小さな音。


波紋が、

ゆっくり広がった。


(もし、この扇がまた壊れても――)


エリシアは、

細く目を細める。


(あの人はきっと、

 また不器用な手で直してくれるのでしょうね)


あの冬の日みたいに。


――けれど。


「もう――

 修理はいりません」


静かな声だった。


それは、

誰かへ向けた言葉ではない。


長いあいだ。


自分へ掛け続けていた呪いを、

そっと解いていくみたいな声だった。


空気を壊さないように。

誰かに嫌われないように。


笑って。


耐えて。


息を殺して生きてきた、

自分自身への呪い。


エリシアの姿が、

階段の奥へ消えた後も。


白絹の扇だけが、

波間で静かに揺れている。


「エリシア……」


アルベルトだけが、

その場へ取り残された。


もう。


彼の言葉は。


彼女の世界には、

届かなかった。


【了】

✦✦✦ 【エピローグ】✦✦✦


――半年後。


社交界の調整役としての信用を失い、

爵位剥奪寸前まで没落したアルベルトの噂が、

王都から消え失せたころ。


エリシアは、

王国西部、主なき古城にいた。


高い丘。


吹き抜けるのは、

母がずっと願っていた温かな潮風。


ローランの縁で譲り受けたこの地には、

手入れの途絶えた葡萄畑が広がっている。


崩れかけた石壁、伸び放題の(つる)


かつて誰かが愛し、

守ろうとしていた時間だけが、

静かに残されていた。


けれど。


大地は豊かで。


海風だけは、

どこまでも穏やかだった。


「エリシア、行くぞ」


背後から、低い声がした。


濃紺の外套を揺らしたローランが、

相変わらず無愛想な顔で立っている。


「……そろそろ、

 君の両親が港に着くころだ」


その言葉に。


エリシアの瞳が、

小さく揺れた。


遠く。


夕暮れの港へ、

一隻の船がゆっくり滑り込んでくる。


もう、ここにはない。


ぱちり、と鳴る扇の音も。


張り付いた笑顔も。


誰かの機嫌を読み続けるためだけの、

息苦しい社交界も。


あるのはただ――


母がずっと願っていた、

穏やかで温かな海風。


葡萄の苗を育てる、

豊かな土。


そして。


ようやく辿り着いた、

静かな居場所だけだった。






◆◇◆◇◆―― ◆◇◆◇◆―― ◆◇◆◇◆――

お読みいただき、ありがとうございます。


挿絵(By みてみん)

※表紙イメージ画像はAIを使用して制作しています。

登場人物や世界観のイメージとして作成したものです。

本編とあわせて楽しんでいただければ嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
私は地方を維持する悲哀と、そしてハッピーエンドが書かれていて良い物語に思えます。 ☆入れようかなとも思いましたが、ここまで来たらこのままの方がと思いましたので入れません。 代わりに感想書いておきます。…
 大きな歪みを抱えた斜陽の国で、一人頑張り続けてしまった彼女。痛み苦しみを抱えて必死で戦うその姿と、彼女を救ってくれた提督の不器用で実直な人柄が、霧原様の文体としっくり合っていて、とても素敵でした。
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