空気を悪くしない令嬢として使われ続けた私は、婚約破棄されて潮風の街へ辿り着きました
王都の社交界には、一枚の扇があった。
白絹に銀糸の月桂樹。
ぱちり、と開けば、
険悪だった空気がほどける。
す、と閉じれば、
誰かの失言が静かに流される。
まるで魔法みたいだと、
貴婦人たちは笑っていた。
侯爵令嬢エリシア・リンドールは、
いつもその扇を手に微笑んでいた。
だから誰も気づかない。
その笑顔が――
胸を締めつける痛みと引き換えに、
作られていたことを。
*
リンドール侯爵家は貧しかった。
海沿いの領地。
潮風で痩せる畑。
冬になれば塩害で作物は枯れ、
港へ入る船も減る。
当然、税収も落ちた。
王都貴族たちは陰で笑う。
「海風だけは立派な領地ですこと」
幼いエリシアは、
その言葉を忘れられなかった。
社交界で失敗すれば、
家が終わる。
母の薬代が消える。
冬を越せない領民も出る。
だからエリシアは、
“空気を読む”ことを覚えた。
*
十五歳の冬。
リンドール領は、
過去最悪の塩害に襲われた。
白く染まる畑。
船の減った港。
父は毎晩、
帳簿を睨み続け。
母の咳も、
日に日に酷くなっていく。
その頃にはもう、
エリシアは充分理解していた。
自分が完璧な令嬢にならなければ、
この家は終わるのだと。
*
「笑いなさい」
「空気を読みなさい」
「侯爵家の娘として恥を晒してはいけません」
マナー。
礼法。
会話術。
笑顔の角度。
エリシアは、
眠る時間を削って覚えた。
吐きそうになりながら。
泣きそうになりながら。
けれど。
十五歳の少女が背負うには――
その重圧は、
あまりにも大きすぎた。
*
その日。
中央貴族の視察団が、
港へやって来ていた。
歓迎会。
緊張で顔を強張らせる父。
頭を下げ続ける使用人たち。
無理に笑う領民たち。
空気を壊してはいけない。
不安を見せてもいけない。
笑わなければ。
エリシアは、
顔から血の気が引いていくのを感じていた。
額を冷たい汗が伝う。
それでも、笑う。
笑って。
笑って。
そして――
息が出来なくなった。
慌てて扇を開く。
誰にも見られないように。
“笑えなくなった顔”を、
隠すように。
*
エリシアは、
大人たちの間をすり抜けるように、
一人で海岸へ逃げ出した。
冬の海。
灰色の波。
冷たい潮風。
遠くで、
錆びた鐘が鳴っている。
胸が苦しい。
息が吸えない。
涙が止まらない。
喉の奥が、
ひゅう、と細く鳴った。
その小さな手には、
白絹の扇。
笑顔の角度と一緒に、
開き方まで何度も練習したせいで。
骨の一本が、
折れかけていた。
扇を閉じる。
ぱちり。
その音はまるで――
自分の心を削る音みたいだった。
その時。
「……死ぬぞ」
低い声がした。
エリシアは、
細い肩をびくりと震わせる。
顔を上げた。
そこにいたのは――
濃紺の軍服を纏った青年だった。
冬の強い海風の中でも、
姿勢は微動だにしない。
肩には、
若い士官を示す徽章。
二十三歳。
北方航路調査のため、
中央視察団へ同行していた海軍士官。
ローラン・ヴァイス。
まだ“提督”と呼ばれる前の男。
灰青色の瞳が、
エリシアを見る。
たった一目。
なのに。
取り繕った笑顔も。
押し殺した涙も。
全部見抜かれてしまった気がした。
「子供のくせに、
世界を背負った顔をするな」
ぶっきらぼうな声だった。
慰めるでもない。
抱き締めるでもない。
ただ事実だけを置いていくような、
不器用な言葉。
そしてローランは、
水筒を差し出した。
魚のスープだった。
潮の匂い。
強い塩気。
立ち上る湯気。
「……飲め」
「温まるぞ」
エリシアは、
震える手で受け取る。
冷え切った指先へ、
じんわり熱が広がった。
そっと一口飲む。
熱かった。
舌が痛いくらいに。
けれど。
締めつけられていた胸の奥へ、
少しだけ空気が入った気がした。
ローランが、
海を見たまま言う。
「胸が苦しい時は、息を吐け」
低い声。
波音へ沈むような、
静かな言葉。
「吐けば――そのうち吸える」
エリシアは、
ゆっくり息を吐いた。
「余計なもんは、
全部吐いちまえ」
たったそれだけの言葉だった。
けれど不思議なくらい、
苦しかった胸へ真っ直ぐ入ってきた。
*
ローランの視線が、
ふとエリシアの手元へ落ちる。
白絹の扇。
歪みかけた骨。
「……貸してみな」
「えっ?」
「壊れてるだろ」
エリシアは、
反射的に扇を隠しかけた。
だがローランは、
軍服の内側から細い補修ワイヤーを取り出す。
北方航海用の補強材だった。
慣れた手つきで、
扇の骨を静かに整えていく。
海風が吹く。
波の音。
遠くを横切る帆船。
「道具も人間も、
無理をすれば折れる」
静かな声だった。
「次に会う時は、
そんな顔で笑うな」
それが――
白絹の扇、
最初の修理になった。
*
三年後。
十八歳。
初めて出席した、王城の冬季夜会。
天井では、
無数のシャンデリアが黄金色の光を揺らしている。
磨き抜かれた大理石。
甘い香水の匂い。
宝石の輝き。
壁を埋め尽くす、
豪奢なタペストリー。
そして――
笑顔の裏で、
静かに牙を隠し合う貴族たち。
その中心で。
エリシア・リンドールは、
微笑みながら計算していた。
北部侯爵家は、
鉱山事故で資金繰りが悪化。
南部伯爵は、
愛人問題を中央派閥へ握られている。
第二王女は昨夜、
侍女と口論したばかり。
今日は機嫌が悪い。
不用意な話題は危険。
そして――
第三王子派と中央派閥は、
今夜も一触即発だった。
*
中央派閥は、
格式と血統を重んじる旧貴族。
第三王子派は、
軍部と地方改革を掲げる新興勢力。
両者の仲は最悪だった。
同じ卓へ座るだけで、
空気が軋む。
だからエリシアは、
必死で計算する。
誰を先に褒めるか。
誰と誰を近づけるか。
どの話題を、
誰の前で出してはいけないか。
たった一言で、
数年積み上げた関係が壊れる。
だから彼女は、
白絹の扇で戦っていた。
笑いながら。
呼吸を忘れるほど神経を張り詰めながら。
誰かが怒る前に話題を変え。
失言が出る前に視線を逸らし。
席を立たれる前に、別の笑い声を差し込む。
ぱちり。
白絹の扇が開く。
その小さな音ひとつで、
空気の流れが変わる。
笑顔が笑顔を呼び。
張り詰めていた場が、
ほんの少しだけ和らいでいく。
まるで。
誰にも見えない糸を、
一人で必死に繋ぎ止めているみたいに。
けれど。
誰も気づかない。
その一手一手が、
一人の少女の消耗で成り立っていることに。
*
化粧室へ飛び込むと。
エリシアの指から、
白絹の扇が滑り落ちた。
カラン。
白絹の扇が床を滑る。
指の震えが止まらない。
息が浅い。
胸が苦しい。
次の瞬間。
胃の奥がひっくり返った。
「――っ」
彼女はコルセットを外し、
そのまま洗面台へ縋りつく。
吐き気。
過呼吸。
焼ける喉。
小刻みに震える肩。
肺へ空気が入らない。
吸わなければと思うほど、
喉が細く閉じていく。
鏡の中では――
青ざめた顔のまま。
悲しげな眼をした笑顔だけが、
まだ顔へ張りついていた。
――まるで、
剥がせなくなった仮面みたいに。
*
しばらくして。
呼吸を整えたエリシアが私室へ戻ると。
「君は本当に助かるな」
婚約者アルベルト・グランシアは、
いつものように微笑んでいた。
若き宰相補佐官。
見栄えが良く。
話術に優れ。
王族受けもいい。
誰もが、
次代の宰相候補と称える男。
だが。
彼は気づいていない。
その“完璧な調整役”という評価が、
誰によって支えられているのかを。
*
翌日。
夜会帰りの馬車の中。
揺れるランタンの灯りが、
薄暗い車内をぼんやり照らしている。
「今日の北部侯爵、危なかったな?」
アルベルトはネクタイを緩めながら、
どこか満足げに笑った。
「君がワインの順番を、
“偶然”ずらしていなかったら――
あの場で完全に決裂していた」
エリシアは、
静かに視線を伏せる。
「……そうですね」
本当は。
北部侯爵が酒に弱いこと。
酔えば、
第三王子派への敵意を隠せなくなること。
さらに今夜は、
南部伯爵が露骨に挑発していたことも。
全部、事前に計算していた。
だから給仕係へ、
“偶然”ワインを出す順番を遅らせた。
北部侯爵が怒鳴ったのは、
会談が終わった後。
ただ、それだけの差だった。
誰にも気づかれない程度に。
誰にも悟られないように。
「いやぁ、本当に助かった」
アルベルトは、
心から感謝していた。
悪意なんてない。
利用している自覚すらない。
だからこそ、
残酷だった。
「お前は言いつけ通り、
空気を悪くしないから助かる」
エリシアは、
扇で口元を隠して微笑む。
その扇の骨は、
すでに四度修理されていた。
一回目は、
あの海辺で。
二回目からは、
全部エリシアが夜通し自分で直したものだった。
けれど。
どれだけ扇を修理できても。
自分の中で静かに壊れていくものだけは――
直せなかった。
*
リンドール領を含む沿岸地区は、
長年、“塩害特例税制”によって支えられていた。
塩害で農地は痩せ、
冬になれば港も止まる。
本来なら、
とっくに破綻していてもおかしくない土地。
だから国は、
特例として税負担を軽減していた。
――建前の上では。
だが実際は。
王都の中央貴族たちが、
そんな減税を素直に認めるはずもない。
「地方の甘えだ」
「赤字領地を甘やかすな」
毎年のように、
同じ反発が繰り返された。
だからエリシアは、
王都で頭を下げ続けていた。
夜会。
茶会。
寄付。
人脈。
笑顔。
相手の機嫌を読み。
欲しい言葉を与え。
怒りそうな話題を避ける。
敵同士を同席させ、
壊れかけた空気を繋ぎ直す。
そうしてようやく、
今年も特例延長へ漕ぎ着ける。
そのたびに。
エリシアの中で、
何かが少しずつ削れていった。
けれど。
表へ立つのは、
いつもアルベルトだった。
若き宰相補佐官。
中央派閥期待の星。
彼は完成した報告書を、
王族へ提出する。
『北部沿岸税制改革案、成功』
『地方安定化へ大きく寄与』
『中央と地方の融和を実現』
整った文章。
美しい署名。
若き政治家の功績。
沿岸地区の住民たちは、
皆、彼を褒めた。
「アルベルト様のおかげだ」
「中央にも理解者がいた」
エリシアは、
何も言わなかった。
言えば、
空気が悪くなるから。
そして二十歳になる頃には――
リンドール領の寿命は、
とうに尽きかけていた。
減額を迫られ続ける特例税制。
エリシアの綱渡りみたいな交渉と、
夜会で貼り付ける笑顔だけが。
領地没収を防ぐ、
最後の砦だった。
*
崩壊は――
二十一歳になる二日前。
王立慈善晩餐会で起こった。
王城大広間。
無数のシャンデリア。
弦楽器の音色。
重なる笑い声。
香水とワインの匂いが満ちる、
いつも通りの華やかな夜。
――のはずだった。
けれど。
ふいに、
大広間の空気が揺れる。
ざわめき。
視線。
囁き。
人々が一斉に入口を振り向いた。
そして。
アルベルト・グランシアは――
第二王女を伴って現れた。
寄り添う距離。
自然すぎるエスコート。
周囲へ向ける、
政治的に完成された笑顔。
それだけで十分だった。
エリシアは理解する。
ああ。
切り捨てられるのだ、と。
第二王女の生家は、
国内物流を牛耳る大貴族。
中央派閥との結びつきも強い。
宰相候補であるアルベルトにとって、
これ以上ない縁談だった。
*
エリシアは静かに視線を伏せる。
するとアルベルトが、
少し困ったように笑った。
まるで、
物分かりの悪い部下を諭すように。
「政治的判断だ」
その言葉に、
周囲の貴族たちが小さく頷く。
仕方ない。
合理的だ。
理解すべきだ。
そんな顔だった。
アルベルトは続ける。
「……少しは僕の立場も考えてくれ」
その瞬間。
頭の中で、
何かが静かに切れた。
怒りではない。
悲しみでもない。
もっと乾いた何か。
長年、
無理やり張り続けていた糸が――
音もなく、
綺麗に切れた。
けれど。
エリシアの顔は微笑んでいた。
完璧に。
「承知いたしました」
アルベルトは、
目に見えて安堵した。
泣きわめくとでも思っていたのだろう。
そして――
その夜。
エリシアは、
初めて扇を開かなかった。
ぱちり、という音は。
最後まで一度も、
響かなかった。
*
それは晩餐会の終盤だった。
第三王子派の伯爵が、
不用意な失言をする。
「北部貴族は保守的すぎる」
軽口のつもりだったのだろう。
だが。
その一言で、
北部侯爵夫人の顔が凍った。
空気が止まる。
南部貴族が口を挟み。
中央派閥の老貴族が眉をひそめ。
第三王子派の若手が鼻で笑う。
火種が転がった。
今までなら。
エリシアが間へ入り、
白絹の扇を開いていた。
だが今夜。
ぱちり、という音は鳴らない。
そして。
「まあ、
本日の葡萄酒は北部産なのですね」
エリシアは、
澄ました顔で静かにグラスを持ち上げた。
――ただ、それだけ。
次の瞬間。
鼻の赤い北部の老貴族が、
第三王子派の若者の胸元を掴んでいた。
椅子が倒れる。
怒声。
割れるグラス。
止まる演奏。
「ど、どうすればいいんだ……!」
誰かの悲鳴のような声。
視線が、
自然に、
エリシアへ向く。
けれどもう。
ぱちり、という音は鳴らない。
小さな亀裂が。
音もなく。
静かに。
けれど確実に――
王城大広間全体へ、
広がっていった。
*
三日後。
共同事業、二件停止。
一週間後。
婚約破談、七件。
二週間後。
北部侯爵家、寄付撤回。
王立慈善院、予算三十八%減。
さらに。
第三王子派と中央派閥の会談決裂。
抗議文。
告発文。
面会拒否。
晩餐会では、
露骨に席を外す貴族まで現れ始めた。
そして。
失言した第三王子派の伯爵は、
中央宮の監督下へ置かれた。
*
二ヵ月後。
アルベルト・グランシアの執務室には、
一日百通を超える書簡が届いていた。
抗議。
確認。
苦情。
撤回通知。
机の上は紙で埋まり、
整理すら追いつかない。
「どうなっている!!」
アルベルトは、
机を叩いて叫んだ。
額には汗。
目の下には濃い隈。
今まで“自然に回っていたもの”が、
次々と崩れていく。
老執事が、
震える声で答えた。
「以前は……
エリシア様が、
事前に全貴族へ手紙を送っておられました」
「……手紙?」
アルベルトが顔を上げる。
「席順の理由。
会話の誘導。
贈答品の順番。
避けるべき話題。
機嫌を損ねている相手……」
老執事は、
乾いた喉を鳴らした。
「……すべてです」
アルベルトは絶句する。
だが。
追い打ちをかけるように、
老執事は続けた。
「先日の夜会後、
第二王女殿下より婚約の完全破棄が通達されました」
「……なぜだ」
老執事は、
言い淀んだ。
「『あのように見苦しい夜会しか差配できない男が、
次代の宰相候補とは笑わせる』とのことです」
アルベルトの顔から、
血の気が引いた。
さらに。
「先ほど、
宰相閣下からも通達が」
老執事は、
静かに頭を下げる。
「……『グランシア。
君が有能だったのではない』」
「『リンドール侯爵令嬢が、
異常なほど有能だっただけだ』と」
「今後の登用は見送る、とのことです」
沈黙。
アルベルトは、
何も言えなかった。
自然に回っていると思っていた世界は――
全部。
一人の女が、
眠る時間を削り。
呼吸を擦り減らし。
壊れそうになりながら。
必死に繋ぎ止めていただけだった。
己の無能さを、
王都中へ晒されたアルベルトは。
ただ愕然と、
崩れ落ちることしか出来なかった。
*
その頃。
エリシアは、
王都から遠く離れた港町にいた。
潮風。
魚の匂い。
浜へ打ち上げられた流木。
船着場からは、
荒っぽい怒鳴り声が響いてくる。
王都の香水とシャンデリアとは、
何もかも違う世界だった。
エリシアは足を止め、
静かに空を見上げる。
カモメの群れが、
曇った空を横切っていった。
遠くでは、
帆船がゆっくり揺れている。
故郷の海に、
少しだけ似ていた。
ずっと来たかった。
けれど来られなかった。
夜会用のドレスが先だった。
領地の税が先だった。
母の薬代が先だった。
自分の望みは、
いつも最後だった。
エリシアは、
小さな食堂の扉を押し開ける。
――チロリン。
頭上で、
古びた鈴が鳴った。
温かな湯気。
煮込まれた魚の匂い。
木椅子の軋む音。
狭い店の中には、
王都にはなかった“生活の熱”が満ちていた。
「温かいスープをください」
少しして。
店の女主人が、
湯気の立つ皿を運んでくる。
「ありがとうございます」
エリシアは、
小さく微笑んだ。
恰幅のいい女主人が、
じっと彼女の顔を見た。
「あんた、
変な笑い方するねぇ」
エリシアは、
ぱちりと目を瞬かせる。
「……変、ですか?」
「港じゃ、
そんな顔してる奴、
大体ぶっ倒れるよ」
冗談めいた口調だった。
だが。
その言葉が妙に、
胸へ刺さった。
――その時だった。
「その通りだ」
低い声。
波みたいに静かな声。
エリシアは、
ゆっくり振り返る。
そこにいたのは――
濃紺の軍服を纏った男だった。
海軍提督ローラン・ヴァイス。
北方航路を束ねる男。
無愛想。
口数が少ない。
貴族嫌いで有名な、
冷徹な提督。
エリシアは、
小さく息を呑む。
胸元の高位の徽章。
鋭くなった眼差し。
かつて二十三歳の青年士官だった彼は、
今では北海そのものみたいな男になっていた。
けれど。
不器用で。
乱暴なくせに。
押し付けない優しさだけは。
五年前の冬の海と、
何も変わっていなかった。
「……ローラン様……?」
ローランは、
エリシアの手元を見る。
白絹の扇。
骨の継ぎ目。
幾重にも残る補修の痕。
短い沈黙。
それから。
「……まだ使っていたのか」
低い声だった。
責めるでもない。
驚くでもない。
ただ。
長い航海の果てに、
ようやく探していたものを見つけたみたいな声。
「六年ぶりだな、エリシア」
そして。
ローランは、
ほんの少しだけ目元を和らげた。
「……ようやく見つけた」
「え……?」
「王都を泥舟みたいに飛び出したと聞いてな」
呆れたような口調。
「この半月、
寄港した港を全部当たらせていた」
その言葉の奥には、
隠しきれない安堵が滲んでいた。
「……相変わらず、
無茶な生き方をする」
ローランは、
湯気の立つスープ皿をエリシアの前へ静かに押す。
魚の匂い。
潮の香り。
立ち上る熱。
「……飲め」
「温まるぞ」
六年前と、
まったく同じ言葉だった。
その瞬間。
凍えていた記憶が、
胸の奥で静かにほどけていく。
そして。
ローランは、
灰色の海を見るみたいな目で言った。
「もう、ここでは――
その扇で戦わなくていい」
低い声。
「俺の視界にいる間は、
ただ息だけしていろ」
ぶっきらぼうな言葉だった。
けれど。
その不器用な優しさは、
凍えきっていたエリシアの胸へ、
驚くほど静かに染み込んでいった。
*
その翌月。
“塩害特例税制”は正式に廃止された。
中央派閥は、
混乱の責任を地方へ押しつける。
「赤字領地への過剰優遇だった」
「王国財政正常化のため」
「時代に合わない旧制度の整理」
王都では、
そんな言葉ばかりが並んだ。
けれど。
実際に切り捨てられた沿岸領地では、
冬を越せない者たちが続出した。
当然。
リンドール侯爵家も例外ではない。
税を支払えず、
領地は没収。
屋敷も差し押さえられた。
エリシアの父は、
最後まで頭を下げ続け。
母は咳を抑えながら、
小さく笑った。
「……暖かい土地で、
一度くらい暮らしてみたかったわねぇ」
昔から、
何度も聞いた言葉だった。
北の海風は冷たい。
冬になれば、
母の咳はいつも酷くなる。
だからエリシアは、
ずっと必死だった。
この家を守らなければ、と。
だが結局。
沿岸地区は、とっくに限界だったのだ。
エリシアは、
もう、何も出来なかった。
何ひとつ――
止められなかった。
そして王都は――
最後まで、
何も守ってはくれなかった。
*
時を同じくして。
アルベルトは、
港町へ来ていた。
仕立ての良い外套。
磨き抜かれた靴。
乱れ一つない髪。
王都にいた頃と変わらない、
完璧な貴族の姿。
――のはずだった。
けれど。
何かが、
決定的に壊れていた。
視線が落ち着かない。
船乗りたちの怒鳴り声に肩を震わせ、
酒場の笑い声にすらびくりと反応する。
もう彼は、
“空気”を読めなくなっていた。
その時だった。
港通りの先。
古びた宿屋の二階テラスに、
白い人影が見えた。
海風に揺れる長い髪。
細い肩。
手すりへ凭れ、
静かに海を見つめる横顔。
――エリシア。
アルベルトの呼吸が止まる。
足が勝手に前へ出た。
石畳を踏み外しかけ、
壁へ手をつく。
肩で息をしながら、
階段を駆け上がる。
「エリシア……!」
海へ突き出したテラス。
その柱は海中まで深く沈み込み、
潮の流れを受け止めるように立っている。
足元では、
行き場を失った白い波が、
吹き溜まりみたいに静かに揺れていた。
ちゃぷ……。
小さな波音だけが、
古びた木柱へ触れては消える。
白い帆船。
遠くを飛ぶカモメ。
その穏やかな景色の中で。
アルベルトは、
縋るみたいな声を投げた。
「戻ってくれ」
エリシアは振り返らない。
海風が、
長い髪を揺らす。
「第二王女との縁談は白紙になった!」
「社交界の調整に失敗した僕を、
宰相閣下も見限ったんだ……!」
血走った目で叫ぶ。
「君がいないと……
王都のすべてが、
僕のすべてが――
何も回らないんだ!」
その声に。
エリシアは、
ほんの少しだけ目を細めた。
「アルベルト様」
静かな声だった。
視線は、
海へ向けたまま。
「そこまで声を荒らげては、
この港の空気が悪くなりますわ」
その瞬間。
アルベルトの息が止まる。
かつて。
自分が何度も彼女へ言っていた言葉。
空気を乱すな。
場を壊すな。
感情を見せるな。
その全部が、
静かに返ってきた。
「僕は……」
アルベルトの喉が震える。
「そんなつもりじゃ……」
*
その時だった。
――コト。
小さな音がした。
湯気の立つ茶器が、
エリシアの隣へ静かに置かれる。
ローランだった。
無愛想な海軍提督は、
アルベルトを一瞥する。
灰青色の瞳。
「……なるほど」
ただ、
それだけ言った。
そして。
エリシアの紅茶が冷えていることに気づくと、
何も言わず新しい茶を淹れ直した。
それを見て。
アルベルトは、
言葉を失った。
昔の自分なら、
絶対に気づかなかったことだった。
手すりの上には、
白絹の扇。
閉じられたまま。
「エリシア……頼む。
もう一度だけ――」
そこで初めて。
エリシアは、
ゆっくり振り返った。
その瞳は、
凪いだ海みたいに静かだった。
かつて彼へ向けていた感情は、
もう何一つ残っていない。
「……失礼ですが」
海風が、
白いワンピースの裾を揺らす。
「何かおっしゃいましたか?」
アルベルトは息を呑む。
エリシアは、
小さく目を伏せた。
「心地よい海風の音で――」
静かな声。
「私の耳には、
何も聞こえませんでしたので」
潮風が吹き抜ける。
遠くで、
一羽のカモメが鳴いた。
*
ローランが、
静かに階段へ向かって歩き出す。
エリシアは、
その背を追うように歩き出した。
そして。
テラスの縁へ置かれていた扇へ、
そっと指先を伸ばす。
白絹に、
銀糸の月桂樹。
何度も修理された扇。
エリシアは、
静かにそれを海へ落とした。
ひらり。
扇は風へ攫われるように舞い、
深蒼色の海へ落ちていく。
――ちゃぷん。
小さな音。
波紋が、
ゆっくり広がった。
(もし、この扇がまた壊れても――)
エリシアは、
細く目を細める。
(あの人はきっと、
また不器用な手で直してくれるのでしょうね)
あの冬の日みたいに。
――けれど。
「もう――
修理はいりません」
静かな声だった。
それは、
誰かへ向けた言葉ではない。
長いあいだ。
自分へ掛け続けていた呪いを、
そっと解いていくみたいな声だった。
空気を壊さないように。
誰かに嫌われないように。
笑って。
耐えて。
息を殺して生きてきた、
自分自身への呪い。
エリシアの姿が、
階段の奥へ消えた後も。
白絹の扇だけが、
波間で静かに揺れている。
「エリシア……」
アルベルトだけが、
その場へ取り残された。
もう。
彼の言葉は。
彼女の世界には、
届かなかった。
【了】
✦✦✦ 【エピローグ】✦✦✦
――半年後。
社交界の調整役としての信用を失い、
爵位剥奪寸前まで没落したアルベルトの噂が、
王都から消え失せたころ。
エリシアは、
王国西部、主なき古城にいた。
高い丘。
吹き抜けるのは、
母がずっと願っていた温かな潮風。
ローランの縁で譲り受けたこの地には、
手入れの途絶えた葡萄畑が広がっている。
崩れかけた石壁、伸び放題の蔓。
かつて誰かが愛し、
守ろうとしていた時間だけが、
静かに残されていた。
けれど。
大地は豊かで。
海風だけは、
どこまでも穏やかだった。
「エリシア、行くぞ」
背後から、低い声がした。
濃紺の外套を揺らしたローランが、
相変わらず無愛想な顔で立っている。
「……そろそろ、
君の両親が港に着くころだ」
その言葉に。
エリシアの瞳が、
小さく揺れた。
遠く。
夕暮れの港へ、
一隻の船がゆっくり滑り込んでくる。
もう、ここにはない。
ぱちり、と鳴る扇の音も。
張り付いた笑顔も。
誰かの機嫌を読み続けるためだけの、
息苦しい社交界も。
あるのはただ――
母がずっと願っていた、
穏やかで温かな海風。
葡萄の苗を育てる、
豊かな土。
そして。
ようやく辿り着いた、
静かな居場所だけだった。
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※表紙イメージ画像はAIを使用して制作しています。
登場人物や世界観のイメージとして作成したものです。
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