30 ネルソンは思いめぐらす
狼が出たのは、偶然だ。それは否定できない。
あの狼は狩猟の時の狼ではない。
あの狼はとっくに遠くの森に帰ったことだろう。
だから、今回の狼は近くの森の狼だ。
王都の警備が緩み、森が近く、運が悪かった。
それだけのことだ。
わたしはそう判断している。
だが、メアリーの死は、偶然ではない。
あの日、ガルシアとメアリーがあの広場にいたのは確かだ。
騎士団の報告は簡単だった。
狼が出たと通報があり駆け付けた。
広場は混乱していたが、人々は指示にしたがって逃げた。
混乱のなかで逃げ遅れた者が死んだ。
それだけだ。
そしてメアリーは、逃げようとして噛まれたのではなく、狼に向かって行って噛まれている。
つまり、後ろから襲われたのではなく、正面から襲われているのだ。
何故だ?狼に向かっていくなどありえない。
ガルシアと会えなかったのだろうか?
広場を思い浮かべる。メアリーが一人だったら、すぐに逃げ出して無事だっただろう。
偶然、狼が出た。
偶然、あの場所だった。
だが、偶然の中でどう動くかは、人の本質だ。
一人ならメアリーはなりふり構わず逃げるはずだ。誰かを庇うこともしない。
しかし、ガルシアと一緒だったらどうする?
夜の小部屋で、わたしはガルシアと向かい合う。
灯りは低く、酒はちゃんと用意してある。
「久しぶりですな、ネルソン様」
軽い。いつも通りの調子だ。
「広場の件は災難でしたね」とわたしは言う。
「まったく。狼とは恐ろしい。わたしがあの場にいたらと思うと震えてしまいます」
ガルシアが恐ろしそうに言う。
「メアリーは気の毒でした」
その名を出した瞬間、わずかに視線が揺れた。
一瞬だが、見逃さない。
「犠牲になられたのですか?」
「そのようです。それが傷の場所がおかしいのですよ」
わたしは淡々と続ける。
「おかしい?」
ガルシアが不思議そうに聞く。
「はい、狼に向かっていったような傷なのです」
「向かって行った?」
「はい、ずっと目撃者を探しています。子供の頃から公爵家で働いていた子ですので」
「なるほど。お優しいのですね」
わたしは静かに目を細める。
「あなたがあの場にいた」
空気が冷える。
「いいえ、行っておりませんよ」
「そうですか?」
「あの日メアリーはあなたと広場で会うと報告して来てます」
「ほーデートを報告するんですな」
「報告は当たり前です。あなたを監視させておりましたので」
「怖いですな」
「普通の事です。いろんな貴族が配下をここに置いています」
「わたしは恐ろしいと感じます」
「あの広場に監視を置いてました」
ガルシアが息を飲む音がした。
「あなたは、生きるために彼女を前に出した」
ガルシアの顔から色が消えた。
否定はしない。できない。
「潔癖な王子たちはどう思うでしょうね」
わたしは低く言う。
「母を慕い、狼に剣を向ける王子たちが、女を盾にして逃げた男を」
ガルシアの指先が震える。
「事故だ」
「ええ、事故です」
わたしはうなずく。
「狼は事故」
「だがあなたの選択は事故ではない」
沈黙が重い。
わたしは椅子に深く座る。
「あなたは今、王子たちに囲まれている。誇らしいでしょう」
ガルシアは何も言わない。
「彼らは清い。そして清い者ほど、卑怯者を嫌う」
ガルシアはなにも言わない。
「だが、汚れが露見したら」
わたしは指で机を叩く。
「切られる」
はっきり言った。
ガルシアの瞳に恐怖が浮かぶ。
「わたしは違う」
わたしは静かに続ける。
「わたしは既に汚れているし、これからも手を汚す」
ガルシアはわたしを見つめる。
「だからあなたを否定しない。女を盾にする判断も、見事だと褒めはすれ、非難などしない。生存本能だと理解する。それを咎めない」
ガルシアがゆっくりとこちらを見る。目に光が戻って来た。
「……それで?」
「手を組みましょう」
ガルシアの目がわたしをじっと見る。
「わたしは王位を諦めていない。正義で勝つ気もない。生き残る側に立つ」
「なんと」
「あなたは王子の近くにいる。情報を知っている。いや、それ以上だ。彼らはあなたに従う」
ガルシアは目を閉じた。
「裏切れと」
「違う。選択です」
わたしははっきり言う。
「潔癖な刃に切られるか。汚れた手に守られるか。わたしはあなたを守れる。あなたの弱みを握っているのは、わたしだけにしたほうがいい」
静かな圧。狼は偶然だ。
だが、偶然の場でどう振る舞ったかは消えない。
「……メアリーのことは」
とガルシアが呟いた。
「事故だ」とわたしが言い切った。
わたしはもう一度言った。
「事故だ」
内心訂正する。生贄だ。この男を手にするために必要な生贄だった。
「決心してくれました?」
長い沈黙のあと、ガルシアは酒をあおった。
「……わかった」
小さく、だが確かに。
わたしは静かに杯を上げた。
「未来のために」
ガルシアも杯を持つ。
「未来のために」
あの広場で一人の女が死んだことで、わたしたちは手を結んだ。
王宮の網は張られている。
だが網は一方向にしか閉じないとは限らない。
生き残るのは、清い者ではない。
選べる者だ。
わたしは静かに笑った。
一匹の猫が静かに庭を横切って行った。
月光が猫の目に反射した。
猫は一瞬わたしを見たが、優雅に身をくねらせて去って行った。
いつも読んでいただきありがとうございます!
誤字、脱字を教えていただくのもありがとうございます。
とても助かっております。
楽しんでいただけましたら、ブックマーク・★★★★★をよろしくお願いします。
それからもう一つ、ページの下部にあります、「ポイントを入れて作者を応援しよう」より、ポイントを入れていただけると嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




