冬の辞令と帰郷
夜が明けた。
黒煙が立ち上る海の彼方から、救援の艦艇が現れる。
「金剛」「古鷹」「比叡」──いずれも、訓練に参加していた第一艦隊、第二艦隊の主力艦だった。
艦載機も空を飛び、沈没した蕨の乗員の捜索にあたっていたが、望みは薄い。
海は静まり返っていた。静かすぎた。
艦橋の上で、頼中尉は全身を塩にまみれた制服のまま、曳航索を確認していた。
「曳航、よし──金剛、速力五ノット」
通信士の声に、曳索がきしむ音が重なる。
神通は、もはや自力航行は不可能だった。
艦首は根元から抉れ、前甲板はむき出しの鋼鉄と骨組みだけ。
沈まなかったことが奇跡だった。
頼が見上げる空は、ただ白く広がっていた。
昨日までの青とは別物だ。
「那珂」「葦」も損傷し、別々の艦に曳かれて舞鶴を目指していた。
救援の艦艇が随行するなか、頼は艦の揺れにあわせて踏ん張りながら、あの古い写真のことを思い返していた。
──艦の見た目が、違う。
──あの写真、見たのは……学生時代だったか、祖父の仏壇に飾られていたそれは……もっと新しい時代の、流麗な曲線を持った船だった。
(ダブルカーブドバウ……そんな言葉が、頭のどこかにこびりついている)
しかし、いま頼が立つ神通の艦首──いや、もはや残ってはいないが──は、丸みのある旧式の形状だった。
(スプーンバウだ。古くて、波に弱い……なぜ、あの写真の艦と違う?)
「……つまり、この事故の代償で、あの流線型の艦首に変わったんだ」
頼は、ようやく混乱の原因を言語化できた。
ぼんやりとしか思い出せなかった、現代で見た知識の断片。
それが、この惨劇によって「運命の外側から来た」という動かしがたい証拠となって現れた。
自分は、この船の、この事故の運命を“知っていた”。
かすかに、朧気に、回避できたはずの最悪の結末を、知っていた。
「……知っていたのに、この手が届かなかった……!」
甲板に膝をついた。
顔を上げると、舞鶴の陸地が、ようやく霞の中に見え始めていた。
数日後、加藤寛治連合艦隊司令長官は、報道陣を前にして語った。
「今回の事件に多数の部下と艦とを損傷したことは、長官としても恐懼の至りである。
しかしながら──最善を尽くして訓練を行った。これが、真剣な訓練の結果である。
戦術とは、命懸けで身につけるものだ」
世論の批判は激しかった。
だが一方で、演習の困難さと、殉職者たちの“死の意味”を理解しようとする声も、少なからずあった。
舞鶴海軍工作部では、まず「那珂」の修理が開始された。
次いで神通。艦首は大破していたため、姉妹艦に倣ってダブルカーブドバウが採用される。
改修の設計図を見て、頼中尉はあの写真と重ねるようにして頷いた。
──ようやく、記憶が現実と繋がった。
だが、あまりにも多くの命が、それを代償にした。
八月末。
殉職者の合同葬儀が舞鶴で営まれた。
棺の並ぶ斎場に、遺影のない者も多かった。
海に還った彼らの名は、白木の位牌に刻まれ、線香の煙とともに風に溶けていった。
頼は、その場で直立不動のまま黙祷を捧げた。
自分は、何のためにここに来たのか。
たしかに“変えなければならない”と思ったはずだ。
だが──この手に掴めたものは、ただの血と、破片と、叫び声だった。
未来なんてものは口にすべきじゃない。
それよりも──今を、目の前の仲間を、救えるかどうか。
頼は、拳を強く握り締めた。
何も守れなかった事実を忘れないために。
1927年、冬。
舞鶴海軍工作部のドックで、神通は新たな艦首を与えられていた。
鋼板が重ねられ、リベットが打たれ、骨のような艦の前躯が慎重に形を成してゆく。
スプーンバウではなく、姉妹艦・那珂に準じたダブルカーブドバウ。
より凌波性に優れた新しい艤装は、神通に新たな生命を吹き込もうとしていた。
艦の名を継ぐということは、ただその名を名乗るだけではない。
何を守り、何を背負い、どんな航跡を残すか──それが“艦の魂”を形作るのだ。
神通は変わった。だが、頼中尉はまだ変われていなかった。
それから数日が過ぎ、頼がドックの岸壁で、修理を見つめていると、後ろから山崎の声が聞こえてきた。
「頼」
頼は、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、足を引きずりながらも、どこか切実な眼差しを向ける山崎少尉の姿だった。
「山崎。お前、あの大怪我だったんだ。まだ完治はしていないのだろう。こんな冷える日に、岸壁を歩いていて大丈夫なのか?」
「ああ、もう心配ない。歩くことくらいは軍医の許可が下りた。だが、どうしても『神通』の顔を見に来たかったんだ。」
山崎は、煙草をくわえたままドックの上で言った。
「あの日から、口数が減ったな」
頼は返事をしなかった。
黙ったまま、鋼板の張られた艦首を見上げていた。
「頼、事故の夜、泣いてたろう」
「……泣いてない」
「嘘だ。俺は見てた」
無言のまま、風が二人の間を吹き抜けた。
「昔の写真のこと……思い出してたんだよな」
山崎の言葉に、頼は視線を落とした。
「事故の後、気づいた。艦首が違ったんだ。俺が……いや、曽祖父が見たあの写真と」
「やっぱり、頼、お前……何者なんだ?」
山崎の声音に、探るような色が混じっていた。
けれど頼は、その問いに答えなかった。ただ一言、静かに呟いた。
「もう、二度と……見過ごさない」
そして、その冬の終わり、頼に海軍から一本の辞令が下った。
――特進、海軍大尉。
あの美保関の夜における、負傷兵の迅速な救助と応急処置の指揮が評価されての特進だった。僅か一年足らずで、士官として異例の昇進だった。
頼は、肩に輝くべき金線の本数が増えた新しい制服を、冷めた目で見つめた。
「昇進、か」
その重みは、彼の胸を何も満たさなかった。この功績は、一〇〇名を超える水兵の犠牲の上に成り立っている。己の迅速な行動は、何人かを救ったかもしれないが、あの夜に失われた命は、この階級と引き換えに蘇るわけではない。
(俺は、歴史を変えるどころか、運命の外側から来たという証拠を手に入れただけだ)
だが、辞令にはもう一つ、追記されていた。
――次の赴任地への着任まで、数週間の『特別休暇』が与えられる。
なお、休暇明けの着任地については、追って電信で通知する、という曖昧な辞令だった。
そして、その日の夕刻、頼は一つの電信を受け取った。
神通艦長、水城圭次大佐が、軍法会議を目前に自決したという報せだった。
(水城艦長――)
中尉と大佐という身分の隔たりは大きかったが、神通配属時にかけられた、厳しくも士官としての在り方を諭す言葉を、頼は今も忘れていなかった。その言葉は、頼の胸にも、深く染み込んでいる。
その死は、事故の責任を一身に負うという、この時代の、海軍の、最も重い取り方だった。
特進の金線が増えたばかりの自分の肩が、ひどく重く、そして汚れているように感じた。
(この昇進は、何だ。艦長の、そして彼らの死を前に、俺が得たのは、ただの免罪符か……?)
だが、それは実家へ帰るようにという、上官の温情だった。
しかし、その温情すら、今の頼にとっては、無力な自分から目を逸らすための、甘く重い鎖のように感じられた。
故郷、名古屋。幼少期の記憶が微かに残るその地で、頼は、一時的に軍人としての重圧から解放されることになる。
(休暇……)
それは、彼にとって、軍艦よりも重い現実と向き合う時間だった。故郷の景色や、待つ人の顔が、失われた命の重さを否応なく思い出させるだろう
頼は静かに、冬の舞鶴を背に、名古屋行きの列車に乗り込んだ。
「もう、二度と……見過ごさない」




