美保関事件
夜の海は、音もなく、ただ黒く広がっていた。
空には月も星もなく、水平線と夜空の境界さえ曖昧な、ほとんど闇だけの世界だった。
漆黒の海面に、時折、微かに波の白が滲む。
だが、それもすぐに闇に飲み込まれる。
「無灯火、よし──」
神通艦橋にて、短く命じられた声が冷たい潮騒に溶けていく。
艦橋の中には、羅針盤と、海図を照らす僅かな灯りがあるだけ。
その光も、頼中尉の顔色を青白く映し出していた。
連合艦隊、基本演習第八号。
第五戦隊と第二水雷戦隊による、夜間無灯火状態での高速接敵・雷撃訓練。
“乙軍”としての行動を開始した艦隊は、総勢二十隻以上。
「吾妻中尉、航跡、微妙に逸れてませんか」
隣で、海図を覗き込んでいた航海科の下士官が小声で囁いた。
「……風向きと潮流は予定通りだが……」
頼は答えながらも、胸の奥に、ずっと消えない違和感を抱えていた。
しかしそれが何なのか、頼にはそれ以上はわからなかった。
「なんなんだ、、、」
小さく呟く。しかしそんな拭いきれない違和感などお構いなしに、訓練は進行していく。
霧が立ちこめてくる。
視界はわずか数百メートル。艦隊は20ノット以上の高速で進む。
神通の艦橋には、微かに重巡「加古」からの機関音が届いていた。
訓練は予定通りに進んでいる。誰もがそう信じていた。
「敵艦発見──照射されました!」
突然、前方の海面が強烈な探照燈に照らされた。
夜の帳が引き裂かれ、光の帯が海を切り裂く。
由良、龍田、鬼怒、阿武隈──甲軍に見立てた軽巡群が、暗闇を割って浮かび上がる。
神通は直ちに右へ転舵、那珂も続く。
──この判断が、運命の分岐だった。
頼は、血の気が引くのを感じた。
「前方、駆逐隊と接近しすぎている……このままでは──」
刹那、頭の中に、艦艇の立体的な配置と速度線が鮮明に展開された。それは、何かに突き動かされるような、抗いがたい予感の具現化だった。
光を避け、加速した神通と那珂が突っ込む先には、第二十七駆逐隊、二十六駆逐隊が、それぞれ縦陣で航行している。
速度は28ノット。秒速14メートル。
その速度で、視界不良の海で、すれ違うように進んでいる。
その先には、何もないはずだった。
いや、何か、ある。
頼は、叫びかけた。
「待ってくれ! 止まるんだ、これは……!」
だが、誰も聞かない。
艦隊の速度はすでに秒速27メートル、追突は秒単位の問題だった。
彼の声は、艦橋の騒音に、そして海風に、かき消された。
次の瞬間、地鳴りのような衝撃音が神通を貫いた。
「左舷、衝突──!」
甲板が傾き、艦橋がきしむ。
火柱。爆音。圧倒的な衝撃。
暗闇の中から“蕨”の艦影が浮かび、そして砕けて、裂けて、爆ぜた。
まるで、巨大な鉄の塊が、脆いガラスを叩き割ったかのようだった。
「蕨、爆沈!」
艦橋から見えたのは、破断された艦が真っ二つになり、火花をまき散らしながら沈んでいく姿だった。
神通の艦首は抉られ、1番砲塔の直下まで損傷。
甲板には黒煙と火が噴き上がっていた。
「山崎! 山崎少尉はどこだ!」
頼は叫びながら艦内を走った。
山崎少尉は、火災の発生した第2砲塔付近にいたはずだった。
甲板が崩れ、蒸気が噴き出す中、崩れ落ちた鉄骨の隙間で、彼を見つけた。
「頼……生きてるか……」
返事は弱々しいものだった。
「無理に喋るな、今引き上げる」
頼は彼を背負い、燃え上がる艦内を駆けた。
その直後、また別の衝突音が響く──
「那珂が……葦と……」
誰かが呟いた声が、吹き飛ぶ風音に消えた。
海は、真っ黒なままだった。
だが、その水面に、沈みゆく蕨の赤い残光が、滲むように広がっていた。
海面には、火が浮いていた。
波間に漂う油が燃え、橙の焔が不規則に揺れていた。
艦橋は傾き、床に打ちつけられた血と破片が、漂う焦げ臭さと共に空気を満たしていた。
艦橋の壁には、折れた羅針儀がむき出しになり、ガラスは粉々に砕け散っている。
「応急班! 第1甲板に急げ!」
「水密扉、閉鎖急げ! 水線下、浸水確認!」
「神通、損傷大──艦首喪失! ボイラー室に被害!」
怒号と金属音が入り混じる中、頼中尉は山崎を担いで、必死に崩れかけた隔壁をくぐった。
山崎の意識はかろうじてある。だが、左脚は変形し、皮膚は焼けただれていた。
「しっかりしろ、山崎……頼む、死ぬな」
頼中尉は何度も呼びかけながら、応急処置所へ彼を運び込む。
その間も、彼の声は途切れなかった。「機関、全速停止! 浸水区画を封鎖せよ! 負傷兵は甲板へ集めろ!」――混乱を圧する、的確で連続的な指示が、艦橋の騒音の中に響き渡った。
そこで、彼は“それ”を見た。
──蕨の乗員。
担架に載せられてきた遺体のいくつかは、もはや人の形を留めていなかった。
爆風による肉体の裂傷。
蒸気で剥離した皮膚。
そして、甲板に残された数十名の名前のない“白布”。
「……蕨、全滅に近い。五十嵐艦長も……」
機関科士官がうつむいたまま報告してきた。
その横で、葦の通信が届く。
「こちら葦──那珂と衝突。艦尾、喪失。27名、殉職……」
頼は、思わずその場に立ち尽くした。
全身から血の気が引いていく。
合計──119名の死者。
この数が現実のものなのかと、頭が追いつかない。
ふと顔を上げると、火を反射した海が目に入った。
その色は、あの写真──記憶の中の“事故後の神通”とは違っていた。
「……今、自分は、歴史の中にいる」
頼中尉は静かにそう思った。
見慣れていたはずの艦は、いまや断たれ、変わり果てた姿になっていた。
そしてこの大惨事も、かつての教本では「美保関事件」として、わずか数ページで語られていたはずのものだった。
彼の掌には、山崎の血がまだ残っている。
拭っても、消えない。




