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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦


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4/10

めまい、そして

翌朝。


少し遅めに起きて、今日は久しぶりのソロキャンプ。


何もない毎日の唯一の楽しみ、ソロキャンプだ。


コンビニでの買い出しは最低限で済ませる。


一通りキャンプ道具を収納ボックスに詰めてある軽バンの荷室を確認し、シュラフ、マット、ソロ用のバンドックソロドーム1、そして何よりスベア123R。


ホワイトガソリンがボトルに入っているのも確認した。


あとは米と水を用意するだけだ。


準備を終え、軽バンを走らせて目的地の途中にある道の駅を目指す。


豊橋から目的のキャンプ場へ向かう道中、この道の駅は、地元特産品が充実していることで知られていた。


父がキャンプ好きで、子供の頃は家族でよくキャンプに行った。


名古屋の実家を離れてからは、そんな機会もめっきりなくなり、何年もキャンプとは縁遠い生活を送っていた。


しかし、ここ数年のソロキャンプブームをYouTubeで目にするうちに、自分でもやってみようかと思い立ち、少しずつ道具を揃え始めた。

そして気づけば、すっかりソロキャンプにハマっていた。


誰とも話さなくてよい。


煩わしい人間関係も、上司の顔色を窺う必要もない。


ただ、自分だけの時間を、自分だけのペースで過ごせる。それが、今の俺にとって何よりの救いだった。


道の駅の精肉コーナーで、地元のブランド牛のステーキ肉が目に留まる。


普段なら絶対に手を出さないような、分厚く霜降りの入った肉だ。


値段もそこそこする。

しかし、今日は特別だ。

自分への、ささやかなご褒美。

迷わずカゴに入れた。


いつもの発泡酒ではなく、本物のビールももちろん買った。


目的地は、前に一度行った無料キャンプ場。


設営して、スマホでYouTubeの撮影も忘れない。

焚き火の準備を始める。


そして、大事な相棒を取り出した。


丁寧に布に包まれた、使い込まれた真鍮製のスウェーデン製ガソリンストーブ、スベア123Rだ。


これは、まだ小さかった頃、キャンプ好きの父が「お前にもいつか、これくらい使いこなせる日が来るさ」と言ってくれた、大切なストーブだ。


コンパクトだがずっしりとした真鍮の本体は、使い込まれて鈍い輝きを放っている。ゴトクも燻んではいるが、かえってそれが頼もしい。


ホワイトガソリンの匂いが、父との思い出を呼び起こす。


――父からスベアを受け取ったのは、大学を卒業して初めて正月休みに実家に帰省した時だった。


「最近、ソロキャンプしてるんだ。」


何気なくそう話した俺の言葉に、父は静かに耳を傾けていた。


すると、父はおもむろに立ち上がり、「ちょっと待ってろ」と言い残し、書斎の奥へ消えていった。


数分後、使い込まれた真鍮製のストーブを手に戻ってきた。それが、このスベア123Rだった。


「お前が小さい頃から、ずっと欲しがってたやつだ。大事に使えよ。」


幼い頃、父のキャンプ道具の中でもひときわ輝いて見えた、あの独特のフォルムのストーブ。


いつか自分も、あれを使いこなしてみたいと、密かに憧れていた。


まさか、大人になって、本当に自分のものになるとは。あの時の胸の高鳴りを、今でも鮮明に覚えている。


燃料用アルコールを小さなくぼみに流し込み、マッチで火をつける。


チロチロと微かな音を立て、青い炎がゆらゆらと揺れながら、真鍮製の本体をゆっくりと温めていく。

この真鍮製のスベアを温めるための、プレヒートと呼ばれる儀式のようなものだ。


ガスバーナーのように手軽ではない。


手間も時間もかかる。


だが、俺はこの「儀式」が好きだった。


いかにも道具を扱っていると感じられるからだ。


やがてアルコールが燃え尽きる頃合いを見計らって、本体の横にあるツマミに操作キーを差し込み、ゆっくりとひねる。


すると、バーナーに着火して勢い良く音をたてて炎が噴き出す。ヘリコプターのプロペラ音にも似た独特なサウンド、所謂スベアサウンドだ。


この音を聞くと、ああ、キャンプしてるなぁ、と強く感じる。堪らない瞬間だ。


同時に、このストーブを操る父の背中も思い出す。


ようやく準備完了だ。


夜は静かだった。


夏の夜風がテントの中を吹き抜ける。

パチパチと薪が爆ぜる音が、遠くの川音と虫の声に重なる。


揺らめく焚き火の炎を見つめながら、父からスベアを受け取った日のことを思い出す。


本体が冷めたのを確認し、頼はスベアを手のひらに乗せる。


その真鍮の鈍い重さが、父の掌の温もりを伝えるようだ。

 

だが、父は俺が、人並みに会社勤めを続け、やがて結婚し、子供たちと笑い合う「未来」を望んでいたのだろう。


だが、今の俺はここ、誰のルールも存在しない、俺だけの王国にいる。


この静かな解放感こそが、すべての不安の対価だった。


頼は熱いコーヒーを一口飲み、「そんなことは気にするな。


お前はお前の生き方をしろ」と励ましてくれているように聞こえた。


その音を聞いた時、頼は初めて、孤独であることの「重さ」ではなく、「強さ」を感じた。


焚き火で熱した鉄板に厚切りのステーキ肉を乗せると、ジュウ、と心地よい音がした。


肉を焼く香ばしい匂いが漂う。


一口。


とろけるような肉の旨みが口いっぱいに広がる。


至福の瞬間だ。


スベア123Rで淹れた熱いコーヒーを飲み、いつも飲む発泡酒とは全く違う、冷えた本物のビールの喉越しが、その幸福感をさらに引き立てる。


これこそが、俺がこのために稼いでいる、唯一の贅沢だった。


誰にも邪魔されず、ただひたすら、この味と音と匂いを独り占めする。


この時だけは、不安も、孤独も、閉塞感も、すべてが遠くへ霞んでいくようだった。


翌朝。


テントをたたんで、ゴミをまとめて、帰路につく。


帰宅して、玄関のポストの蓋を開ける。


重みのあるダイレクトメールと、薄い封書が数枚。


その中に、見慣れた差出人のものが混じっていた。


国民年金、国民健康保険、市役所。

どれも同じような内容だ。


開かずとも、中身はわかる。未払い、催促、支払い期日。


読みたくもない文字が並んでいるに違いない。

ため息が、知らず知らずのうちに漏れた。


この手の郵便物を見るたび、会社員時代の「安泰」がいかに脆く、そして遠いものだったかを突きつけられる。


人との摩擦は減った。

荷物を届けて終わり。

しがらみもない。


だが、その半面、得られるはずのやりがいや喜びといったものは、どこにも見当たらなかった。


ただ、静かに、ひたすら、今日をやり過ごすだけの日々。


そのな思いを抱えながら、シャワーを浴び、一息つく。


「さあ、昼前からフーデリに出よう」


そう思って玄関のドアに手をかけたその瞬間、

耳の奥で、遠い、甲高い金属音が響いた。


キーン、という耳鳴りではない。まるで、巨大な鉄の塊が軋むような、遠い船底の音――。


「気のせいか?」 そう思った次の瞬間、クラッとした。


目の前が、急に暗くなった。

あれ?

立ちくらみ?


頼は、無意識にポケットに手を突っ込み、アパートの鍵を強く握りしめた。


自分の唯一の居場所。この孤独な世界の、ただ一つの出口であり入口である、その鍵を。


意識が…――落ちる……。


(第1章 完)


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