錨(アンカー)
遠く名古屋では、燈が電報を受け取って以来、日々が鉛のように重く、そして早く過ぎていった。
電報に記された無機質な文字
「ミカワワン シガツヨウカ ジユウゴジ カマゴオリエキ ニテ」
この短い電文は、一見すると事務的だが、燈には頼の「この時間に全てを賭ける」という切実な覚悟が、痛いほど伝わってきた。
そうして頼が、この猶予を勝ち取ったのだと。
燈は、恵子に、
「お母さん、頼さんと会うために、蒲郡に行ってきます」
そう一言だけ告げた。
いつもは明るく茶化す恵子だが、
「わかったわ、気をつけて行って来なさい」
とだけ言った。
全てを察したようだった。
「はい。行ってきます」
たったこれだけの母娘の会話だったが、彼女はただ、頼の負担を少しでも減らすために、万全の準備を整え、その時を待った。
約束の日、4月8日
昼過ぎ、「神通」は、ほぼ予定通りに三河湾内の定められた錨地へ入港し、錨を降ろした。
艦橋から発せられた厳格な号令と同時に、轟音を立てて錨鎖が投下され、その重い金属音が静かな湾内に響き渡った。
鎖は勢いよく海中に吸い込まれ、艦体を定められた位置に力強く拘束した。
頼は、身なりを整え、厳格な軍服を纏い、艦長の最終指示を受けた。
彼は、内火艇に乗り込み、岸壁へと向かう。
岸壁には、ハイヤーが既に待機していた。これも艦長の配慮である。
「蒲郡駅までお願いします」
車外で恭しく待機していた運転手が、ドアを開けようとするのを頼は目線で制した。
頼は扉を自ら開け、乗り込み間もなく、運転手に一言だけ告げた。
時計の針は14時45分を指している。一分一秒が、軍の指令のように重く、容赦なく刻まれていく。
頼は、車窓に飛び込んでくる見慣れない街並みには目もくれず、ただ時計の針を見つめ続けた。
ハイヤーが街路へ出ると、未舗装の路面に砂利が弾け、車体が時折大きく跳ねた。
人力車や自転車が行き交う大きな辻では、警察官が手旗や手信号で交通整理をしている。
もし予期せぬ交通の遅れがあったら、全てが破綻してしまう。
だが運転手は、軍服姿の頼の緊迫を察し、熟知した道を巧なハンドル捌きで駆けて行く。
街路を急ぎ、蒲郡駅へと滑り込む。
頼は、停車するや否や、後部座席から運転手に声をかけた。
「知り合いを連れてきます。次は竹島まで行きたい。すぐに戻ります。」
運転手は、ミラー越しに表情も変えず、すぐに頷いた。
その確認を待たず、頼は素早く車を降りた。
15時。
定刻通り。
混雑しているわけではないが、旅人と地元の人々が行き交う改札前。
頼は固唾を飲んだ。
本当に燈は来てくれているだろうか。
頼は苛烈を極めたどんな軍事教練よりも緊張した。
しかし、それは杞憂だった。
燈の姿はすぐに頼の目に飛び込んできた。
彼女は、少し緊張した面持ちで、しかし一点の迷いもない瞳で、頼が来るであろう広場の一点を見つめていた。
控えめな青の和装に、彼のマフラーと同じ色の、薄いショールを肩にかけている。
髪には、あの約束の青い髪留めが控えめに光っていた。
頼は、一瞬、艦の使命、欠陥のデータ、海軍の行末、全ての重圧を忘れた。
「燈!」
頼が名を呼ぶと、燈は一瞬息を呑み、そしてその顔に、待ち焦がれた安堵と歓喜が広がる。
「頼さん!」
「待たせてしまってすまない」
頼は、再会の喜びを噛みしめる間もない。
燈は、頷いた。
彼の制約を全て理解している。
「すぐに行きたい場所がある」
燈は質問せず、ただ頷いた。
ハイヤーは蒲郡駅を離れ、海沿いを走る。
車内には、再会を果たしたばかりの安堵と、これから交わされる誓約への静かな緊張が混じり合っていた。
頼は燈の手をそっと握り、その細い指に込められた決意を感じ取った。
頼が向かった先は、三河湾に浮かぶ竹島だった。
ハイヤーは、竹島に最も近い小さな岸壁に滑り込んだ。
そこには、地元の人間を乗せる渡し舟が一艘、客待ちで静かに待機していた。
二人は急ぎ足で舟に乗り込んだ。
水面を滑る小さな舟は、現世の喧騒から隔絶された、神域へと続く参道を行くかのように見えた。
頼と燈の二人の運命を乗せ、竹島へと静かに進んでいく。
舟を降りた二人は、八百富神社へと向かう石段を登る。
周囲は神聖な空気に包まれており、島の全域が神域であることを示していた。
本殿前。
縁結び、安産、そして開運の神様を祀るこの場所で、頼は立ち止まった。
彼は、纏っていた軍服の硬さを、今日だけは自らの鎧として受け入れた。
頼は、燈を真っ直ぐ見つめた。
「燈。君が待っていてくれたこと、そしてここに来てくれたこと、心から感謝するよ」
一度息を整え、そう言った。
それは、彼が背負う運命の共有だった。
頼は、軍服のポケットから、静かに小さな指輪を取り出した。
「燈。君と共に生きたい。この行く末がたとえ荒海であろうとも、君こそが、唯一の帰る場所だ。結婚しよう」
燈の瞳から、一筋の涙が流れた。それは恐怖ではなく、溢れる愛と覚悟の涙だった。
「はい。喜んで。私は必ず、待っています」
頼は、その指輪をそっと、燈の薬指にはめた。
頼は、神社の鳥居を見上げた。
「ここは開運の神域だ。だが俺にとっては、海運の神域でもある」
開運と海運、頼はそう口にすることで、個人的な誓いを、自らの命運と使命に重ねた。
「燈。この場所で誓いを立てたのは、この神明に誓いを見届けてもらう為だ。必ず君のもとへ帰る」
誓いを終えた瞬間、二人の間に、新たな強い絆が生まれた。
頼は腕時計を確認する。
手を取り、着物姿の燈を気遣うよう、懸命に歩幅を合わせ、石段を降りる。
「急がせてすまない、燈。」
「いいえ、頼さん。大丈夫です。行きましょう」
二人は渡し舟で岸に戻り、待たせていたハイヤーへと辿り着いた。
扉を閉め、頼と燈が席に着く。
「今度は蒲郡駅まで。彼女を降ろした後、すぐに錨地へ直行してください」
頼は、妻となる燈の安全を確保した上で、初めて自分の使命を優先した。
約十分後、蒲郡駅前。
時計は17時を過ぎようとしていた。
「もう時間だ」
頼の言葉に、燈はハイヤーの中で、ただ頷いた。
頼は先に車を降り、燈のために恭しくドアを開けた。
駅舎を背にした場所で、二人は別れの時を迎える。
短い抱擁。
それは、誓いを交わした夫婦の、切実な別れだった。
「必ず戻る。それを信じていてほしい」
頼は、そう言って、燈の指輪をつけた手をそっと握った。
「はい。信じています」
頼は、その返事を聞くと、再び身を屈め後部座席へと滑り込んだ。
燈は、頼を乗せたその車が見えなくなるまで、動かなかった。
彼女は、頼の安全を祈りながら、蒲郡駅から列車で名古屋へと帰路につく。
ハイヤーは、頼を乗せ、「神通」の停泊する錨地へ急いだ。
頼は、振り返らず、ただ前を見つめた。
既に彼の頭の中は、横須賀での山本五十六との密談、そして艦のデータへと切り替わっていた。
夕闇が迫る中、頼は再び内火艇で「神通」に帰艦した。
彼の顔には、一人の男としての私的な決着をつけた、静かな清々しさがあった。
錨は、極めて低い唸りを上げる揚錨機によって慎重に巻き取られ、艦体が微速で海面を滑るのに合わせ、鎖の衝撃音を抑えながら、静かに引揚られた。
そして「神通」は、約束の地を後にし、運命のデータを積んで、横須賀へと針路を急いだ。




