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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第4章 1928年-1929年 呉、神通編

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錨(アンカー)

遠く名古屋では、燈が電報を受け取って以来、日々が鉛のように重く、そして早く過ぎていった。


電報に記された無機質な文字


「ミカワワン シガツヨウカ ジユウゴジ カマゴオリエキ ニテ」


この短い電文は、一見すると事務的だが、燈には頼の「この時間に全てを賭ける」という切実な覚悟が、痛いほど伝わってきた。


そうして頼が、この猶予を勝ち取ったのだと。


燈は、恵子に、


「お母さん、頼さんと会うために、蒲郡に行ってきます」


そう一言だけ告げた。


いつもは明るく茶化す恵子だが、


「わかったわ、気をつけて行って来なさい」


とだけ言った。


全てを察したようだった。


「はい。行ってきます」


たったこれだけの母娘の会話だったが、彼女はただ、頼の負担を少しでも減らすために、万全の準備を整え、その時を待った。


約束の日、4月8日


昼過ぎ、「神通」は、ほぼ予定通りに三河湾内の定められた錨地へ入港し、錨を降ろした。


艦橋から発せられた厳格な号令と同時に、轟音を立てて錨鎖が投下され、その重い金属音が静かな湾内に響き渡った。


鎖は勢いよく海中に吸い込まれ、艦体を定められた位置に力強く拘束した。


頼は、身なりを整え、厳格な軍服を纏い、艦長の最終指示を受けた。


彼は、内火艇に乗り込み、岸壁へと向かう。


岸壁には、ハイヤーが既に待機していた。これも艦長の配慮である。


「蒲郡駅までお願いします」


車外でうやうやしく待機していた運転手が、ドアを開けようとするのを頼は目線で制した。


頼は扉を自ら開け、乗り込み間もなく、運転手に一言だけ告げた。


時計の針は14時45分を指している。一分一秒が、軍の指令のように重く、容赦なく刻まれていく。


頼は、車窓に飛び込んでくる見慣れない街並みには目もくれず、ただ時計の針を見つめ続けた。


ハイヤーが街路へ出ると、未舗装の路面に砂利が弾け、車体が時折大きく跳ねた。


人力車や自転車が行き交う大きな辻では、警察官が手旗しゅきや手信号で交通整理をしている。


もし予期せぬ交通の遅れがあったら、全てが破綻してしまう。


だが運転手は、軍服姿の頼の緊迫を察し、熟知した道を巧なハンドル捌きで駆けて行く。


街路を急ぎ、蒲郡駅へと滑り込む。


頼は、停車するや否や、後部座席から運転手に声をかけた。


「知り合いを連れてきます。次は竹島まで行きたい。すぐに戻ります。」


運転手は、ミラー越しに表情も変えず、すぐに頷いた。


その確認を待たず、頼は素早く車を降りた。


15時。


定刻通り。


混雑しているわけではないが、旅人と地元の人々が行き交う改札前。


頼は固唾を飲んだ。


本当に燈は来てくれているだろうか。


頼は苛烈を極めたどんな軍事教練よりも緊張した。


しかし、それは杞憂だった。


燈の姿はすぐに頼の目に飛び込んできた。


彼女は、少し緊張した面持ちで、しかし一点の迷いもない瞳で、頼が来るであろう広場の一点を見つめていた。


控えめな青の和装に、彼のマフラーと同じ色の、薄いショールを肩にかけている。


髪には、あの約束の青い髪留めが控えめに光っていた。


頼は、一瞬、艦の使命、欠陥のデータ、海軍の行末、全ての重圧を忘れた。


「燈!」


頼が名を呼ぶと、燈は一瞬息を呑み、そしてその顔に、待ち焦がれた安堵と歓喜が広がる。


「頼さん!」


「待たせてしまってすまない」


頼は、再会の喜びを噛みしめる間もない。


燈は、頷いた。


彼の制約を全て理解している。


「すぐに行きたい場所がある」


燈は質問せず、ただ頷いた。


ハイヤーは蒲郡駅を離れ、海沿いを走る。


車内には、再会を果たしたばかりの安堵と、これから交わされる誓約への静かな緊張が混じり合っていた。


頼は燈の手をそっと握り、その細い指に込められた決意を感じ取った。


頼が向かった先は、三河湾に浮かぶ竹島だった。


ハイヤーは、竹島に最も近い小さな岸壁に滑り込んだ。


そこには、地元の人間を乗せる渡し舟が一艘、客待ちで静かに待機していた。


二人は急ぎ足で舟に乗り込んだ。


水面を滑る小さな舟は、現世の喧騒から隔絶された、神域へと続く参道を行くかのように見えた。


頼と燈の二人の運命を乗せ、竹島へと静かに進んでいく。


舟を降りた二人は、八百富神社へと向かう石段を登る。


周囲は神聖な空気に包まれており、島の全域が神域であることを示していた。


本殿前。


縁結び、安産、そして開運の神様を祀るこの場所で、頼は立ち止まった。


彼は、纏っていた軍服の硬さを、今日だけは自らの鎧として受け入れた。


頼は、燈を真っ直ぐ見つめた。


「燈。君が待っていてくれたこと、そしてここに来てくれたこと、心から感謝するよ」


一度息を整え、そう言った。


それは、彼が背負う運命の共有だった。


頼は、軍服のポケットから、静かに小さな指輪を取り出した。


「燈。君と共に生きたい。この行く末がたとえ荒海であろうとも、君こそが、唯一の帰る場所だ。結婚しよう」


燈の瞳から、一筋の涙が流れた。それは恐怖ではなく、溢れる愛と覚悟の涙だった。


「はい。喜んで。私は必ず、待っています」


頼は、その指輪をそっと、燈の薬指にはめた。


頼は、神社の鳥居を見上げた。


「ここは開運かいうんの神域だ。だが俺にとっては、海運かいうんの神域でもある」


開運と海運、頼はそう口にすることで、個人的な誓いを、自らの命運と使命に重ねた。


「燈。この場所で誓いを立てたのは、この神明しんめいに誓いを見届けてもらう為だ。必ず君のもとへ帰る」


誓いを終えた瞬間、二人の間に、新たな強い絆が生まれた。


頼は腕時計を確認する。


手を取り、着物姿の燈を気遣うよう、懸命に歩幅を合わせ、石段を降りる。


「急がせてすまない、燈。」


「いいえ、頼さん。大丈夫です。行きましょう」


二人は渡し舟で岸に戻り、待たせていたハイヤーへと辿り着いた。


扉を閉め、頼と燈が席に着く。


「今度は蒲郡駅まで。彼女を降ろした後、すぐに錨地へ直行してください」


頼は、妻となる燈の安全を確保した上で、初めて自分の使命を優先した。


約十分後、蒲郡駅前。


時計は17時を過ぎようとしていた。  


「もう時間だ」


頼の言葉に、燈はハイヤーの中で、ただ頷いた。


頼は先に車を降り、燈のために恭しくドアを開けた。


駅舎を背にした場所で、二人は別れの時を迎える。


短い抱擁。


それは、誓いを交わした夫婦の、切実な別れだった。


「必ず戻る。それを信じていてほしい」


頼は、そう言って、燈の指輪をつけた手をそっと握った。 


「はい。信じています」 


頼は、その返事を聞くと、再び身を屈め後部座席へと滑り込んだ。


燈は、頼を乗せたその車が見えなくなるまで、動かなかった。


彼女は、頼の安全を祈りながら、蒲郡駅から列車で名古屋へと帰路につく。


ハイヤーは、頼を乗せ、「神通」の停泊する錨地へ急いだ。


頼は、振り返らず、ただ前を見つめた。


既に彼の頭の中は、横須賀での山本五十六との密談、そして艦のデータへと切り替わっていた。


夕闇が迫る中、頼は再び内火艇で「神通」に帰艦した。


彼の顔には、一人の男としての私的な決着をつけた、静かな清々しさがあった。


錨は、極めて低い唸りを上げる揚錨機によって慎重に巻き取られ、艦体が微速で海面を滑るのに合わせ、鎖の衝撃音を抑えながら、静かに引揚られた。


そして「神通」は、約束の地を後にし、運命のデータを積んで、横須賀へと針路を急いだ。

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