手紙
山本五十六大佐が退艦した直後、「神通」艦内は、外部からは窺い知れない特異な緊張に包まれた。
艦長室での密談を経て、山田艦長は直ちに艦務分掌を改めた。
頼の執務空間は、砲術指揮所の奥まった一角、計測データが集中する隔壁に隔たれた機密区画と定められた。
頼は、その新しい、秘密の執務室で、静かに計算尺と鉛筆を握っていた。
窓のない区画は、船体の軋みとエンジンの微かな唸りだけを伝え、外部の喧騒から完全に隔離されていた。
そしてそれは、山田艦長の指示により、訓練は常識を逸脱したものとなっていた。
呉湾の夜間に響く「神通」の異様なエンジン音は、「最大戦速での急変針射撃」「艦体に極限の負荷を与える観測」という、船体の限界を意図的に試す危険な作業が続いていることの証明だった。
頼は、連日、山崎中尉が命懸けで集めた膨大なデータに没頭した。
データが示す非線形の曲線は、彼の知識が正しかったことを冷徹に証明していた。
日本艦艇の構造的な欠陥は、彼らが意図的に与える負荷によって、「美保関以上の大事故が、近いうちに必ず起きる」という悲劇的な真実を訴えかけていた。
作業を一区切りつけた頼は、机の脇に置かれていた濃紺の毛糸のマフラーに、そっと触れた。
呉への出立の際、燈が渡してくれたものだ。
頼はマフラーを首に巻き、静かにペンを執った。
そして彼は、送るべき幾つかの文書を前に、重い覚悟と共にペンを走らせた。
一通目:最優先の機密通信
まず、公務として最優先で片付けねばならない、山本五十六大佐の私邸宛ての『報告書』を作成した。
これは、彼が送るべき三つの通信のうち、最も大きな責任を伴うものだった。
そこには感情は一切ない。
艦体の疲労度、復元性の限界値、そして事故発生の蓋然性を示す、冷徹な数字と言葉だけが並ぶ。
「…上記データに基づき、現状の船体構造と戦術ドクトリンを維持した場合、艦隊の戦闘能力に壊滅的な影響を及ぼす重大事故は、今後6年以内に発生する可能性90%以上と推定される。至急、艦政本部の予算配分及び構造設計の見直しが必須である。― 吾妻頼」
これは、頼が山本との同盟に基づいて提供する「武器」であり、彼自身の命を賭けた任務の証明だった。
二通目:母、静への手紙
次に、頼は母が心配しないよう、海軍士官としての義務と安心を主に記した。
「お母さん。呉での勤務は順調です。最新の測距試験の責任者となり、今は海軍にとって大変重要な職務を担っております。体調を崩す暇もないほどです。しかしご心配なく、私は変わりなく、職務を全うしております。時節柄、どうかご自愛ください――」
三通目:燈へ
そして、最も切実な誓いを込める手紙、燈へ。
頼はマフラーをきつく巻き直した。
この暖かさこそが、彼を冷徹なデータ収集という狂気から正気に引き戻す唯一の力だった。
彼は、任務の真実を隠し、普通の士官の日常という名目で、愛する人を守らねばならない。
「燈。呉は冬を迎え、夜の甲板は冷たい風が吹きます。君が編んでくれたこのマフラーは、本当に暖かく、私の職務を支えてくれています。今、私は、海軍の将来を担う重要な技術の任務で、君に会えない日々です。ただ、これは、あなたと穏やかに暮らすための礎だと信じています。もし、回航中に、故郷の近くで上陸が許されるようなことがあれば、是非、君に改めてお話ししたいことがあります――」
頼の公私にわたる全ての行動の根底には、「燈と穏やかに暮らす」という、この切実な願いと誓いにあった。
そして、彼の脳裏には、幼い頃、継じいちゃんから聞いた曽祖父・頼の艦の話が蘇った。
「艦は乗り手を選ぶが、それは技術ではない。気骨だ」
という、科学とは対極にあるような言葉だった。
彼の使命は、その気骨が物理法則に敗北しないよう、守り抜くための「合理的な盾」を集めることだった。
頼は、神通での訓練データ、母への安堵、そして燈への切なる願い、という三つの異なる真実を封筒に納めた。
この任務が続く限り、彼はこの「偽りの平穏」の中で、孤独な戦いを続ける。
しかし、春の光とともに訪れるかもしれない「僅かな望み」こそが、彼をこの狂気から救い出す、唯一の希望だった。




