夜の配達
アッと気が付けば夕方だ。急いでアパートに帰り、クロスバイクを玄関にしまうと、今度は軽バンに乗り換える。
配達拠点で荷物を受け取り、ナビの案内に従って配達エリアへ向かう。
「今日の一件目はタワマンか……」
エントランスで2701と入力して、呼び出しボタンを押す。
「27階か、、、」小さく呟く。
待つこと約10秒。
無言でオートロックのドアが開く。
いつものことだが、たった10秒が、1分か、2分か、地味に長く感じられる。
エレベーターで27階へ。
ドリンクケース二箱を台車で運ぶ。
部屋前に置き配して、急いでクルマへ戻る。
暑い。
タワマンで汗まみれになって荷物を届け、軽バンに戻った。
シートに体を預け、エアコンの吹き出し口を自分に向け、全開にする。
冷たい風が、額の汗を急速に乾かしていく。
ハァ、と息をついた。2、3分そうしていただろうか。
そうして、息を整えていると、向こうから車のライトが見えた。
狭い一方通行ではない道幅だが、車一台がようやく通れるくらいの狭さだ。
すれ違えないことはないが、譲り合いが必要な場所だった。
「……」
軽くヘッドライトを点滅させて、道を譲る意思表示をする。
しかし、相手の車は減速することなく、一直線にこちらへ向かってくる。
そして、俺の車のすぐ手前で、容赦なくけたたましいクラクションを鳴らした。
パァァァン!
「っ……」
耳の奥に響く音に、体がびくりと跳ねる。
俺が邪魔なんじゃない。
俺という存在が、社会にとって邪魔なのかもしれない。
……いいさ、慣れっこだ。
息を整え、ナビに視線を戻す。次の配達が俺を待ってる。
ー信号待ちの回想ー
軽バンを次の配達先へ向けて走らせていると、赤信号で止まった。
街路灯の明かりが、アスファルトをぼんやりと照らしている。
歩道には、背広姿の男たちが三々五々、家路を急いでいた。
ネクタイを緩め、疲れた表情でスマホを覗き込む者、同僚と肩を並べて愚痴をこぼす者。
俺が大学を卒業したのは22の年。
希望に満ちて、この豊橋で大手メーカーに就職した。
誰もが羨む、安定した企業だと。
最初のうちは、社会人になった実感が嬉しかった。
だけど、それは長く続かなかった。
配属されたのは、数字が全てを決定する営業部署。
朝から晩まで、具体的なノルマを達成するためのプレッシャーが常にのしかかっていた。
上司は、営業成績が悪ければ容赦なく吊し上げ、人前で罵倒することもしばしばだった。
「お前は本当に使えないな」
「こんな数字でよく飯が食えるな」
――そんな陰湿なパワハラが日常だった。
飲み会では上司の酒の相手をさせられ、休日も暗黙の了解でゴルフの付き合い。
一度だけ断ったら、翌週から露骨な嫌がらせが始まった。
同僚たちは皆、自分の保身に必死で、誰一人として助けてくれる者はいなかった。
精神的にも肉体的にも限界だった。
毎朝吐き気と目眩に襲われるようになり、会社のトイレで、何度も辞めたいと呟いた。
俺は退職を願い出た。
そんな3年間。
3年間は頑張ったが、心も体も限界だった。
会社を辞めてから、1年間はアルバイトと、わずかな貯金を切り崩して生活した。
日雇いの肉体労働、深夜のコンビニバイト。
毎日を食い繋ぐので精一杯で、未来への希望なんて見えなかった。
何がしたいのかも、何ができるのかも分からなかった。
そんな中で出会ったのが、この個人事業主としての配達の仕事だった。
人との関わりが最小限で済む。
運転は昔から嫌いじゃなかった。
これなら、なんとか生活していけるかもしれない。
そう思った。
あれから1年と少し。
今、こうして軽バンを走らせ、夜の街で配達をしている。
歩道を歩くサラリーマンたち。
彼らは、俺がいた「普通の」世界で生きている。
あの頃は苦痛でしかなかったその「普通」が、今では遠い幻のように感じられた。
俺は、もうあの世界には戻れない。
戻りたくもない、と自分に言い聞かせながら、どこかで、ほんの少しだけ羨んでいる自分がいることも自覚していた。
……いいさ、慣れっこだ。
息を整え、ナビに視線を戻す。
次の配達が俺を待ってる。




