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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第4章 1928年-1929年 呉、神通編

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19/29

衝撃

砲術指揮所シェイディの空気は、張り詰めていた。


通常、艦隊決戦における砲術は、「斉射せいしゃ」を前提とする。


それは、艦隊運動の安定した瞬間を選び、複数の砲塔から同時に弾を発射することで、命中精度を確率論的に高める、という手法だ。


しかし、吾妻大尉が指示したのは、「最大戦速での急変針」という、艦体が最も不安定な状態での射撃であり、さらに目標は「遠距離の遊弋ゆうよく目標」だった。


これは、従来の作戦要務令からすれば、弾薬の無駄でしかない。


副砲術長である年長の寺井大尉は、指揮所に仁王立ちし、憤りを隠せなかった。


「大尉!この条件では、たとえ六六糎測距儀を使ったとしても、命中修正は不可能!船体動揺補正が追いつきません。これでは乗員に無用の混乱を与えるだけですぞ!」


頼は、感情を見せず、ただ淡々と照準盤の数値を最終確認していた。


「寺井大尉。常識は沈黙してください。私が求めているのは、艦隊決戦での斉射ではない。予測不可能な状況下で、一撃必中を叩き出す精度です。それは既に計算済みです」


その「計算」は、測的室の士官たちにさえ理解不能なものだった。


艦の速度、変針角、気象、そして目標の微細な遊弋運動までを、従来の射表(しゃひょう:射撃のための早見表)とは全く異なる、複雑な非線形方程式で処理しているという。


山崎忠剛少尉は、観測手に目を配りながら、頼大尉の指示通り、観測データの制限を実行させた。


頼大尉は、測距儀が出す距離データのうち、彼が指定した特定の瞬間の数値のみしか受け付けない。


それはまるで、目隠しをして、わずかな情報だけで未来を見通そうとするかのようだった。


「主砲、撃ち方用意!」


緊迫した沈黙の中、頼大尉の声が響く。


彼は、艦長が設定した発砲タイミングを待たず、艦体がまさに変針のピークに差し掛かる、最も不安定な瞬間を選んだ。


「てぇ!」


号令とともに、「神通」の主砲から轟音と白煙が噴き上がり、四門の14センチ砲弾が遠くの訓練海域へと飛び去っていった。


その直後、艦体が急激な変針から元の針路に戻り始め、乗員は激しい動揺に耐える。


寺井大尉は、この後の結果を知っているかのように、諦めの表情で舌打ちをした。


「無駄弾だ。修正は間に合うはずがない」


数秒後、目標海域からの報告が無線で届いた。


「目標海域、着弾確認!全弾、目標の中心円内! 繰り返す、全弾、中心円内!」


砲術指揮所全体が、静止したかのような沈黙に包まれた。


この衝撃的な報告は、指揮所の上にある艦橋にも瞬時に波及した。艦長を含む全士官が、その信じがたい結果に石のように硬直している。誰もが知っていた。この命中精度は、偶然では断じてあり得ない、ということを。


副砲術長である寺井大尉は、自分の耳を疑い、顔色を失った。


遠距離、最大戦速での急変針、そして観測データ制限。


当時の海軍砲術の常識では、一発でも目標近くに着弾すれば奇跡と呼べる条件だった。


彼の脳裏には、海軍兵学校で叩き込まれた砲術理論、そして35年の人生と、これまで積み上げてきた艦上勤務の経験則が、一瞬にして瓦解する音が響いた。


彼の長年の努力の全てが、新任の若造が導き出した「方程式」という冷たい現実によって否定されたのだ。


「全弾、中心円内」。


それは、物理法則を無視した結果だった。 


「は、馬鹿な…あり得るはずがない、まぐれだ!」


寺井大尉の呟きは、誰にも届かなかった。


それは、現実を否定せずにはいられない、彼の崩壊したプライドが発した最後の悲鳴だった。


彼はすぐさま射撃データを分析盤で確認したが、彼の目が示すデータと、無線が伝える結果が一致しない。


その時、山崎少尉が冷静な声で、分析結果を読み上げた。


「着弾修正の必要は、皆無。吾妻大尉の計算が、全ての条件を完璧に相殺しました。現行のドクトリンでは、あり得ない精度です」


山崎少尉は、誰よりも正確にこの結果の「異様さ」を理解していた。


砲術長補佐としての知識と、陸上勤務の間にも失わなかった規律で、彼は頼の非常識な天才性が絶対的な結果を叩き出したことを証明したのだ。


頼は、砲弾の着弾地点を示す白い水柱を双眼鏡で見据えたまま、山崎少尉に静かに言った。


「次だ、山崎少尉。目標をさらに遠い海域に設定。今度は、艦体の振動と揺れを最大限に利用する」


この瞬間、「神通」の常識は、完全に塗り替えられた。

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