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未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第3章 1927年-1928年 名古屋編

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14/30

別れ

一月五日。


正月気分も薄れ、名古屋の街は日常の喧騒を取り戻し始めていた。


頼は、自宅の居間で母の静と過ごし、茶を飲んでいた。

昭和初期の日本家屋に特有な、冬の冷たい木の匂いを頼は深く吸い込んだ。


庭の井戸から水を汲む音が静かに響く。久しく帰郷していなかったらいには、すべてが懐かしい故郷の情緒として、強く胸に刺さった。


静は、頼の滞在を惜しむように、ゆっくりと茶菓子を勧めた。頼も、この短い休暇の最後の静かな時間を慈しんでいた。


「今年もあっという間に五日ね」


静は、穏やかに言った。


「本当に、日が経つのは早いわ。この穏やかなお正月が、もう少し長ければいいのに」


頼は、母の言葉に、軍人としての理性を乗せて答えた。


「そうですね、お母さん。そろそろ任地の知らせがあるはずです。」


昼食後、その静寂は破られた。


頼と静が顔を見合わせる。


遠くから、地面を蹴るように走る足音が近づいた。


静の手が、茶碗を持つ際にわずかに震えるのを、頼は見逃さなかった。


玄関の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。


「電報です!」


頼はすぐに立ち上がり、玄関に向かった。


その薄い紙の重さが、彼の人生の舵を切る巨大な運命の重さのように感じられた。


頼の目の前で開かれた電文は、軍隊電報として、カタカナで簡潔に打たれていた。


彼は無言で広げ、一読した。


『アズマタノム クレチンジユフ ハチニチヨリチヤクニンヲメイズ』


(吾妻頼 呉鎮守府 8日より着任を命ず)


「――呉か」


頼は小さく呟き、母の静のもとへ戻り、毅然とした表情で告げた。


「お母さん。正式に任地が決まりました。呉鎮守府です。明日六日午前発の汽車で発つことになります。着任は、八日です」


静は、目を閉じ、大きく息を吐き出した。


その表情は、悲しみよりも、どこか安堵に近かった。


「...分かりました。この日が来ることは、わかっておりました。支度はもう済んでいるでしょうが、あなたの軍服に綻びがないか、旅の道中の支度の不備がないか、すぐに確認しましょう」


午後遅く、頼は斎藤家へ急いだ。


冷たい夕方の空気が張り詰めた道を、近所の子供たちがまだ羽根つきの音を響かせている。


その健やかな笑い声が、頼の胸に刺さった。


道すがら、頼は別離の言葉に込めるべき決意を胸中で整理した。


軍人としての務めと、燈への想いを、いかに両立させるかを。


夜。吾妻家の食卓に、静と燈と頼の三人が並んだ。


頼は、呉転任の辞令を伝えた。


燈は動揺を隠せなかったが、すぐに静かに理解を示した。


静は、寂しさや心配が混じりながらも、息子の成長を誇らしく思い、涙ぐんだ。


「呉は、海軍さんの街なんですね」


燈が不安を隠すように言った。


静も頷く。


「海軍の街は、きっと活気に満ちているわ」


頼は、二人が口にする「呉」という言葉を聞きながら、心の奥で複雑な影を感じていた。


その「活気」が、自分が知る知識ではやがて、悲劇的な「軍都の末路」へと繋がることを知っているからだ。


彼は、それを変えるために、今、この場を離れなければならない。


食後、二人は誰もいない居間で最後の夜の誓いを交わした。


頼は、燈の隣に座り直し、その手を強く握った。


「燈。俺の全ては、今から始まる務めを全うすることにある。

だが、その務めを果たす目的は、ただ一つ。俺たちが共に生きるための礎を築くことだ。

君を待たせることにはなるが、君はその礎を、この名古屋で信じていて欲しい」


頼の言葉には、感傷的な甘さはなく、揺るぎない決意だけが込められていた。


燈は、頼の胸に顔を埋めた。


「はい...信じています、頼さん。どうぞ、ご無事で」


頼は、その夜、出発前の最後の、そして最も大切な誓いを、深く胸に刻み込んだ。


一月六日、午前。出発の日。


頼は、荷物整理と軍服、書類の最終確認を済ませた。


頼は、心の中では使命感と、母や燈との断ち難い絆が混ざり合っていた。


名古屋駅のプラットフォームは、出発前の喧騒に包まれていた。


冬の軍服に身を包んだ頼は、大きな荷物を足元に置き、静と燈の二人の女性と向かい合っていた。


母親らしく静は、頼の軍服に皺がないかを確認し、


「頼。家を出たら、決して振り返ってはいけません。あなたは、海軍士官としての務めを果たしなさい。お父様の分まで、国の礎として生きなさい」


と厳しく告げた。


その言葉の裏には、息子との別れを覚悟した母の深い悲しみが隠されていた。


静が少し離れたところで目元を抑えるのを見送って、頼は燈と向き合った。


燈は、青い髪留めを結い目に誇らしげに着けていた。


その瞳は潤んでいたが、決して涙は零さなかった。


「頼さん。どうか、ご無事で。私も、この約束の証を大切に、この名古屋で、待っています」


頼は、周囲の目を気にせず、そっと燈の両手を握りしめた。


燈は、頼の手をそっと放すと、不安な面持ちで彼を見上げた。彼女は懐から濃紺の毛糸のマフラーを取り出し、頼の首にそっと巻き付け、結び目を丁寧に、きつく結んだ。


燈が結び目を離すと、頼はマフラーの上から、再び燈の両手を、強く、深く握りしめた。


「約束する。必ず、君の傍に戻ってくる。約束するよ」


甲高い汽笛がホームに響き渡った。頼は、二人の女性に深く頭を下げると、一度も振り返らず、静かに汽車へと乗り込んだ。


汽車が出発すると、頼は車窓から名古屋の街並みを見つめた。列車の揺れとともに、彼は任務への覚悟と旅の始まりを自覚する。


彼は故郷の景色が溶けた車窓に、軍人としての自らの使命を深く焼き付けた。汽車の轟音は、誓いを胸に、時代の渦へと向かう彼の意志そのものだった。


(第3章 完)


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