別れ
一月五日。
正月気分も薄れ、名古屋の街は日常の喧騒を取り戻し始めていた。
頼は、自宅の居間で母の静と過ごし、茶を飲んでいた。
昭和初期の日本家屋に特有な、冬の冷たい木の匂いを頼は深く吸い込んだ。
庭の井戸から水を汲む音が静かに響く。久しく帰郷していなかった頼には、すべてが懐かしい故郷の情緒として、強く胸に刺さった。
静は、頼の滞在を惜しむように、ゆっくりと茶菓子を勧めた。頼も、この短い休暇の最後の静かな時間を慈しんでいた。
「今年もあっという間に五日ね」
静は、穏やかに言った。
「本当に、日が経つのは早いわ。この穏やかなお正月が、もう少し長ければいいのに」
頼は、母の言葉に、軍人としての理性を乗せて答えた。
「そうですね、お母さん。そろそろ任地の知らせがあるはずです。」
昼食後、その静寂は破られた。
頼と静が顔を見合わせる。
遠くから、地面を蹴るように走る足音が近づいた。
静の手が、茶碗を持つ際にわずかに震えるのを、頼は見逃さなかった。
玄関の呼び鈴が、けたたましく鳴り響いた。
「電報です!」
頼はすぐに立ち上がり、玄関に向かった。
その薄い紙の重さが、彼の人生の舵を切る巨大な運命の重さのように感じられた。
頼の目の前で開かれた電文は、軍隊電報として、カタカナで簡潔に打たれていた。
彼は無言で広げ、一読した。
『アズマタノム クレチンジユフ ハチニチヨリチヤクニンヲメイズ』
(吾妻頼 呉鎮守府 8日より着任を命ず)
「――呉か」
頼は小さく呟き、母の静のもとへ戻り、毅然とした表情で告げた。
「お母さん。正式に任地が決まりました。呉鎮守府です。明日六日午前発の汽車で発つことになります。着任は、八日です」
静は、目を閉じ、大きく息を吐き出した。
その表情は、悲しみよりも、どこか安堵に近かった。
「...分かりました。この日が来ることは、わかっておりました。支度はもう済んでいるでしょうが、あなたの軍服に綻びがないか、旅の道中の支度の不備がないか、すぐに確認しましょう」
午後遅く、頼は斎藤家へ急いだ。
冷たい夕方の空気が張り詰めた道を、近所の子供たちがまだ羽根つきの音を響かせている。
その健やかな笑い声が、頼の胸に刺さった。
道すがら、頼は別離の言葉に込めるべき決意を胸中で整理した。
軍人としての務めと、燈への想いを、いかに両立させるかを。
夜。吾妻家の食卓に、静と燈と頼の三人が並んだ。
頼は、呉転任の辞令を伝えた。
燈は動揺を隠せなかったが、すぐに静かに理解を示した。
静は、寂しさや心配が混じりながらも、息子の成長を誇らしく思い、涙ぐんだ。
「呉は、海軍さんの街なんですね」
燈が不安を隠すように言った。
静も頷く。
「海軍の街は、きっと活気に満ちているわ」
頼は、二人が口にする「呉」という言葉を聞きながら、心の奥で複雑な影を感じていた。
その「活気」が、自分が知る知識ではやがて、悲劇的な「軍都の末路」へと繋がることを知っているからだ。
彼は、それを変えるために、今、この場を離れなければならない。
食後、二人は誰もいない居間で最後の夜の誓いを交わした。
頼は、燈の隣に座り直し、その手を強く握った。
「燈。俺の全ては、今から始まる務めを全うすることにある。
だが、その務めを果たす目的は、ただ一つ。俺たちが共に生きるための礎を築くことだ。
君を待たせることにはなるが、君はその礎を、この名古屋で信じていて欲しい」
頼の言葉には、感傷的な甘さはなく、揺るぎない決意だけが込められていた。
燈は、頼の胸に顔を埋めた。
「はい...信じています、頼さん。どうぞ、ご無事で」
頼は、その夜、出発前の最後の、そして最も大切な誓いを、深く胸に刻み込んだ。
一月六日、午前。出発の日。
頼は、荷物整理と軍服、書類の最終確認を済ませた。
頼は、心の中では使命感と、母や燈との断ち難い絆が混ざり合っていた。
名古屋駅のプラットフォームは、出発前の喧騒に包まれていた。
冬の軍服に身を包んだ頼は、大きな荷物を足元に置き、静と燈の二人の女性と向かい合っていた。
母親らしく静は、頼の軍服に皺がないかを確認し、
「頼。家を出たら、決して振り返ってはいけません。あなたは、海軍士官としての務めを果たしなさい。お父様の分まで、国の礎として生きなさい」
と厳しく告げた。
その言葉の裏には、息子との別れを覚悟した母の深い悲しみが隠されていた。
静が少し離れたところで目元を抑えるのを見送って、頼は燈と向き合った。
燈は、青い髪留めを結い目に誇らしげに着けていた。
その瞳は潤んでいたが、決して涙は零さなかった。
「頼さん。どうか、ご無事で。私も、この約束の証を大切に、この名古屋で、待っています」
頼は、周囲の目を気にせず、そっと燈の両手を握りしめた。
燈は、頼の手をそっと放すと、不安な面持ちで彼を見上げた。彼女は懐から濃紺の毛糸のマフラーを取り出し、頼の首にそっと巻き付け、結び目を丁寧に、きつく結んだ。
燈が結び目を離すと、頼はマフラーの上から、再び燈の両手を、強く、深く握りしめた。
「約束する。必ず、君の傍に戻ってくる。約束するよ」
甲高い汽笛がホームに響き渡った。頼は、二人の女性に深く頭を下げると、一度も振り返らず、静かに汽車へと乗り込んだ。
汽車が出発すると、頼は車窓から名古屋の街並みを見つめた。列車の揺れとともに、彼は任務への覚悟と旅の始まりを自覚する。
彼は故郷の景色が溶けた車窓に、軍人としての自らの使命を深く焼き付けた。汽車の轟音は、誓いを胸に、時代の渦へと向かう彼の意志そのものだった。
(第3章 完)




