告白
年が改まり、元日の朝を迎えた。
頼は早朝に顔を洗い、身を清め、居間で母の静に新年の挨拶をした。
「お母さん、あけましておめでとうございます」
静は晴れ着姿で、静かに頷いた。
「おめでとう、頼。無事に新しい年を迎えられて、本当に良かった」
頼は仏間に向かい、亡き父の遺影の前で線香をあげた。静かに手を合わせ、今日燈と初詣に行くことを心の中で報告した。
その言葉には、常に彼の身を案じていた母の深い安堵が込められていた。頼は静と共に簡単な新年の朝食をとった後、濃紺の着物に灰色の羽織姿に着替えた。
熱田神宮へ向かうため、頼は斎藤家のへと足を運んだ。
(歩いて二、三分、150メートルほどの距離だ。いや、この時代では八十間ほどか…)と頼は現代の感覚で距離を測る。
辺りの道はまだ土が剥き出しで、車がほとんど普及していない時代の、清々しい元日の空気が漂っていた。
その道のりを歩きながら、頼の心は、久しぶりに訪れる幼馴染の家への、期待と緊張で満ちていた。
門先で新年の挨拶を交わし、恵子に丁寧な挨拶をすると、燈が鮮やかな振袖を纏って現れた。
「燈。あけましておめでとう。今日はお揃いで、お参りをお願いします」と頼は燈へ挨拶した。
燈は頬を赤らめ、深々と頭を下げた。
「頼さん、あけましておめでとうございます。どうぞ、よろしくお願いいたします」
恵子は二人を見送りながら、燈にだけ聞こえるよう、いたずらっぽい目で囁いた。
「まあ、こんなに綺麗に着飾って。頼さんとの久しぶりのお出掛けね。楽しんでいらっしゃい」
燈はさらに頬を赤らめ、母を軽く睨んだ。
「お気をつけていってらっしゃい」
と恵子は微笑んだ。
斎藤家を離れ、大通りに出ると熱田神宮へ向かう着物姿の参拝客で賑わい始めていた。
歩くにつれ群衆の熱気と喧騒が徐々に増していく。
熱田神宮への参道は、賑やかな出店の呼び込みと、参拝客の熱気が渦巻く、歩くのも困難なほどの群衆で溢れていた。
頼は濃紺の着物に灰色の羽織姿。隣を歩く燈は、鮮やかな振袖を纏っていた。
「こんなに人が多いと、まるで、人波に飲まれちゃいそうね」
燈は、群衆に押しやられそうになり、思わず頼の羽織の袖を、親指の先でそっと掴んだ。
頼の全身に、一瞬の緊張が走った。
彼は、この手が持つ意味、二人の間の距離が瞬時に無くなったように思えた。
頼は言葉を失ったが、燈を想う気持ちがすぐにその沈黙を打ち破った。
「大丈夫だ。そんな心配はない。俺がいるから」
頼は、あえて冷静な士官の口調で答えながらも、燈を群衆から守るように、彼女の少し内側へと踏み込んだ。
袖を掴むその小さな手の温かさが、頼の腕を通して伝わってくる。周囲の喧騒と、二人の間の静かな緊張が、強いコントラストを描いていた。
賑わいの中、二人は本殿での参拝を終えると、境内の大きな楠の木のそばへ移動した。
ここは参拝客の流れから少し外れており、周囲の喧騒が遠のく、互いの声がはっきり聞こえる静かな場所だった。
頼が話そうと口を開くより早く、燈が話し始めた。
「頼さん。私、私ね、ずっと後悔していたんです。あの時、頼さんが、名古屋を離れるとき、お見送りに行けなかったでしょう」
頼は静かに頷いた。あの日の燈の不在は、頼の心に寂しい影を落としていた。
「ごめんなさい。ずっと、ずっと、本当に後悔していたの。本当にごめんなさい。」
燈は、震える声で続ける。
「でも、行けなかったのは、もし行ったら、頼さんの前で泣き崩れてしまうと思って。頼さんの門出を邪魔してしまう、決心を鈍らせてしまうって。そう勝手に決めつけてしまったからなの」
燈は顔を上げ、涙を堪えた瞳で頼を見つめた。
頼は、彼女の決意と、その裏にある寂しさ、そして自分を支えようとする強い想いを理解し、言葉を失った。
頼は、言葉を紡ぎだそうとしたが、すぐに唇を閉ざした。
数日後、次の任地辞令が来る。
また、すぐに別れが来てしまう。
遠い任地での現実を前に、頼は自分の想い伝えることをためらってしまった。
頼の沈黙と、その眼差しに映る逡巡を敏感に感じ取った燈は、静かに、しかし決然とした声で言った。
「頼さん。私、今度こそ後悔したくない。すぐにまた別れが来るとしても、このまま、曖昧なまま離れたくないの」
燈は、固く握りしめた手にさらに力を込めた。
「私と、お付き合いしていただけませんか。離れ離れになったとしても。そして、いつか...いつか、ずっと一緒にいてくださると約束してはいただけませんか」
それは、彼女からの切実な願いだった。頼は、目の前の女性の強さと、彼女の想いに抗うことはできなかった。
「...燈」
頼は、彼女の手を両手で包み込み、深く頷いた。彼の胸の中に、愛と責任感が強く燃え上がった。
「分かった。必ず、君を迎えに来る。約束するよ」
頼は、包み込んだ燈の小さな手を、今度は揺るぎない決意をもってしっかりと自分の手のひらに絡ませた。
境内の喧騒は再び二人の耳に届き始めていたが、もはや人波の圧力は彼らの間の確かな絆を揺るがすことはなかった。
彼の胸を占めるのは、目の前の燈との誓いを果たすという、強い愛と責任感だけだった。彼には、守るべき故郷があり、守り抜くと誓った燈との約束がある。
――必ず、君を迎えに来る。そして、この温かい場所を守り抜く。
頼は、隣で頬を染める燈を見つめ、熱田神宮の喧騒の中で、静かに、そして力強く誓った。




