表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
未来への頼み-アパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍士官になった-  作者: 山口灯睦
第3章 1927年-1928年 名古屋編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/29

年越しと誓い

燈の言葉がもたらした安らぎを、頼は乾いた胸の奥に深く仕舞い込んだ。


この静養の間も、彼は海軍士官としての立場を緩めるわけにはいかなかった。


頼はかろうじて表情を取り繕い、士官としての礼をもって頭を下げた。


「ありがとうございます。お久しぶりです、おばさん、燈」


居間に設えられた温かい炬燵を、四人は囲んだ。


「私、昨日、燈と大須の実家に寄ったついででね。暮れの市の賑わいに、つい足が伸びちゃったのよ」


と恵子が話し、静かに手土産を出した。


温かい炬燵に入り、恵子が包みを開けて出したのは、艶やかな、いかにも美味しそうな蜜柑だった。


「今年のものは特に出来が良いそうなのよ。上ノかみのごうのみかん」


恵子は笑みを浮かべ、頼と燈を見比べた。


「燈がね、『頼さんがみかんが好きだから、買って行きましょうよ』って言うから、張り切って選んできたのよ」


燈は赤くなった頬で、小さな咎めるような声を出した。


「お母さん!また!」


恵子は 「うふふ」と優しく笑い、それ以上は言わなかった。


「頼さん、これ。好きだったでしょう?」


燈は、恥ずかしそうに言った。


(ああ、燈は覚えていてくれたのか)


頼は、燈の気遣いに一瞬胸が詰まった。


豊橋では、確かに冬にはみかんは、好きで時々食べていた。


頼は受け取ったみかんを見て

(上ノ郷みかんか。現代での蒲郡みかんのルーツにあたる、愛知の名産だ)

と、自身の知識を心の中で結びつけた。


その不思議な感覚に、頼は思わず口元を緩めた。


静と恵子が年末の賑わいや世間の情勢を談笑する中、頼はみかんの皮を剥き、燈と視線を交わした。


その瞳には、久しぶりの再会から続く、静かで、しかし確かな親密さが宿っていた。


やがて、談笑が途切れた時、静が切り出した。


「ところで頼さん。元日がんじつは、熱田さんへ初詣はつもうででしょう?」


「はい、そのつもりです」と頼は答えた。


静は、恵子と視線を通わせながら、


「燈ちゃんもきっと、お参りになるのでしょう?元日の熱田さんは大変な混みようでしょうけど、久しぶりなのですもの、二人お揃いで、お出かけになってはどう?」 


と促した。


 燈は抗議の声を上げることなく、頼の目を見て小さく頷いた。


「…はい」。


 頼は、母親たちが自分たちの再会を心から喜び、後押ししてくれていることを理解した。


これは、幼馴染であった二人の関係を、互いの親たちが、家の了承のもとに将来を見据えて温かく見守り、久しぶりの二人きりの機会を作るための心尽くしであった。


頼は、背筋を伸ばして頭を下げた。


「ありがとうございます。お母さんたちもこうおっしゃってるから、燈、元日は一緒にお参りしようか」


その後、恵子は笑みを浮かべ、静に言った。


「積もるお話もありますし、燈もまだ頼さんと一緒にいたいようですけれど、あまり長居しても、静さんもお正月のお仕度がございますから、そろそろお暇させて頂きますね」


燈は顔を赤らめ、母を静かにたしなめた。午後三時を過ぎた頃、恵子と共に吾妻家を後にした。


頼は居間から、燈が振り向いて小さく手を振る姿が見えなくなるまで、見送っていた。


その日の夕食時、燈たちが訪れたことで家の中に残る、久々の和やかな空気の中、頼は静かに箸を置いた。


「お母さん」


頼は、意を決して切り出した。


「父さんが亡くなって以来、まとまった休みで家に戻れず、本当にすみませんでした。」


静は頼を見つめ、静かに首を振った。


「何を言うの。あなたはお仕事で忙しいのだもの。そんなことは、あなたを送り出した時に承知しています。その間に、この家を私が守り通すのは、妻としての、母としての務めです。気になさらないで。こうして、あなたが無事に帰ってきてくれた。それだけで、十分よ」


静の気丈な言葉に、頼の胸は締め付けられた。


頼は、この温もりこそが、長らく己が求めていた帰る場所だと感じた。


翌、大晦日の日中、静は淡々と正月を迎える準備を進めた。吾妻家を訪れる者はなく、家の中には清浄な静けさが満ちていた。


その日の夜、二人は揃って炬燵で年越しそばを囲んだ。


静が馴染みのいづみやから取った出前は、海老天が添えられた温かい天ぷらそばだった。


「細く長く、息災に、という願いを込めて食べるのよ」と静は頼に言った。


「それに、いづみやさんの天ぷらのお蕎麦は、昔からずっと変わらない味よ。好物だったわね」


頼は熱いそばを啜りながら、


「ありがとうございます。美味しくいただきます」

と答えた。


「あなたがこの家を出てから、母さんは毎年、あなたが無事に年を越せることだけを祈ってきたのよ」


静のその一言は、美保関の惨事と、その後に頼が負った重圧を静かに思い出させた。


頼は言葉を返す代わりに、静かにそばを噛みしめた。この瞬間、彼はようやく故郷の温かい年末に、自分の身を置くことができたのだ。


その後、除夜の鐘が遠くで響き始めると、頼は厚手の丹前を羽織った浴衣姿で自室の縁側へと出た。


冷たい夜気が頬を叩く。


風呂上がりの温もりが消え去るほどに冷たい風が吹くが、心の中は、燈と再会したことで生まれた小さな暖かさで満たされていた。


遠い過去と遠い場所で経験した全ての出来事の重圧を、この冷気の中に押し込めるように深く息を吐く。


彼の今回の特別休暇は、父親の葬儀以来の、自宅で母親と過ごせる年越しだ。


この故郷の静けさ、この家族の温もりを、決して失わせてはならないと、頼は改めて誓った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ