9 夜花の街
真っ黒の瞳が霧に沈むオルドンの裏路地を跳ねるように進んでいった。
頭の横で二つに結んだ赤毛が、歩みのたびにぴょんぴょんと揺れる。
ミストラッツの集まりの帰り道、エルザは貧民街の自宅へ向かっていた。家とも呼べぬような粗末な部屋――それが彼女の帰る場所だった。
このあたり一帯はグレイマーケット地区。
昼は露天商と荷運び人でごった返し、夜になると酔客と売笑の女たちで埋め尽くされる。
石畳はひび割れ、どぶ川の臭気が立ちこめる。
霧と油煙が混ざり合い、どこかで壊れたオルガンの音が聞こえる。
酔った男の笑い声と喧嘩の怒号、割れた瓶の音――それがこの街の夜の調べだった。
エルザの家は、そのさらに奥――霧の底に沈むような裏通りにある。
傾いた屋根、剥げ落ちた扉。窓には新聞紙が貼られ、夜になると蝋燭の光が滲む。
近所では、母を“夜花”と呼んでいた。
昼は眠り、夜にだけ化粧をして出ていく。
男の靴音と笑い声が、夜ごと薄い壁を震わせた。
エルザは、そんな音を聞かないように、外の石段で星を数えるのが癖になっていた。
家の前まで着いたものの、まだ夜明け前。部屋にはどうせ今夜も男がいるだろう。
エルザは路地の隅にしゃがみこみ、ルシアンにもらったトフィーを口に放り投げた。
琥珀色に透ける飴玉が舌の上で甘く溶ける。
ルシアンはいつもトフィーをくれる。彼女にとってそれは、街のどんな灯よりも安心できる“あかり”だった。
「ねぇ、そこの娘」
酒で焼けたような声が闇の中から響く。
若いのか老いているのか判然としない、ねっとりとした声。
エルザは肩をすくめ、視線だけを向けた。
「おぉ、意外に上玉じゃないか。お前がエルザか?」
眉をひそめたエルザは、男からじりじりと距離を取る。
――艶のある外套。靴も上等。貧民じゃない。
なのに、なぜ名前を知っているの?
帽子を深くかぶった男は、わざとらしく笑って手を伸ばした。
「なぁ、金をやる。どうせ娘のお前も夜花なんだろ? 幼くてかわいいな」
「離して!」
掴まれた腕を捻って逃れようとするが、力の差は大きい。
煙草と酒の臭い――高級な葉巻。
こんなものを吸うのは、上流の男だけだ。
髪を掴まれ、バランスを崩す。
腰を抱えられ、持ち上げられた瞬間、喉の奥から悲鳴が漏れた。
「離して! やめて!!」
「離れろ、この馬鹿が!」
次の瞬間、横合いから影が飛び込んだ。
トビーだった。彼の足が男の腹を蹴り飛ばす。
男は呻き声を上げて倒れ込み、エルザも地面に投げ出された。
「トビー!」
エルザは急いで立ち上がり、彼の背中に隠れる。
「このクソガキ!」
よろよろと立ち上がる男を前に、トビーは舌を出した。
「そのクソガキに蹴られて転んでやんの! やーい!」
「なんだと!?」
「エルザ、走れ!」
「うん!」
二人は一目散に駆け出した。
貧民街の地理を、彼らほど熟知している者はいない。
子どもしか通れない隙間や細い路地を縫い、身を隠しながら走り抜ける。
霧が足元で渦を巻き、遠くで犬が吠えた。
しばらく走って、古い共同パン窯の前で足を止めた。
石造りの窯の奥では、まだ赤い炭がかすかに光っている。
昼間は街の女たちがパンや芋を焼きに集まる場所だが、今は誰もいない。
炭の残り火から立ちのぼる香ばしい匂いが、霧に溶けて漂っていた。
二人はその脇に腰を下ろし、背中合わせになって息を整える。
手をかざすと、じんわりとした温もりが掌に染みた。
「……撒けた?」
「うん、いなくなった」
「良かった……」
エルザが笑うと、トビーは少しだけ頬を赤くして笑い返す。
「エルザが無事で良かった」
二人はしばらく笑い合った。
だが、エルザの黒い瞳に翳りが差す。
「あの変態……私の名前、知ってたの。どうしてだろう」
「貴族っぽかったな」
「なんであんなところにいたんだろう」
「兄貴に話したほうがいい」
「……うん」
それきり二人は黙り込み、霧の向こうを見上げた。
東の空がうっすらと白み始めている。
霧に滲む空には、まだ白い月が名残を惜しむように残っていた。
「エルザ、帰る?」
「もう少しいる」
「じゃあ俺ももう少しいる」
「うん」
古いパン窯の火が、ほのかに赤く瞬いた。
それは夜花の街に、わずかに残る人の温もりのようだった。




