8 霧と紅茶と
ルシアンは、女性の後を追い、部屋の中へ入っていった。
焼きたてのパンの匂いが、まだ温もりを残している。
狭い部屋には煉瓦の壁と小さな暖炉、丸い木のテーブル。
煤けた窓の外では、ガス灯が霧の中でぼんやりと揺れていた。
油ランプの光が柔らかく二人の影を壁に落とし、橙色の明滅が穏やかに空間を染めている。
テーブルの上には、粉の跡が残る木のまな板と、古びた陶器のポット。
紅茶の湯気が細く立ちのぼり、パン屑が光に照らされて舞った。
アランは椅子に腰をかけ、粉だらけの指先を見つめていた。
その手には育ちの良さが滲みながらも、節の間に入り込んだ小麦粉が、彼の今を静かに物語っていた。
暖炉の前では、先ほどの女性――アンナが髪をまとめ直している。
動作は慣れていて、何もかもが淡々としているのに、どこか優しさを感じさせた。
アランが顔を上げると、アンナが振り返り、彼と視線が交わる。
ふっと笑って紅茶のカップを彼の前に置いた。
そのやり取りを見つめていたルシアンは、
この家の中にある静かな幸福と、外の霧の冷たさの落差に言葉を失った。
「……いい匂いだな」
そう言って、彼は外套を脱ぎながら周囲を見回す。
アンナは微笑んで答えた。
「パンと紅茶しかありませんけど、それでも良ければ」
「ありがたくいただくよ」
ルシアンが椅子を引いて腰を下ろすと、アランは姿勢を正し、そのミルクティー色の瞳を静かに彼へ向けた。
「貴方、外部調査局の人でしょ。何しに来たの?」
その声は穏やかだが、わずかに緊張が滲む。
ルシアンは肩をすくめた。
「……父上は敵が多い。裁定院にはよく世話になってるんだ。調査官とも何度か話したことがある」
「じゃあ、なんで俺が来たか分かってるだろう? 今回は君自身の件だ」
「話すことはないよ」
それだけ言うと、彼は奥の部屋に引っ込んでしまった。
残された静寂を破るように、アンナがアランの席の隣に静かに腰を下ろす。
「裁定院の人だったのね」
「申し遅れました。外部調査局、特別調査官のルシアン・ヴェイルです」
ルシアンは軽く頭を下げた。
「私はアンナ。花屋で働いてるわ。アランと一緒に暮らしてるの。
アランは私の知り合い――メアリーおばさんのパン屋で働かせてもらってるの」
ルシアンは頷きながら、手帳に走り書きしていく。
「アランが婚約破棄したってやつでしょ? 聞いてるわ。
私でわかることなら答えるわよ」
「ありがたい。……女性に聞くのは気が引けるが、彼は女にだらしないという噂が絶えない。毎日娼館に通っているとも。――本当か?」
アンナは目を丸くし、太めの眉を高く上げた。
「彼が娼館? まさか!」
小さく吹き出し、笑いながら首を振る。
「アランね、侯爵家からのお小遣いを受け取ってないのよ。
舞踏会とか、貴族の体面のためにお父さんに出ろって言われたときだけ服を仕立てるくらい。
普段はお金なんて持ち歩いてないわ。
パン屋で稼いだお金だけで生活してて、その少ない給金を一緒に貯金してるの。
娼館なんて行く余裕あるわけないじゃない」
ルシアンは顎をさすり、眉を寄せた。
「……へぇ。そうなのか」
アンナはふっと目を細め、自分の髪を撫でる。
「アランが言ってた。“自分は貴族に向いてない”って。
宝石や高級品にも興味が持てない。
その上、気が弱くて頭も良くないけど……見た目だけはいいでしょ?
寄宿学校でも、散々いじめられたって言ってたわ」
――彼の“素行の悪さ”は、誰かに作られた噂なのかもしれない。
「貯金は、何のために?」
ルシアンの問いに、アンナの茶色の瞳がかすかに曇った。
「それは……言えないわ。ごめんなさい」
短い沈黙のあと、ルシアンは紅茶を飲み干し、微かに笑んで頭を下げた。
「ご馳走になった」
◇◇◇
扉を出ると、冷たい霧が頬を撫でた。
ルシアンは外套の襟を立て、静かに息を吐く。
遠くでガス灯が揺れ、街のざわめきが霧に呑まれていく。
彼はひとつ頷くと、暗い霧の中へ歩みを進めた。




