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7  霧の街のパン屋

 王都オルドンの下町の外れ――夕暮れのミルフォード貨物駅。

 錆びた線路を這うように、荷車を押す男たちの怒号が飛び交い、油と鉄の匂いが霧と混ざって漂っていた。

 その中を、黒の外套を羽織った男が歩く。

 制服のオリーブグリーンを隠すように、外套の裾だけが規律正しく揺れる。


「兄貴だ!」

 霧の向こうから小さな声。

 ルシアン・ヴェイルを見つけたミストラッツの少年少女たちが、一斉に駆け寄ってきた。


「ほら、一個ずつやるから慌てるな」

 いつものようにポケットからトフィーを取り出し、一人ずつの掌に落としていく。

「今日はどうしたの?」

 短い黒髪のトビーが問う。今は彼が、ピップに代わってミストラッツをまとめていた。


 ルシアンは視線の届かない場所に転がっていた木箱に腰を下ろした。

 子どもたちは思い思いにその周りへ集まり、まるで焚き火を囲むように彼の言葉を待つ。


「人を探してる。アラン・モートンという青年だ」

 ルシアンの隣で、赤毛を二つに結んだエルザが首を傾げた。

「モートンって……侯爵家のモートン?」

 その名を口にした瞬間、ルシアンの眉が動いた。

「知っているのか?」


 エルザとトビーは顔を見合わせて、楽しげに笑った。

「知ってるよ!」とエルザ。

「下町じゃ有名だもん。本人は隠してるつもりらしいけどさ」とトビーが続ける。


「案内してくれるか?」

 ルシアンの問いに、エルザが空を見上げる。

 その視線を追ったトビーが慌てて立ち上がった。


「兄貴、アラン兄ちゃんに会いたいなら急いだ方がいい」

「そうだよ。パン屋の朝は早いもんね。早く行かないと寝ちゃうよ」

 ルシアンの眉がますます寄る。

「……パン屋?」


◇◇◇


 トビーとエルザの後を追って、ルシアンは霧の路地を歩いた。

 昼は市場で賑わう通りも、日が沈めば店の扉は固く閉ざされ、代わりに酒場から笑い声と煙が溢れていた。

 石畳を踏む音が響くたび、灯り始めたガス灯が霧の中でぼんやりと滲む。


 二人が細い路地に折れる。

 ルシアンが早足で追いかけると、彼らは迷うことなく、粗末な貸家の扉を軽く叩いた。


「おい、待て。遠くから見るだけで――」


 言い終わる前に、扉が開いた。


 茶色の髪を背中まで垂らした若い女性が顔を覗かせる。

「こんばんは。おチビさんたち、どうしたの?」

 簡素な服装に、少し疲れの滲む笑顔。だが声は穏やかで柔らかかった。


「アラン兄ちゃんに会いたいって人がいるんだ」

 トビーが言うと、扉の奥から別の影が現れる。


 淡いミルクティー色の髪を束ねた青年――。

 質素な平民服に身を包んでいるが、長い指先や立ち居振る舞いは貴族のそれ。

 ルシアンは息を呑む。


 絵本の王子のような顔立ち。

 琥珀の瞳が彼を捉えた瞬間、青年の瞳が大きく揺れた。


 ――間違いない。この男が、アラン・モートンだ。


 青年の視線が、ルシアンの外套の下のオリーブグリーンを捉えた途端、肩が跳ねた。

「いないって言って!」

 そう叫んで部屋の奥へと引っ込む。直後に「ガシャン!」と何かが倒れる音。


 呆然と立つルシアンに、女性が苦笑しながら肩をすくめた。

「あっはは。もう見られてるのに、隠したって無理よ。――アラン、出てきなさい」

 そしてルシアンに向き直る。

「ごめんなさいね、変な人で」


 ルシアンは軽く頭を下げた。

「こんばんは。ルシアン・ヴェイルと申します」

「どうぞ入って」


 霧の外から暖かなパンの匂いが流れ込む。


 ルシアンが視線を下げると、トビーとエルザが胸を張って彼を見上げていた。

 ポケットの中を探り、追加のトフィーを二人に渡す。

「今日はこれしかないんだ。礼はまた今度な」

 二人は破顔して、「やった!」「絶対ね!」と言うと、夕霧の中へと駆けていった。


 ルシアンは彼らの背中を見送り、穏やかな光に包まれた部屋の中へ、静かに足を踏み入れた。


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