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43 静かな街角で

 エルザが貧民街の近くまで戻ってくると、背後から声がした。


「エルザ!」

「トビー!」


 黒髪を跳ねさせ、トビーが坂の下から駆けてくる。

 息を切らせながらも笑顔で、彼はエルザの前で立ち止まった。


「帰ってきたのか」

「うん」


 ガス灯の橙の光が、二人の影を石畳に重ねる。

 トビーがまじまじとエルザを見つめた。


「……なんか、綺麗になったな」

「何言ってんの?」

「髪がツヤツヤしてる」

「あはは。修道院生活のせいかもね」


 ふたりの笑い声が、夕暮れの静かな街路に溶けていく。

 街はまだ比較的整った庶民街。

 だが、風に乗って遠くの貧民街からすえた匂いが流れてくる。

 酒場の窓から男たちの笑い声、煙草屋の少年の呼び声――

 それらがひっそりと響いて、どこか懐かしい。


「お前さ、修道院に行くって、母ちゃんに言わないで出ただろ」

「うん。いなくても気づかないんじゃない?」

 トビーは眉をひそめた。

「んなわけあるか。大変だったんだぞ?  “あたしのエルザをどこへやった”って大騒ぎしてた」

「使いっ走りがいなくて不便だっただけでしょ?」

 エルザは肩を竦める。

 トビーはその仕草に苦笑して、頬をかいた。

「……そういう感じじゃなかったけどな」


 細い路地に入ると、ガス灯の光が届かなくなり、空気が少し湿ってくる。

 エルザは跳ねるように前へ出て、振り向いた。


「トビーは、私がいなくて寂しかった?」


 その瞬間、トビーの顔がみるみる赤くなる。

 橙の灯の下でも、それがはっきり分かるほどに。


 答えられないトビーを見て、エルザは少し苦く笑った。

 そして、伏し目がちに言葉を続ける。


「アラン兄ちゃんね、この国を出て一からやり直すんだって。

 パン屋さんだったけど、本当は外国語もできるし、教養もあるからさ。

 国外で翻訳の仕事を探すんだって」


「ふぅん」

「それでね、私も一緒に来ないかって」

 エルザは足もとに転がっていた小石を軽く蹴る。


「え……なんで?」

「モートン家のせいで大変な思いしたから、かな」


「行くの……?」

 トビーの声が、ほんのわずかに震えていた。


「みんな、いい話だって言うよ。

 確かにここで暮らしてるより、ずっといいのかもしれない」

「で、でも――」

「トビーはどう思う?」


 エルザが立ち止まると、トビーは衝動的にその両手を掴んだ。


「ミストラッツは……どうするんだよ」

「ミストラッツは、あんたがいれば大丈夫でしょ」


 エルザの黒い瞳がまっすぐに彼を見た。

 夜空のように深いその瞳に、ガス灯の灯が揺れる。

 トビーは息を呑み、言葉を絞り出した。


「……行かないでほしい」


 エルザが瞬きをする。

 やんちゃで元気なトビーの声が、今は掠れていた。


「行かないで。エルザ」


 その言葉に、彼女の瞳から涙がこぼれた。

 一粒、また一粒と落ちて、石畳に淡く滲んでいく。


「私、そう言ってほしかったみたい」


 エルザが目を閉じると、涙が頬を伝い落ちた。


「変だよね。こんな汚い街で、嘘ばっかりの母親もいて、毎日食べるのも大変で……でも、遠くに行きたくないって思ってる」


 その声は震えて、トビーにしか聞き取れないほど小さかった。


「ここにいてよ、エルザ」

「うん。ここにいるよ。――私の街だもん」


 トビーはそっと彼女の肩を抱き寄せた。

 彼女の涙が、少年のシャツを濡らしていく。

 遠くで鐘の音が響いた。

 夜風が二人の間を通り抜け、街の匂いを運んでくる。


「私、この汚い街が、なんだかんだ好きみたい」


 すすり泣きは、遠くの喧騒に紛れて消えていった。

 けれど――その街のざらついた息遣いは、どこまでも優しく、確かに生きていた。


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