37 霧の底で
夜の帳が降りた王都オルドン。
王立裁定院の官舎の一角――その一室の窓だけに、まだ灯が残っていた。
部屋の中では、書類の山が机の上を占拠している。
灰皿には吸い殻が二本、冷めたコーヒーが一杯。
その中央で、ルシアン・ヴェイルがインクの染みた指で調書をめくっていた。
ノック。
無言。
再び、少し強めにノック。
ため息のあと、低い声が返る。
「……誰だ」
「友人です」
「……治安監察局の人間が“友人”って言葉を覚えるとはな」
鍵が外れ、扉が開く。
ルシアンは無造作にシャツの袖をまくり、乱れた髪を掻き上げながら、面倒そうに相手を見た。
アーサー・グレイ――治安監察局の若き実務官。整った顔立ちに、きっちり留められたネクタイ。対照的な二人だった。
「夜分遅くすみません、ルシアンさん」
「どうせ帰らねぇくせに、殊勝な言い方すんな」
「その通りです」
「素直でよろしい」
アーサーは机の端の書類をかき分け、持参した封筒を差し出した。
「例の娼館、裏口の出入り記録が更新されていました。
それと……モートン家宛の書簡の写し。文体からして、例の“伯爵”でしょう」
ルシアンの指がぴたりと止まる。
ちらと視線だけを上げて、低く呟いた。
「……あの爺さん、本当に気持ち悪いな」
「えぇ。口では否定しても、筆跡は正直ですね」
「ったく、筆跡鑑定が趣味ってのもどうかしてる」
「仕事ですよ」
ルシアンが鼻を鳴らして笑う。
彼は机の上の地図に赤鉛筆を走らせ、アーサーは隣で記録を取っていく。
紙とインクの匂いが満ちる狭い部屋で、二人の呼吸だけが一定に響いていた。
「……そういえば、ルシアンさん」
「なんだ」
「意外といい体してますよね。どんなトレーニングを?」
「うるさいな。なんでもいいから手を動かせ」
「観察は大事なんです」
「観察って言葉の使い方、間違ってるぞ」
「失礼」
軽口の合間にも、紙の束が次々と整理されていく。
アーサーの整然とした筆記と、ルシアンの感覚的な線引き。
理論と勘が、不思議な均衡で机の上に並んでいた。
夜風がカーテンを揺らす。
ルシアンが一本の紙を摘み上げた。
「……こいつだな」
アーサーが顔を上げる。
「決め手を?」
「まだだ。ただ、臭いがする」
「煙草ですか?」
「腐った金の臭いだよ」
外では霧が立ちこめ、街の灯がぼんやりと滲んでいる。
アーサーは時計を見た。
「午前一時五十二分。もうすぐですね」
「そうだな。……そろそろ行くか」
ルシアンがコートを羽織り、無造作に腰のホルスターを確かめる。
アーサーも資料を鞄に収めた。
「準備はいいか」
「えぇ。貴方の現場勘、見せてもらいます」
「やめとけ。惚れるなよ」
「心配ありません」
「だろうな」
二人は扉を閉め、静かな廊下に消えた。
その後ろに、灰色の煙が一筋、ゆらりと漂っていた。




