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36 霧の向こうの手

 王立裁定院の朝は、霧の匂いに満ちていた。

 三階の廊下を渡る足音が、磨かれた木の床に小さく響く。

 扉が静かに閉じられると、外の気配はすべて遮断された。


 机の上には二通の封書――ウィンダム侯爵家とモートン侯爵家、それぞれの印章が捺された公式文書が並んでいる。


 エドガー・レイブンズはそれを一枚ずつ開封し、内容を確認した。

 ウィンダム家による婚約破棄の申し出、モートン家による嫡男アラン・モートンの廃嫡届。

 どちらも、端正な筆跡で淡々と記されている。


 彼は羽根ペンを手に取り、裁定文書の末尾に署名を入れる。

 王立裁定院の公印を押すと、赤い蝋がわずかに香り立った。


 これで――手続きは完了した。


 書記官が退室し、静寂が戻る。

 エドガーは一度息を吐くと、机の引き出しを開けた。

 そこには、すでに用意してあった二通の密封書簡が並んでいる。


 一通には「ノルデン公爵閣下 親展」。

 もう一通には「ウィンダム侯爵家当主 チャールズ・ウィンダム閣下 親展」。

 どちらも封蝋には王立裁定院の印。

 細心の計算のもとで選び抜かれた筆致と文面――そして、どちらの封書も、まだ誰にも読まれてはならない。


 机の端に置かれた鉄道時刻表を開く。

 ページの中央に走る細い線を指でなぞり、静かに呟いた。


 「午前八時二十五分発……これなら間に合う」


 ノルドレア公国行きの定期列車。

 そこから接続する港湾都市リーデルまでの汽車、さらにその先に出る定期船――。

 すべての時刻は、彼の頭の中で正確に組み上がっている。


 窓の外では、霧がゆるやかに立ちこめ始めていた。

 街の輪郭が淡く溶け、セイブルの鐘が遠くで鳴る。


 エドガーは窓辺に立ち、指先で硝子を軽く叩いた。

 音はほとんど響かず、霧がそのまま音を呑み込んでいく。


 「……さぁ、鬨の声をあげろ」


 群青の瞳に、青い炎が宿っていた。

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