31 夜のサロン
王都のはずれ。霧と闇を纏うように、赤煉瓦の老舗ティーサロン“クロックフィールド・ハウス”は静まり返っていた。
看板の灯りは落とされ、通りの街灯がわずかに壁を照らしている。
近くで馬車を降りたエドガー・レイブンズは、裏口へと回った。
独特のリズムで戸を叩くと、音もなく扉が開き、老年の給仕長が姿を現す。
「お待ちしておりました」
「いつものように。――鍵は?」
「こちらに」
エドガーは鍵を受け取ると、案内を断り、慣れた足取りで半地下の部屋へ向かった。
ここ“クロックフィールド・ハウス”は、昼はご婦人たちの社交場、夜は選ばれた紳士たちの密談の場となる。
閉店後に残るのは、ごく少数の使用人だけ。
彼らは気配を絶ち、音を殺して、客の来訪を待つ。
古めかしい燭台の光が厚い絨毯を照らす。
蝋燭とブランデーの香りが、沈黙の空気にかすかな華やぎを添えていた。
扉の一つの前に立ち、鍵を回す。
広くはないが、アンティークの調度が整えられた室内は、息苦しいほどの静けさに包まれている。
磨かれたテーブルの上には、真鍮のランプ、ブランデーのボトル、そして二つのグラス。
エドガーは臙脂色のソファに腰を下ろし、背もたれに身を預けて静かに目を閉じた。
……静寂。
やがて、遠くから馬車の車輪の音。
人の気配。
ランプの灯がわずかに揺れた。
エドガーは立ち上がり、服の裾を整える。
扉の前に立ち、指を軽く組んだ。
ノックが三度。
「ウィンダム侯爵閣下がお着きです」
「どうぞ」
扉が開き、赤く滲む廊下の光の中に、金の髪の紳士が立っていた。
エドガーは静かに頭を下げる。
「お待ちしておりました」
リチャード・ウィンダムは軽く手を上げ、口角を上げた。
「いいサロンだな」
侯爵が席に着くと、エドガーも腰を下ろす。
給仕長がブランデーを注ぎ、琥珀の液面がランプの橙の光を受けて揺れた。
甘く豊かな香りが、密やかに室内に広がる。
リチャードがボトルを受け取り、軽く傾けて香りを確かめる。
「よく見つけたな。上等なブランデーだ」
「閣下への特別な花束です。お口に合えば何より」
群青の瞳に灯の炎が映り、わずかに揺らめいた。
リチャードは楽しげに唇を歪める。
「……伊達ではないな」
ボトルを給仕長に返すと、静かにテーブルに戻される。
老給仕は深く一礼し、音も立てずに退室した。
扉が閉まる。
「レイブンズ法務官殿」
「はい」
「我々のことも、よく調べているんだろう?」
エドガーは穏やかに微笑み、少しだけ首を傾ける。
「我がウィンダム家は清廉潔白だ。――誰が何と言おうと」
リチャードはブランデーを揺らし、一口飲む。
「やはり、良い酒だ。君は素晴らしい仕事人だね」
エドガーは軽く頭を下げる。
「我々は、彼らとともに堀の底に沈む気はない。
法を司る者としての君の采配に、従わせてもらおう。……従順に、ね」
エドガーの唇にわずかな笑みが浮かぶ。
「閣下には、“正義の英雄”になっていただきたいのです」
セレーナと同じ青の瞳に、橙の灯が映り込んだ。
エドガーもグラスを取り、ゆっくりと口をつける。熟成された香りが口内に広がる。
「はっはっはっはっ」
リチャードは手を額に当て、愉快そうに笑った。
エドガーも口角をわずかに上げる。
「いいだろう。楽しそうだ」
侯爵は身を乗り出し、手を差し出した。金の髪に光が舞い、ほのかな煙草の香りが漂う。
「――詳しく聞かせてもらおうか」
「ありがとうございます」
エドガーはその手を握った。
群青の瞳と、青の瞳が正面からかち合う。
外では霧と夜の帳が、すべてを覆い隠そうとしていた。
遠くで、鐘の音が一つ、かすかに響いた。




