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29 密やかな取引

 王都オルドン旧市街――王立裁定院の裏手に延びる石畳の通り。

 午後の陽が傾き、通りの片側だけが淡い金色に染まっている。

 その向かい合わせに、古い時計店とティーサロンが並んでいた。時計店の窓越しに見える振り子が、午後三時を指して揺れている。

 その向かい、重厚な木扉には金の猟犬のレリーフ。

 “グレイハウンド・ティーサロン”――王都でも屈指の格式を誇る老舗であり、表向きは貴婦人たちの社交場、裏では裁定院関係者が極秘の面会に使う場所でもあった。


 彼の靴音は石畳に吸い込まれ、扉を押す音だけが短く響いた。


 中は厚い絨毯が敷かれ、柔らかな茶葉と蜜蝋の香りが漂う。

 午後の光は薄いレース越しに落ち、室内を琥珀色に染めていた。

 壁の懐中時計が静かに時を刻み、その音がかえって沈黙を際立たせている。


 エドガーは現れた給仕に軽く会釈し、声を出さずに指で“二”を示す。

 給仕は心得たように頷くと、奥の廊下へと彼を案内した。

 カップの音が遠のき、やがて廊下の奥に、ベルベットのカーテンで仕切られた小部屋が見えてくる。


 扉をくぐると、外光の届かない半地下の個室。

 真鍮のランプが温かな光を放ち、中央の丸いテーブルに淡く影を落としていた。

 あらかじめ用意されたティーポットからは、紅茶の湯気が静かに立ち上っている。

 それは裁定院御用達の特別なブレンド――アッサムにわずかに薬草を混ぜた香りだ。

 官僚たちが「秘密を語るための茶」と呼ぶものだった。


 エドガーは椅子に腰を下ろし、帽子を膝に置く。

 ゆっくりと紅茶を注ぎながら、表面に映る光を眺めた。

 午後の陽の名残が、時間を封じ込めるように揺れている。


 ――そのとき、廊下の奥で気配がした。厚い絨毯が足音を吸い込み、ただ空気だけがわずかに動いた。

 ノックが三度、給仕の低い声が続く。


 「ウィンダム令嬢がお見えです」


 「――どうぞ」


 カーテンが静かに開き、淡い金の光が流れ込んだ。

 セレーナ・ウィンダム。

 絹糸のような金髪が光を受けて輝き、澄んだ青の瞳が、室内を見渡す。

 淡い水色のドレスの裾が床をかすめ、胸元のブローチがきらりと瞬いた。


「……お待たせしてしまいましたわね、レイブンズ様」


 エドガーはゆるやかに立ち上がり、帽子を椅子の背にかけた。

 軽く一礼し、右手で彼女の前の椅子を示す。

「お越しいただきありがとうございます、セレーナ嬢。

 午後の光に映えるその髪と装いが――まるで、湖に落ちた月光のようですね」


 セレーナはわずかに微笑み、椅子に腰を下ろす。

「貴方のような方にそう言われると、鏡を見るのが怖くなりますわ」


 エドガーはその言葉に口角をわずかに上げた。

 二人の間に、紅茶の香りがゆるやかに満ちていく。


「貴方からお声掛け頂けるとは、意外でしたわ」

「……貴女に声をかけない紳士などいないのでは?」


 青い瞳が、席に着いたエドガーの群青の瞳をゆっくりと見つめる。ランプの灯りが差し込み、水面が揺れるようだった。

 セレーナは扇子で口元を覆う。

「まぁ……怖い方。

 わたくしのアランは不器用でしょう?

 お話を聞かせてくださる?」


 エドガーは穏やかな低い声で話し始めた。


「単刀直入に申し上げますが、アラン殿は、貴女を守るためにあのような行動に出ました」

「……それは、察しておりましたわ。悪い方ではないもの。むしろ、愚直な方です」

「貴女の名を少しでも汚さぬようにと、悪徳令息らしい振る舞いをした。

 貴族になりきれない自分に、貴女は勿体ないと。

 それから、あの家に貴女を迎えてはいけない、と」


 セレーナが一口、カップに口をつける。

 そして、静かにそれを置いた。

 

「あの家と縁付くことで、我がウィンダム家はより、気高い家として名をあげますわ」


「それだけで済むでしょうか。貴女の身も、名も、常に危険にさらされる」

 

 低いランプの灯りが、黒髪を青めかせる。エドガーが少し首を傾げると、背の髪がさらりと揺れた。


「ある意味、あの家は本物です。

 私から見れば、あの家の橋は既に堀に落ちている。あとは、火を射るだけです」


 セレーナは静かに息を呑んだ。


「……そう。そこまで」


「火を射る前に、一つ、貴女に手を貸していただきたいのです。

 アラン殿をお救いするために。

 貴女の家をより高みへお連れするために」

 

 エドガーの瞳に橙の光が差し込み、炎のように灯る。

 セレーナの口角が少しだけ上がった。


「貴方こそ、霧に沈む湖のような方ね。

 いいわ、父に話してみます。

 一つだけ、貴方に聞いてみたいことがありますの。率直に答えてくださる?」


「私で答えられることであれば」


 セレーナはその細い指で、カップの縁に触れた。

「アランには、恋人がいるの?」


 エドガーは目を伏せ、小さく一度、頷いた。


「そう。わたくしは振られたのね」


 音も立てずに、彼女は立ち上がる。

「また、お会いできる?」

「それは、オルドンの霧だけが知っているでしょうね」

「わたくしに声をかけない紳士なんていないっておっしゃったわ」

「私は、しがない法務官ですから」

 エドガーも立ち上がり、小さく一礼した。

 セレーナは楽しげに微笑む。

「湖よりも、霧そのものね。ごきげんよう」


 カーテンの向こうに、金の光が消えていく。

 エドガーは席に着くと、カップを持ち上げて冷えた紅茶を一口飲んだ。

 その口角が、少しだけ持ち上がる。


 

 面会を終えて出てきたセレーナを、待機していた侍女が黙って外套で包んだ。

 旧市街には、霧が落ちている。

 御者の手を借りて馬車に乗り込むと、侍女が静かに窓を閉めた。

 

 セレーナは膝の上に手を重ねる。


「わたくしだって、アラン一人くらい守れたわ。……本当に仕方のない人ね」


 その小さな呟きは、馬車の音にかき消され、オルドンの霧に人知れず溶けていった。

 

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