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25 霧の夜に

 ピップはため息をつくと、エルザの前に静かに立った。

「……あのさ、部屋を出て、散歩に行こうよ」

「なんで?」

 エルザが顔を上げると、少し顔を赤らめたピップが視線を壁に投げながら小さい声で言う。

「一応、俺たちまだ子どもだけど……男と女だからさ」

 彼女は椅子から足を下ろし、ピップの手を取り、真っ直ぐに彼の目を見た。

「ピップならいいよ」

「……え」

 眉をひそめ、ピップの茶色の瞳がランプの明かりを受けて揺れる。


「ピップなら、そういうことしてもいい。あの貴族の変態とかは勘弁してほしいけど。ピップならいい」

 ピップはエルザの手を振りほどき、一歩下がった。

「だ、ダメだよ! そういうのはダメだ!」

「……なんであんたが泣いてんのよ」

「いいから行くよ!」


 ピップはエルザの腕を掴み、半ば強引に部屋の外へ連れ出した。

 扉を閉めると、冷たい霧の気配がふたりを包む。


 夜の修道院。

 遠くから梟の鳴き声。

 遺構の方角からは、ゆらりと生ぬるい風が吹き、霧に頬が濡れた。


 ふたりは手をつないで、早足で回廊を抜ける。

 小さな足音が二人を追いかけてくるようにこだましていた。

 やがて開けた庭の一角――古い噴水跡のそばに、石のベンチがあった。

 並んで腰を下ろすと、冷たい石の温度に体がふるりと震え、息が白く滲んだ。

 

 風が葉を揺らす音だけが、暗闇にカサリと落ちていく。霧のせいで殆ど星は見えない。


 エルザが腕をさすると、ピップは手につかんでいたコートを彼女の肩に掛けてやった。


 そうして、ピップは一つだけ息を吐くと、静かに話しだした。


「俺、孤児だったんだ」

「知ってる」

「王都の大聖堂にいた。読み書きや礼儀作法を叩き込まれた。

 でも、大人が皆汚くて……嫌な場所だった。だから逃げた」

 彼の横顔が月に照らされる。いつもは穏やかな茶色の瞳が少し大人びて見えた。

「……」

「お腹が空いて、もうダメかもって時に、ルシアンに拾われたんだ」

「ルシアンも変わり者だもんね」

「ふふ。そうだね。兄貴の手伝いをすると、食べ物をくれた。

 大きな仕事のときは小銭もくれる」


 ピップがエルザの方を向き、小さく笑った。その笑顔にエルザは少しだけ安堵する。

「うん」


「他の子も誘っていいって言われて……俺みたいな寂しいやつを集めた。

 誰も仲間外れにされない、みんなの場所を作りたかったんだ」

「ミストラッツね」

「トビーもフィンもリタも、みんな俺の仲間。

 みんな大好きで、大事な仲間」

「うん」


 ピップは夜空を見上げる。霧の向こうに、月が滲んでいた。


「エルザ、君もだよ」


 エルザが小さく息を呑む。


「……」


「お願いだよ。自分のこと、大切にして。

 貧民街の子どもは、そういうのを大切にしない。

 生きるために、自分を簡単に消費しちゃう。

 でも――エルザ。俺は、君にはそうなってほしくない。

 わがままかもしれないけど」


 ピップは拳を膝の上でぎゅっと握った。

「文字の読み書きができれば、少しいい仕事に就ける。俺が教える。

 だから、もう二度とあんなこと言わないで」


 沈黙が落ちる。


 霧の冷たさが肌を刺す。


 エルザがゆっくり顔を上げると、ピップの目尻に光るものがあった。


「ピップ……泣かないでよ。バカね」

「エルザも泣いてるじゃないか」

「泣いてない」

 ピップがそっと手を伸ばして、エルザの頬に触れる。

「じゃあ、これは何?」

「……霧でしょ?」

 ピップがふっと笑った。

「ふふ……意地っ張り」


 二人で、少しだけ笑った。

 白い霧の向こう、溶けそうな月が静かに浮かんでいる。


 その光は、まるで遠い未来を指し示すように――

 霧の底で、鐘の音がひとつだけ鳴った。

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