表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/45

23 静けさの午前

 鐘の音が、霧の庭にゆるやかに響いた。

 セント・アシュウェル修道院の朝は、祈りの声から始まる。

 灰色のローブを纏った修道女たちが、淡い光の回廊を静かに行き交い、厨房からは焼きたての黒パンの香りが漂っていた。


 ピップとエルザは、客人棟で簡素な朝食を終えると、残された静寂を持て余していた。

 窓の外では霧が流れ、遠くの鐘楼が霞んで見える。

 何もしないで過ごすことに慣れていない二人は、そわそわと視線を交わした。


「ねえ、ピップ……外出てみない?」

「うん。俺も、じっとしてるの苦手だ」


 扉を開けて回廊に出ると、ちょうどサミュエル司祭が書物を抱えて通りかかった。

 彼は穏やかに微笑み、足を止める。

「お二人とも、よく眠れましたか?」

「はい。……あの、僕たち、何か手伝えることはありますか?」


 ピップの言葉に、サミュエルの瞳が柔らかく揺れた。

「あぁ、それはありがたい。では、庭の花を摘むのを手伝ってもらえますか。

 祭壇に飾る花でしてね」


 クロイスターを抜けると、中央の庭には霧の薄れた陽が差していた。

 紫の小花が揺れ、ミツバチの羽音が静寂に溶ける。

 エルザは夢中で花を摘み、ピップは隣で手を動かしながら、修道女たちの穏やかな声を耳にしていた。


 ――叱る声がしない。

 ――怒鳴る人がいない。


 ふと、胸の奥で、記憶の扉が軋んだ音を立てた。


 ……あの大聖堂の孤児院。

 白い壁の中で、子どもたちの泣き声が響く。

 読み書きを間違えれば、杖の音が飛ぶ。

 “素養のある子”だけが褒められ、他の子はパンの端を分け合った。


 ピップは字を早く覚えた。

 だから、いつも腹いっぱい食べられた。

 けれど――その向こうで、飢えた友の目が、いつも彼を見ていた。


 なんで、僕だけ……?

 こんなの、間違ってる。


 夜明け前、彼は古い外套を引っかぶり、こっそり外へ出た。

 冷たい石段を下り、雨の路地裏を歩いた。

 乞食の子どもたちの真似をして、なんとか食べ物にありつく日々。

 だけど、冬の越え方はわからなかった。

 腹が減りすぎて、寒すぎて、足が震えて……壁にもたれかかったとき――

 「お前、腹減ってんだろ」

 暗がりから声がして、ルシアンが立っていた。

 「……誰?」

 「俺はルシアン。ちょっと面白い仕事をしててな。手が足りねえんだ」

 その夜から、ピップは二度と大聖堂に戻らなかった。


 彼は乞食仲間を集め、行き場をなくした子どもたちを誘った。

 誰も仲間外れにしない場所。

 それが“ミストラッツ”の始まりだった。


 思い出の底に沈んでいた声が、サミュエルの呼びかけで現実に戻る。

「ピップさん?」

「……あ、すみません。少し考えごとを」

「ここは静かでしょう? 王都とは違います」

 サミュエルが花籠を抱えながら、微笑んだ。


 ピップはうなずき、ぽつりと漏らす。

「ええ……ここの人たちは、みんな清廉で。

 王都の大聖堂の大人たちとは、まるで違う」


 その言葉に、サミュエルの表情が一瞬だけ曇った。

「……分かりますよ」

 そして小さく笑う。

「私も、あそこにいたんです。華やかでしたが、もう戻りたくありません」


 沈黙。

 庭を渡る風が、二人の袖を揺らした。


 遠くの鐘が鳴る。


 ピップが花籠を抱えたエルザを見て「すごいな」と言うと、エルザはそっけなく肩をすくめた。

「褒めても何も出ないよ」

「出なくても、言う価値はある」

 その真顔に、エルザはふっと目をそらす。

「……ピップは、ほんと真っすぐだよね」

 どこか拗ねたような声。けれどその口元は、少しだけ笑っていた。


 ピップは彼女の言葉を聞きながら、青い空を見上げる。

 霧が晴れかけた光の中で、彼はふとつぶやいた。

「――サーがここを選んだ理由が、少し分かる気がする」


 サミュエルは短く息を吐いて笑い、

「そうかもしれませんね」とだけ言った。


 けれどその声は、どこか遠くで震えていた。

 静かすぎる修道院の空気が、また少し冷たくなる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ