23 静けさの午前
鐘の音が、霧の庭にゆるやかに響いた。
セント・アシュウェル修道院の朝は、祈りの声から始まる。
灰色のローブを纏った修道女たちが、淡い光の回廊を静かに行き交い、厨房からは焼きたての黒パンの香りが漂っていた。
ピップとエルザは、客人棟で簡素な朝食を終えると、残された静寂を持て余していた。
窓の外では霧が流れ、遠くの鐘楼が霞んで見える。
何もしないで過ごすことに慣れていない二人は、そわそわと視線を交わした。
「ねえ、ピップ……外出てみない?」
「うん。俺も、じっとしてるの苦手だ」
扉を開けて回廊に出ると、ちょうどサミュエル司祭が書物を抱えて通りかかった。
彼は穏やかに微笑み、足を止める。
「お二人とも、よく眠れましたか?」
「はい。……あの、僕たち、何か手伝えることはありますか?」
ピップの言葉に、サミュエルの瞳が柔らかく揺れた。
「あぁ、それはありがたい。では、庭の花を摘むのを手伝ってもらえますか。
祭壇に飾る花でしてね」
クロイスターを抜けると、中央の庭には霧の薄れた陽が差していた。
紫の小花が揺れ、ミツバチの羽音が静寂に溶ける。
エルザは夢中で花を摘み、ピップは隣で手を動かしながら、修道女たちの穏やかな声を耳にしていた。
――叱る声がしない。
――怒鳴る人がいない。
ふと、胸の奥で、記憶の扉が軋んだ音を立てた。
……あの大聖堂の孤児院。
白い壁の中で、子どもたちの泣き声が響く。
読み書きを間違えれば、杖の音が飛ぶ。
“素養のある子”だけが褒められ、他の子はパンの端を分け合った。
ピップは字を早く覚えた。
だから、いつも腹いっぱい食べられた。
けれど――その向こうで、飢えた友の目が、いつも彼を見ていた。
なんで、僕だけ……?
こんなの、間違ってる。
夜明け前、彼は古い外套を引っかぶり、こっそり外へ出た。
冷たい石段を下り、雨の路地裏を歩いた。
乞食の子どもたちの真似をして、なんとか食べ物にありつく日々。
だけど、冬の越え方はわからなかった。
腹が減りすぎて、寒すぎて、足が震えて……壁にもたれかかったとき――
「お前、腹減ってんだろ」
暗がりから声がして、ルシアンが立っていた。
「……誰?」
「俺はルシアン。ちょっと面白い仕事をしててな。手が足りねえんだ」
その夜から、ピップは二度と大聖堂に戻らなかった。
彼は乞食仲間を集め、行き場をなくした子どもたちを誘った。
誰も仲間外れにしない場所。
それが“ミストラッツ”の始まりだった。
思い出の底に沈んでいた声が、サミュエルの呼びかけで現実に戻る。
「ピップさん?」
「……あ、すみません。少し考えごとを」
「ここは静かでしょう? 王都とは違います」
サミュエルが花籠を抱えながら、微笑んだ。
ピップはうなずき、ぽつりと漏らす。
「ええ……ここの人たちは、みんな清廉で。
王都の大聖堂の大人たちとは、まるで違う」
その言葉に、サミュエルの表情が一瞬だけ曇った。
「……分かりますよ」
そして小さく笑う。
「私も、あそこにいたんです。華やかでしたが、もう戻りたくありません」
沈黙。
庭を渡る風が、二人の袖を揺らした。
遠くの鐘が鳴る。
ピップが花籠を抱えたエルザを見て「すごいな」と言うと、エルザはそっけなく肩をすくめた。
「褒めても何も出ないよ」
「出なくても、言う価値はある」
その真顔に、エルザはふっと目をそらす。
「……ピップは、ほんと真っすぐだよね」
どこか拗ねたような声。けれどその口元は、少しだけ笑っていた。
ピップは彼女の言葉を聞きながら、青い空を見上げる。
霧が晴れかけた光の中で、彼はふとつぶやいた。
「――サーがここを選んだ理由が、少し分かる気がする」
サミュエルは短く息を吐いて笑い、
「そうかもしれませんね」とだけ言った。
けれどその声は、どこか遠くで震えていた。
静かすぎる修道院の空気が、また少し冷たくなる。




