表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/45

18 閑話 花と栞

 ――これは少し前のお話。


 アンナの花屋は、王都でも評判の店だった。

 貴族の邸宅に花を納めることも多かったが、彼女自身はいつも庶民街の店先に立ち、手を泥で汚しながら花を束ねていた。

 だからこそ、貴族の屋敷に足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。


 人手不足で急遽駆り出されたアンナは、花を満載した馬車を引いてモートン家の裏門へ向かった。

 花の確認をする使用人の後ろで、彼女はそっと馬車の花を見回す。

 一本だけ、花弁の先がしおれている。

 「これでは叱られてしまう」と焦り、慌ててその花を抜き取った、その時――


「その花、どうするの?」


 背後から、静かに響く男性の声。

 アンナは肩を震わせて振り返る。

 そこに立っていたのは、淡いミルクティー色の髪と瞳を持つ、上品な青年だった。

 優雅な立ち姿と、柔らかな声。すぐにモートン家の令息だと察して、アンナは顔を青ざめさせる。


「く、くすねたわけではありません! 萎れてしまっていたので、納品できないと思って……!」

 早口で言い訳をすると、青年は小さく目を細めて微笑んだ。

 その微笑みがあまりに穏やかで、アンナは胸が熱くなる。


「責めてるわけじゃないよ。その花、捨ててしまうのかい?」

「え……はい」

「じゃあ、もらってもいい?」


 返事を待たずに、青年は花をそっと彼女の手から抜き取った。

 花を鼻先に寄せ、静かに香りを確かめる。

 その仕草がひどく丁寧で、アンナは息をするのを忘れた。


「いい香りだ。ありがとう。……もらっていくよ」


 そう言って彼は軽く会釈し、去っていった。

 その背を見送るアンナの胸には、ふわりと残り香のような温かさが広がっていた。



 数日後、再びモートン家への納品の手伝いを頼まれた。

 アンナは表には出さないが、心のどこかで彼にまた会えるかもしれないと思っていた。


 邸の中庭で、ミルクティー色の髪が淡い光を受けて揺らめくのを見つける。

 彼は脇に本を抱え、静かに歩いていた。どこか儚げで、見ているだけで胸が締めつけられる。


 彼の瞳がアンナを見つけ、優しく細められた。

 小走りで近づくと、抱えていた本を開いて見せる。

 そのページには、前に彼女が渡した花が押し花になり、同色のリボンが添えられていた。


「栞にしたんだ」

「……かわいい」


 アンナが戸惑いながら手を伸ばすと、彼はその栞をそっと彼女の手に握らせた。

「本当?」

「本当にかわいいわ」


 青年は子どものように嬉しそうに笑った。

「俺の周りの人間は、こんなのくだらないって言うんだ。でも君が褒めてくれて嬉しい。……自分では、少し綺麗にできたと思う」


 アンナはその笑顔に目を奪われ、言葉が出なかった。

「欲しい?」

「……いただいても?」

「君が欲しいなら。もっと長いリボンを使えばよかったな。シルクだから、売ったらお金になったのに」


 寂しげに笑うその瞳を見て、アンナは息を呑んだ。

 ――この人の周りには、心で物を見てくれる人がいないんだ。


「リボンなんてなくても素敵です! それに、売るなんてしません。大事にします、宝物にする!」

 青年の目が大きく見開かれ、わずかに潤んだ。

「君は……本当に素敵な人だね。ありがとう。嬉しいよ」

「あなたの方こそ、素敵な人です」


 彼は困ったように笑うと、アンナの手の栞に指先で触れた。

「宝物になんてしなくていい。……でも、君がもらってくれたことが、俺にとっての宝物だ」


 その言葉を残して、彼は静かに背を向けた。

 去っていく背中が、あまりにも寂しげで――アンナは胸の奥が締めつけられるのを感じた。



 それからしばらくして。

 夕暮れの花屋の店先に、ふいにあの青年が現れた。

 アンナは思わず花束を落としそうになる。


「……どうしたんですか?」

「家出してきた。匿って」


 まるでいたずらっ子のような笑顔で、彼は言った。

 アンナは呆れながらも、すぐにその手を取った。


 貴族になりきれず、少し不器用で、どこか寂しげな人。

 けれど――優しくて、誰よりも綺麗な心を持っている人。


 アンナの恋人、アラン・モートンは、そんな人だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ