18 閑話 花と栞
――これは少し前のお話。
アンナの花屋は、王都でも評判の店だった。
貴族の邸宅に花を納めることも多かったが、彼女自身はいつも庶民街の店先に立ち、手を泥で汚しながら花を束ねていた。
だからこそ、貴族の屋敷に足を踏み入れるのは、この日が初めてだった。
人手不足で急遽駆り出されたアンナは、花を満載した馬車を引いてモートン家の裏門へ向かった。
花の確認をする使用人の後ろで、彼女はそっと馬車の花を見回す。
一本だけ、花弁の先がしおれている。
「これでは叱られてしまう」と焦り、慌ててその花を抜き取った、その時――
「その花、どうするの?」
背後から、静かに響く男性の声。
アンナは肩を震わせて振り返る。
そこに立っていたのは、淡いミルクティー色の髪と瞳を持つ、上品な青年だった。
優雅な立ち姿と、柔らかな声。すぐにモートン家の令息だと察して、アンナは顔を青ざめさせる。
「く、くすねたわけではありません! 萎れてしまっていたので、納品できないと思って……!」
早口で言い訳をすると、青年は小さく目を細めて微笑んだ。
その微笑みがあまりに穏やかで、アンナは胸が熱くなる。
「責めてるわけじゃないよ。その花、捨ててしまうのかい?」
「え……はい」
「じゃあ、もらってもいい?」
返事を待たずに、青年は花をそっと彼女の手から抜き取った。
花を鼻先に寄せ、静かに香りを確かめる。
その仕草がひどく丁寧で、アンナは息をするのを忘れた。
「いい香りだ。ありがとう。……もらっていくよ」
そう言って彼は軽く会釈し、去っていった。
その背を見送るアンナの胸には、ふわりと残り香のような温かさが広がっていた。
◇
数日後、再びモートン家への納品の手伝いを頼まれた。
アンナは表には出さないが、心のどこかで彼にまた会えるかもしれないと思っていた。
邸の中庭で、ミルクティー色の髪が淡い光を受けて揺らめくのを見つける。
彼は脇に本を抱え、静かに歩いていた。どこか儚げで、見ているだけで胸が締めつけられる。
彼の瞳がアンナを見つけ、優しく細められた。
小走りで近づくと、抱えていた本を開いて見せる。
そのページには、前に彼女が渡した花が押し花になり、同色のリボンが添えられていた。
「栞にしたんだ」
「……かわいい」
アンナが戸惑いながら手を伸ばすと、彼はその栞をそっと彼女の手に握らせた。
「本当?」
「本当にかわいいわ」
青年は子どものように嬉しそうに笑った。
「俺の周りの人間は、こんなのくだらないって言うんだ。でも君が褒めてくれて嬉しい。……自分では、少し綺麗にできたと思う」
アンナはその笑顔に目を奪われ、言葉が出なかった。
「欲しい?」
「……いただいても?」
「君が欲しいなら。もっと長いリボンを使えばよかったな。シルクだから、売ったらお金になったのに」
寂しげに笑うその瞳を見て、アンナは息を呑んだ。
――この人の周りには、心で物を見てくれる人がいないんだ。
「リボンなんてなくても素敵です! それに、売るなんてしません。大事にします、宝物にする!」
青年の目が大きく見開かれ、わずかに潤んだ。
「君は……本当に素敵な人だね。ありがとう。嬉しいよ」
「あなたの方こそ、素敵な人です」
彼は困ったように笑うと、アンナの手の栞に指先で触れた。
「宝物になんてしなくていい。……でも、君がもらってくれたことが、俺にとっての宝物だ」
その言葉を残して、彼は静かに背を向けた。
去っていく背中が、あまりにも寂しげで――アンナは胸の奥が締めつけられるのを感じた。
◇
それからしばらくして。
夕暮れの花屋の店先に、ふいにあの青年が現れた。
アンナは思わず花束を落としそうになる。
「……どうしたんですか?」
「家出してきた。匿って」
まるでいたずらっ子のような笑顔で、彼は言った。
アンナは呆れながらも、すぐにその手を取った。
貴族になりきれず、少し不器用で、どこか寂しげな人。
けれど――優しくて、誰よりも綺麗な心を持っている人。
アンナの恋人、アラン・モートンは、そんな人だった。




