14 朝の光の中で
ルシアンがメアリーから持たされた籠いっぱいのパンを抱えてアランの部屋に入ると、小さな部屋の中には、朝の光と焼きたての香ばしい匂いが満ちた。
暖炉の火はまだかすかに残っており、灰の中で赤い炭が瞬いている。
窓辺では、洗いざらしのカーテンが風に揺れ、光を受けて白く透けた。
丸い木のテーブルの上には、湯気を立てるポットと、昨日の夜から置かれたままの紅茶のカップ。
狭いけれど、どこか温かく、暮らしの息づかいがある部屋だった。
エルザが布巾を濡らし、アランが椅子に腰を下ろそうとしている。
ルシアンはテーブルにパンの籠を置くと、エルザから布巾を受け取り、アランの傷を拭ってやった。
「……侯爵家の長男のくせに、よくやるよ」
そう言いながらも、声は柔らかかった。
窓から差し込む光が、アランの頬を照らす。
ミルクティー色の髪も瞳もやさしい色なのに、どこか寂しげだ。
「……ヴェイルさん、助けに来てくれて、ありがとう」
掠れた小さな声。
エルザが新しい濡れ布巾を差し出す。
ルシアンが受け取ってまた血を拭き取り、何度か繰り返すうちに、ようやく顔の血汚れが落ちた。
その下から浮かび上がる青あざに、ルシアンは目を細める。
アランは軽く頭を下げて布巾を受け取り、自分で目元に当てた。
片目でルシアンを見て、かすかに笑う。
「貴方は……かっこいいな。俺なんて、へっぽこだ」
「俺が助けたんじゃない。このオリーブグリーンの制服が助けたんだ」
ルシアンが肩をすくめると、アランの瞳に淡い笑みが滲んだ。
外では市場が動き始め、野菜を積んだ荷車の車輪が石畳を鳴らす音がかすかに聞こえる。
瓶に差した小さな花が、朝陽を受けて光り、虹色の影を窓枠に落とした。
アランはふらりと立ち上がると、エルザの前に立った。
彼女の額にそっと触れる。
「女の子なのに、顔に怪我してるじゃないか……」
「たいしたことないよ。アラン兄ちゃん、来てくれて嬉しかった」
その言葉に、アランの肩がわずかに震えた。
彼の瞳から、ぽとりと涙が落ちて床を濡らす。
エルザは思わずアランに抱きついた。
「……モートンって聞こえた。きっと父上が君を巻き込んだんだろう?」
エルザは彼の胸に顔を押しつけ、首を振った。
「母さんが嘘をついてるだけだよ。私はモートンの娘なんかじゃない!」
アランは顔を歪め、嗚咽をこらえきれずに涙をこぼした。
「それで狙われたんだ。モートンの娘だと疑われたから……。父上には敵が多すぎる」
彼はエルザを抱きしめ返し、額を彼女の髪に押し当てた。
「ごめんな……怖かったよな。うちのせいで、本当にごめん」
「アラン兄ちゃん、泣きすぎ。私は大丈夫だよ」
ルシアンはその光景を見ながら、鼻を鳴らして目をそらした。
「なぁ、アラン卿――」
「アランでいい」
「じゃあ、アラン。話してくれ。俺たちなら、君が守りたいものを守れるかもしれない」
アランが潤んだ瞳でルシアンを見る。朝の光がその中に星のように反射した。
エルザが背を押し、彼をルシアンの前に座らせる。
「アラン兄ちゃん、ルシアンはいい人だよ。悪いようにはしないって」
アランは静かに頷き、膝の上に手を置く。
そして、ぽつりぽつりと話し始めた。
「俺には妹がいるんだ」
「イザベル嬢のことか?」
「そう。エルザと同い年くらい。優しくて、明るくて……イザベルはモートン家の唯一の良心なんだ。
だから、エルザと重なってしまった。守りたかった」
「公衆の面前での婚約破棄と関係がある?」
「ある……と言えば、ある」
ルシアンがパンを差し出すと、アランは笑って受け取り、かじる。
香ばしい香りが部屋に広がった。
「メアリーさんのパンはいい匂いがするな」
「そうだろ?」
ひと口食べたあと、アランの目からまた涙が落ちた。
「俺は、貴族には向かない。平民のアンナを愛してしまった。お金がなくても、庶民の暮らしのほうが性に合ってる。
セレーナは……高位貴族に嫁ぐために生まれたような人だ。俺にはもったいない。
それにモートン家は黒すぎる。彼女のような女性を、あんな家に迎えてはいけない」
「だから婚約破棄を?」
「そう。円満に解消したって、世間は女を責める。だから、俺が馬鹿を演じた。
悪徳令息がやらかしたって思わせることで、彼女を守りたかった。……それに」
「それに?」
「裁定院を巻き込めば、家の悪事を白日の下に出せるかもしれない」
ルシアンが小さく笑って肩をすくめる。
「治安監察局に通報じゃ駄目だったのか?」
「うちは名家だ。正攻法じゃ握りつぶされる。それに……時間も必要だった」
「時間?」
「イザベルを家から逃がすための。
俺は庶民の生活でも何でもできる。でも彼女には貴族令嬢としての立場や生活は守ってやりたいんだ。
……でも、何も思いつかない」
ルシアンはしばし黙り、アランの髪を見つめ、それから小さく笑った。
その手を彼の肩に置く。
「レイブンズ法務官を覚えてるか?」
アランが顔を上げる。
「深い青の瞳の人だよね。賢そうな人だった」
「賢いどころじゃない。彼は本物だ。俺たちの後ろにはあの人がいる。任せろ、きっとうまくいく」
アランは泣き腫らした目を細め、静かに笑った。
「結局、人任せじゃないか」
「適材適所ってやつさ」
三人は同時に笑い、部屋に小さな陽だまりのような空気が満ちた。
窓の外では、パン屋の鐘が鳴り、朝の街が本格的に目を覚ます。




