12 エルザの朝
朝の霧がまだ地を這うように漂っていた。
エルザは小さな裏庭に出て、縄に洗濯物を結びつけていく。
昨夜の雨が残した滴が、シャツの裾を伝い落ち、石畳にぽつりと弾けた。
洗い立ての石鹸の匂いと、遠くのパン屋から流れてくる焼きたての香りが混ざり合う。
背後の戸口から、しゃがれた声が飛んできた。
「エルザ、煙草買ってこい!」
「やだ! 自分で行けば?」
手を止めて振り返ると、母親が昨夜の装いのままドア枠に寄りかかっていた。
化粧の落ちかけた頬、乱れた髪。
夜花――そう呼ばれる女の、明け方の顔だった。
「産んで育ててやってるのに、生意気ね」
エルザが口を結んで黙ると、母親はわざとらしくため息をつく。
「……あーぁ、あんたが本当にモートンのおっさんの子どもだったら、いくらか金がもらえたのにね」
エルザの手から布が滑り落ちた。
「……モートン?」
「そうよ。あんたの真っ黒なその目、あのおっさんそっくりだろ?」
女は煙草の空箱を指先で弄びながら、口の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「……まさか、その話、外でしてたりしないよね?」
「夢を語るのは自由でしょ。――ほら、早く煙草買ってこい」
母親は小銭を放り投げるように投げつけた。
銅貨がエルザの肩を打ち、乾いた音を立てて石畳に転がる。
エルザは唇を噛んでそれを拾い上げた。
裸足の足裏に冷たい湿気が沁みる。
小さな拳を握りしめ、霧の濃い路地へ走り出した。
煙草屋の扉はまだ閉ざされ、看板の下には朝露が垂れている。
代わりに、路地の向こうで行商の少年が紙包みを肩からぶら下げて歩いていた。
刻み煙草の甘い匂いが、霧の中を漂ってくる。
――「煙草だよ! 一包、銅貨二枚!」
エルザは声のする方へ駆けていった。
「煙草ちょうだい!」
少年がエルザを見て、口端をニヤリと上げた。
「エルザじゃないか」
エルザは銅貨を差し出す。
「なぁ、お前、モートンの娘って本当か?」
「そんなの、あの人の妄言だよ。まさか信じてるの?」
「本当か嘘かなんてどうでもいいさ。嘘ばっかりだからな、この街は」
「早く煙草ちょうだい」
エルザが銅貨を彼の胸に押しつけると、少年は笑って紙包みを渡した。
「気をつけろよ。お前を探してる貴族のやつがいる」
「……そう」
エルザは煙草を受け取り、小銭を握らせるとすぐに踵を返した。
日が少し高くなり、石畳を白く照らし出す。
焼き上がったパンの香りが霧に混ざって漂ってきた。
エルザはパン屋の裏に回り、木箱に座ってポケットからトフィーを一つ取り出す。
パン屋のメアリーおばさんは、エルザのような子どもにも時々パンを分けてくれる。
裏口をじっと見つめ、トフィーを口に投げ入れた。
膝を抱えて、少しうとうとしかけた頃、ふいに影が差す。
はっとしたエルザは木箱から飛び降り、影から距離を取った。
霧の中に、シルクハットの男が立っている。
そのそばには、従者らしい二人の男。
「……なんか用?」
「見事な赤毛に黒い瞳。君がエルザだね?」
エルザは首を振った。
「知らない」
「こんなところまで足を運んだかいがあったようだ。連れて行こう。使えそうだ」
従者の男がエルザに手を伸ばす。
彼女は身を翻して逃げる。
「はは。君に恨みはないんだけどね、君の父親にはたくさん恨みがあるんだよ」
「……モートンのこと?」
男が静かに首を傾げる。
「そんなの、母さんの嘘だよ。私はモートンの娘なんかじゃない!」
「それは君が決めることじゃない。我々が決めることだ」
「何言ってんの?」
従者の男が再び手を伸ばした。
エルザは背を向けて走り出す。
途中で木片や石を拾って投げつける。
舌打ちしながらも、二人の男はしつこく追ってきた。
息が上がる。
いつもなら夜が明ける頃に眠る時間だ。
眠気と空腹で頭が回らない。
髪を掴まれ、滑るように転んだ。
男の一人がエルザを掴み上げると、肩に担ぎ上げる。
「やめてよ! 離して! 私はモートンの娘なんかじゃないんだってば!!」
足を振り回し、腕で男の背中を叩くが、腰に回された手はびくともしない。
「離してよ!」
「何をしているんだ!」
陽の光を受けて、淡い髪がきらりと揺らめいた。




