11 霧の中の少年たち
夜の七時を過ぎても、まだ空は薄明るかった。
霧の向こうに白く滲んだ月が浮かび、王立裁定院の廊下には湿った光が沈んでいる。
ピップは法務官室の戸締まりを終えると、暗い廊下を小走りで抜けていった。
守衛詰所の小窓から顔を出した職員が手を振る。
ピップもにこりと笑い、元気な声で返した。
「お先に失礼しまーす!」
その声は湿った廊下の奥まで弾んでいく。
白亜の建物を出ると、磨かれた黒いブーツが石畳を打った。
小門を抜けて立ち止まり、王都の街並みを眺める。
霧の中でガス灯がぼんやりと滲み、冷たい湿気を含んだ風が頬を撫でた。
彼の上司であり、後見人のエドガーは、すでに帰宅している。
今夜はその家に寄って、新しい法律の入門書を譲ってもらう予定だった。
ピップは斜めがけのバッグを揺らしながら、跳ねるように歩き出す。
湿った石畳が夕霧を返し、街の灯をぼんやり映していた。
やがて、ガス灯の下に小さな影を見つける。
不安げに立ちすくむ、ミストラッツの仲間――黒髪で俊足のトビーだった。
両手を擦り合わせながら、あたりをきょろきょろと見回している。
「トビー! トビーじゃないか!」
ピップのくるくるした髪が跳ねる。
駆け寄った彼に気づくと、トビーの顔がぱっと明るくなった。
「ピップ! 会えた! よかった!」
「久しぶりだね。みんな元気?」
「うん……でも、相談があるんだ」
みるみる顔を曇らせるトビーの手を取って、ピップは慌てて言った。
「ここじゃ寒い。行こう」
二人は王立自然公園まで駆け、入口近くのベンチに腰を下ろした。
昼間は噴水と花壇が美しい公園も、夜は霧に沈み、遠くのガス灯が薄青く揺れている。
冷たい霧が靴のつま先を濡らし、二人の肩を小さく震わせた。
「で、相談って?」
「実は……」
トビーは、エルザが貴族の男に襲われかけたことを話した。
しかも、その男は彼女の名前を知っていたという。
「兄貴は最近忙しくてな。だから、ピップが出てくるのを待ってたんだ」
「……そうか」
トビーの茶色の瞳は不安で揺れていた。
普段は明るい彼のそんな顔を見て、ピップは胸の奥がきゅっと痛んだ。
「俺も時間を見つけて、ミストラッツに顔を出すよ。
それに今夜、サーにも会うから、このこと話してみる」
トビーは小さく頷いた。
「ピップ……お前がいなくなってから、みんな……」
「トビー、君は足が早くて声も大きい。みんなを引っ張るのに向いてる」
ピップが微笑むと、トビーは寂しげに笑った。
ピップは読み書きができた。
貧民の出にしては礼儀も身についていて、だからこそエドガーに拾われた。
それをピップ自身もよくわかっている。
“ミストラッツを抜けてごめん”――そんな言葉は、傲慢に思えて言えなかった。
唇を噛み、けれど笑ってトビーの背を叩く。
「必ず行くから。じゃあね」
「……うん」
ベンチを降りて、ピップは駆け出した。
公園のアーチの下で一度だけ振り返る。
トビーの姿はもうなかった。
ミストラッツの少年は、霧の中を駆けて帰ったのだろう。
ピップも、エドガーの待つ下宿へと歩き出した。
ブラクストン街の二階、角部屋の扉を叩く。
静かに開いた扉の向こうでは、エドガーが穏やかな笑みを浮かべていた。
まだ青のウェストコートを身に着け、髪も整ったまま。
ピップを待っていたのだと、すぐにわかった。
「おかえり、ピップ」
「サー! ただいま!」
扉が閉まる。
外には闇が降り、月が白々と輝いていた。
冷たい霧の向こうで、街の灯がゆらりと瞬いた。




