10 灰の光の下で
エドガーが法務官室の窓を開けると、冷たい風が吹き込み、机上の書類の端がぱらりと揺れた。
外の石畳は白く光を返しているが、その輝きはどこか冷たい。
もうすぐ夏だというのに、霧はまだ街の低いところに滞り、彼の指先は季節の移ろいを知らぬように冷えている。
乱れた前髪を指で整え、窓枠にもたれながら、彼は片手の書類に目を落とした。
その視線の先では、法務官机の上にルシアンが我が物顔で腰かけている。
「アラン・モートンは、まぁ、そんなところだな」
琥珀の瞳が光を受けて鈍く揺れる。
「市井に女性を囲っているって噂は半分くらい本当だった。囲ってるっていうより、慎ましく一緒に暮らしてるって感じだ。
一方で、モートン家の当主と弟のほうが“毎日娼館通い”だ。女癖も悪いし、噂の大半はそっちの二人の話を混同してる。
人身売買に関わってるって話もあったが……これは、どうも信憑性が高い」
言い終えて、ルシアンはカップを手に取り、紅茶で喉を湿らせた。
「反吐が出るな」
エドガーは、静かに笑みを浮かべながら続きを引き取る。
「僕も金の流れを追ってみた。モートン家が経営する高級娼館はいくつもあるが、別名義の店舗にもモートン家の口座から金が動いている。
表向きは無関係を装っているが、資金の流れが不自然だ。何かの隠れ蓑だろう」
「人身売買のか?」
ルシアンの声に、エドガーは首を左右に振った。
背に結んだ黒髪が揺れ、群青の瞳が霧の光を映す。
「断言はできない」
「で、どうする?」
エドガーは小さく首を傾げ、唇の端だけで笑った。
「もし本当に人身売買なら、大事になる。――だからこそ、丁寧に掘り下げよう。」
「……“丁寧に”? お前の言うそれは、だいたい“危険を踏め”って意味だろ」
ルシアンが肩をすくめると、白い光が彼の短い金髪を照らした。
「お前は俺に無理難題を突きつけてる自覚はないのか?」
「僕が?」
「そうだ」
「そうか。僕は働きのいい調査官に恵まれたようだ。感謝しているよ」
エドガーが穏やかに笑うと、ルシアンは片手で顔を覆い、わざとらしくため息をついた。
「モートン家は叩けば埃しか出てこない。一旦置いて、ウィンダム家を調べよう」
「……」
ルシアンは眉をひそめ、口を閉ざした。
その表情には、明らかに納得の色がない。
「気が進まない?」
エドガーが書類を整えながら問いかけると、ルシアンは低く息を吐いた。
「進まない。あれだけ黒い連中を“置く”ってのが気に食わない。
人身売買の線だってまだ消えてないだろう。今動かなきゃ、証拠を消されるかもしれない」
エドガーは静かに腕を組み、群青の瞳を上げた。
「焦ってはだめだ。目的を見失ってはいけない。
本題は“アラン・モートンがなぜ公衆の面前で婚約破棄をしたのか”――そこにある。
モートン家の悪事を暴くのは目的じゃない。ウィンダム家も見なければ、全体が見えない」
ルシアンはしばらく黙っていたが、やがて深く息を吐き、視線を外した。
「……お前の言う“全体”ってやつは、いつも面倒だ」
「そうかもしれない」
エドガーは微笑を浮かべ、窓の外へ目をやった。
白い霧の向こうで鐘の音がくぐもって響く。
「市井の恋人と一緒になりたいだけなら、いくらでも手はあった。
侯爵家からの予算を懐に入れて駆け落ちでもすれば済んだ話だ。
それでも彼は、わざわざ人前で婚約破棄を選んだ――理由があるはずなんだ」
ルシアンは肩をすくめ、苦笑した。
「わかったよ、相棒。ウィンダム家を調べてくる」
「頼んだ」
エドガーは満足げに頷き、鍵付きの引き出しに書類をしまった。
そして、ウェストコートのポケットから金の懐中時計を取り出す。
「昼食だ。僕は職員食堂へ行くが、君は?」
「俺もご相伴に預かる」
「奢らないけど」
「はっはっは、そんな懐の狭い男だと思わなかった」
「なんとでも言えばいい。――行こう」
「へいへい」
二人は軽口を交わしながら、白く煙る廊下へと出ていった。
窓の外では、初夏の光の下で霧が揺れている。
冷たい風がカーテンを持ち上げ、紙の束をひらりとめくった。




