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1 霧都の破約

 隣に立つ、柔らかいミルクティー色の髪がさらりと揺れたかと思うと、彼はぼんやりと天上のフレスコ画を眺めていた。

 髪と同じ色の瞳に、シャンデリアの灯りが映り込み、まるでそのものが星のようだと思える。

 どこか、彼はそのまま消えてしまいそうに見えた。


 星の瞳がこちらを向く。

 添えられた手が一度だけぎゅっと握られたかと思えば、彼の唇が声にならない言葉を呟いたように見えた。


――ごめんね。


 彼はエスコートしていた手を離し、大きく息を吸う。

 そして、アルストリア王国王城の大舞踏室に響き渡るほどの大声で、はっきりと告げた。


「セレーナ・ウィンダム侯爵令嬢!

 私、アラン・モートンはお前のような性悪とは婚約破棄する! 金輪際私に近づくな!」


「……え?」


 会場が静まる。


「二度も言わせるな! この愚図が!」


 星の瞳に影が差す。彼の肩より少し長い髪に会場の光が反射し、美しく見せていた。


「わたくし達だけで決められる話ではありませんわ」


 星の瞳とわたくしの青い瞳が交わる。


「…………」

「わかりましたわ。名誉毀損として裁定院に審議をお願いしますわ。

 それではモートン侯爵令息様、裁定院でお会いしましょう」

「……分かった。受けて立とう」


 ざわめきが、波のように広がる。


◇◇◇


 王都オルドンは今日も霧に沈んでいた。


 濡れた石畳を磨かれた黒革のブーツが打つ。

 ダークブルーの長いフロックコートの裾が揺れ、背でゆったりと結われた長い黒髪は、朝の淡い光を受けて青く燃え立つ。

 法務官エドガー・レイブンズは、白亜の石造りの建物――王立裁定院へと向かっていた。


 遠くではガス灯の明かりが、まだ燻るように霧の中をゆらゆらと揺れている。


「悪徳令息がついに“淑女の鑑”に婚約破棄を突きつけたってさ」

「ついにご乱心か?」

「あぁ、悪い噂しか聞かないお坊ちゃんだったもんな」


 オルドンの霧には噂話が溶けていく。


 エドガーはそれを横目に王立裁定院の門を潜り、自身の法務官室へと入った。


 扉を開けると、紅茶の香りが静かに漂う。

 奥の窓から光が差し込み、整然と並ぶ書類棚と磨かれた机を淡く照らしていた。

 机の上には、白い陶器のカップがひとつ。


「おはよう、ピップ」

「サー、おはようございます!」


 雑用係の少年ピップが、くるくるの茶色い髪を揺らして頭を下げる。

 エドガーはその頭に軽く手を置き、窓際の席へと歩み寄った。

 ピップが用意したカップの紅茶を一口。

 琥珀色の液体が、まだ冷えた喉をゆっくりと温める。


 鍵付きの引き出しから書類束を取り出す。

 王国紋章の刻まれた封蝋が光を受け、淡く赤くきらめいた。




名誉毀損の申立書

提出日:アルデン暦948年 霧月16日

提出先:王立裁定院 民事第二区分


申立人 セレーナ・ウィンダム侯爵令嬢(代理人 ウィンダム侯爵家法務顧問)

被申立人 アラン・モートン侯爵令息(代理人 モートン侯爵家執事長)


去る霧月十五日、王城大舞踏室において、被申立人アラン・モートン侯爵令息は多数の貴族参列者の面前にて、

申立人セレーナ・ウィンダム侯爵令嬢に対し、以下の暴言を発し、公然とその名誉を著しく毀損いたしました。


> 「セレーナ・ウィンダム侯爵令嬢! 私、アラン・モートンはお前のような性悪とは婚約破棄する! 金輪際私に近づくな!」



当該発言は、婚約当事者としての礼節および貴族的名誉に著しく反し、

社交界全域において申立人の人格と家名を貶める結果を招きました。


ウィンダム家はこれを単なる口論とは見なさず、

王国法第百二十四条「公の場における名誉の侵害」および

同第百三十五条「婚約関係の不当な破棄」に基づき、正式な審議を求めます。


つきましては、裁定院の公正なる審理を経て、

被申立人の不当行為を明らかにし、名誉の回復および適切な裁定を請願いたします。


以上。


(ウィンダム侯爵家 印章)

(王立法務顧問 署名)




 エドガーの群青の瞳に、黄色みを帯びた朝の光が差し込む。

 指がそっと文字をなぞる。

 紙の質感、蝋の匂い、沈黙だけが室内を満たしていた。


 窓の外で、霧がゆっくりと薄れていく。

 王都の一日が始まる。

 そして、法務官エドガー・レイブンズの一日もまた、静かに幕を開けた。


 ――新たな波乱の予感を携えて。


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