第2話『狐火の葬列』
霧の谷に、青い火が揺れる。
それを人々は“神火”と呼んだ。
――神が魂を迎えに来る、祝福の灯だと。
だが、哭き女・沙耶は知っている。
神の名で語られる“祈り”の裏には、
いつも、人の欲と罪が潜んでいることを。
第2話『狐火の葬列』では、
葬列の夜に灯る青白い炎をめぐって、
一つの母子の悲劇が明らかになる。
泣いてはいけない母。
泣くことでしか祈れない女。
そして、燃えることでしか救われなかった少年。
信仰と祟りの境界で、
沙耶は再び“死者の声”に導かれていく。
狐火は、果たして神の光なのか。
それとも――焼き尽くされた魂の叫びなのか。
峠を越えて、再び霧が濃くなった。
白い靄が山道に漂い、木々の間で光が揺らぐ。
それはまるで、誰かがこちらを覗いているようだった。
哭き女・沙耶は、草履の底に残る泥を払いながら足を止めた。
風がないのに、鈴が鳴る。
腰に下げた哭き鈴――死者を呼ぶ音。
(……呼ばれてる。誰かが、まだ逝けずにいる)
「お嬢さん、そっちは危ねえよ」
背後から声がした。
振り返ると、荷車を引いた行商の男がいた。
粗末な衣をまといながらも、目の奥は妙に澄んでいる。
「この先は狭霧野って里だ。昼でも霧が晴れねえ。
昨日の晩、葬列があったんだが……妙な話があってな」
「妙な話?」
「棺が光ったそうだ。青い火が、ふっと燃えたんだと。
“神火”だって騒ぎだ。神が迎えに来た証らしいが……」
沙耶は無言で空を仰いだ。
霧の奥、確かに青白い光が瞬いた。
それは狐火のようで、どこか悲しい揺らめきだった。
「神火、ね……」
彼女は小さく呟いた。
(神の迎え、そんな言葉で――人の死を飾るの?)
狭霧野の里に着いたとき、日はすでに傾きかけていた。
霧が村全体を包み、人々は皆、顔を覆っている。
「哭き女様……ようこそお越しくださいました」
出迎えたのは、白い装束をまとった老婆。
村の巫女長だという。
「亡くなられたのは、里長様の息子・朔様。
神火の夜に亡くなられたのです。
その魂を、哭きで神へ導いていただきたい」
沙耶は頷いた。
「お引き受けいたします」
葬儀場には、まだ幼さの残る少年の遺体が横たえられていた。
白い布に包まれた顔。
その下から、火傷の痕が覗いている。
(……火で、焼かれた?)
夜、葬列が始まった。
篝火を手にした村人たちが列をなし、山道を登っていく。
太鼓の音が響き、鈴が重なる。
そのときだった。
――ぼうっ。
棺の上に、青白い炎が灯った。
まるで、夜を裂くような淡い光。
「神火じゃ! 神が迎えに来たぞ!」
歓声が上がる。
しかし沙耶は、ただ息を呑んでいた。
炎の中に、少年の顔が見えたのだ。
苦しみ、泣いて、助けを求める表情。
「……これは、祟りだ」
呟いた瞬間、風が吹き荒れ、篝火が次々に倒れた。
葬列は混乱に包まれ、青い炎だけが夜に漂った。
翌朝。
葬列の跡地は黒く焦げ、灰が散っていた。
沙耶はひとり、山道を進んだ。
霧の中に、古びた祠が見える。
そこには、二体の狐の石像。
片方は目が砕かれ、もう片方の目からは白く乾いた筋――まるで涙の跡。
「……神が泣いてる?」
背後から、静かな声がした。
「狐は神ではない。人の欲を喰う獣だ」
振り返ると、昨日の行商人が立っていた。
だが今日は法衣を纏い、手に護符を持っている。
「あなた……」
「名を鹿音という。陰陽師だ」
彼は微笑む。
「哭き女の沙耶、か。お前の涙は、ただの水ではないな。
狐火は神の怒りではない。誰かが、魂に火をつけたのだ」
「誰かが……?」
「そうだ。神を名乗る者ほど、人を焼く。
泣くことは許されても、真実を暴くことは許されぬ」
沙耶は拳を握った。
彼の言葉が、胸に痛く刺さる。
(……泣くだけでは、救えないの?)
夜、沙耶のもとに一人の女が訪れた。
白い頭巾を被り、手に焦げた木の札を抱いている。
「私は、朔の母です……」
「……真白様」
女は震える声で言った。
「朔は……神火で死んだのではありません。火に、くべられたのです」
沙耶の目が見開かれる。
「夫が、里長が……あの子を、神への供物にしたのです」
真白の頬を涙が伝う。
「この村では、疫が出ると子を焼いて神に捧げます。
朔は“神の印”を持つ子として選ばれたのです。
私が止められなかった……」
沙耶は言葉を失う。
(祟りではなく、殺し。
信仰ではなく、罪――)
「それでも私は祈りました。せめて魂だけは神のもとへ行けるように……
でも、あの子の魂は……まだ、泣いているんです」
沙耶は静かに頷いた。
「――泣く声が、聞こえます。
あなたの祈りが、あの子を縛っている」
真白は顔を覆い、嗚咽した。
夜。
山の祠の前に、沙耶は立っていた。
足元には白い粉――塩と灰。
祠の奥には、あの砕けた狐像。
鹿音が背後で見守る。
「哭き女よ。お前の涙は、燃える。
それでも哭くのか?」
「ええ」
沙耶は鈴を握る。
「泣くことでしか、届かない声がある」
鈴が鳴る。
哭き声が風に乗り、霧が揺れる。
青白い炎が地から立ち上がった。
その中から、焦げた布が舞い上がり、少年の影が現れる。
『……痛い……まだ、燃えてる……』
沙耶の目に涙が溢れる。
「朔。あなたの痛みを、教えて」
『……母さん、どうして……僕を……』
炎が膨らみ、祠が崩れ落ちる。
中から黒焦げの木の面が転がり出た。
それは――里長の印。
「神を祀るふりをして、罪を隠していた……!」
沙耶の叫びとともに涙が落ちた。
それは火に触れ、音もなく蒸発する。
瞬間、狐火が弾けるように消え、夜が静まり返る。
青い残光の中、朔の声が囁いた。
『……泣いてくれて、ありがとう……』
風が止まり、霧が晴れる。
ただひとつ、白い狐が祠の前に座っていた。
夜が明けた。
祠は燃え尽き、狐像の片目だけが淡く光を宿している。
村の広場では、里長が人々の前で跪いていた。
「我が罪を……神の名で隠していた。
あの子を、焼いたのは私だ」
その告白に、村人たちは息を呑む。
真白は沙耶に深く頭を下げた。
「あなたの涙が……あの子を救ってくれた」
沙耶は微笑んだが、瞳の奥は暗かった。
「救えたのかしら。
誰のための祈りだったのか、まだ分からない」
鹿音が隣で言った。
「哭き女――お前の涙は、神をも揺るがす。
だから人は恐れるのだ」
「……泣くことしかできないのに」
「泣くことが、罪だからだ」
彼の声が風に溶けた。
旅立ちの朝。
霧の谷に陽が差し込み、青白い光が一筋、山を照らしていた。
沙耶は峠の上で振り返る。
祠の跡に、白い狐が一匹座っている。
その目は優しく、どこか懐かしい。
「……朔?」
狐は小さく尾を振り、霧の中へ消えていった。
沙耶は涙を拭い、静かに歩き出した。
鈴が鳴る。風が哭く。
(泣くことが、罪でなければいいのに……)
その頃、都では新たな布令が下りていた。
――哭き女を禁ず。
――涙をもって祈る者、咎人とす。
風が走る。
沙耶の髪が揺れ、涙が頬を滑る。
「それでも私は哭く。
死者の声を聞くために――生きているから」
霧の彼方で、鈴が鳴った。
それは、祈りと赦しの音。
そして新たな“祟り”の幕開けを告げる音でもあった。
お読みいただき、ありがとうございます。
第2話『狐火の葬列』では、“信仰の裏にある人の罪”を描きました。
人々は時に、理解できぬ出来事を「神の業」と呼び、
自らの罪を祈りで覆い隠そうとします。
しかし――祈りが歪めば、それは「祟り」に変わる。
この物語の哭き女・沙耶は、
ただ涙を流すだけの存在ではありません。
彼女の涙は、真実を暴く“刃”でもあるのです。
火に焼かれた少年・朔の声は、
神ではなく母に、そして沙耶に届きました。
“泣いてくれてありがとう”――その言葉は、
祈りの果てにある「赦し」の象徴でもあります。
けれど同時に、沙耶は気づき始めます。
人が祈りを歪め、死者の声を封じる限り、
哭き女の涙は止まらないということに。
次回、第3話『骨占の祭』。
死者の骨を占いに使う禁忌の村で、
沙耶は“魂を閉じ込める者たち”と出会います。
――祈りと罪。救済と支配。
哭き女の旅は、より深く“人の心の闇”へと沈んでいく。




