第1話『首なしの花嫁』
古代の日本。
“哭き女”と呼ばれる女たちがいた。
彼女たちは、葬儀の場で涙を捧げる巫女――
その哭き声は、魂を鎮め、祟りを封じる祈りとされた。
けれど、人々はいつしか恐れるようになる。
「哭き女が泣けば、死が訪れる」
「その涙は、神をも揺るがす」
この物語の主人公・沙耶は、
そんな時代に生まれたひとりの哭き女。
彼女の涙は、死者の声を“聞く”力を宿していた。
――死者が語る真実。
――人が隠す罪。
――そして、涙に込められた祈りの意味。
これは、“哭く”しかなかった女が、
やがて“真実を見届ける者”へと変わっていく長い旅の始まり。
第一話の舞台は、山深き篠葉の里。
婚礼前夜に死んだ花嫁の葬儀で、
沙耶は初めて“死者の声”を聞く。
祟りなのか、それとも――人の罪なのか。
古の闇を裂く、涙のミステリーが幕を開ける。
山を越える風が、泣いていた。
まるでこの先にあるものを、悲しんでいるように。
哭き女――沙耶は、輿の中で静かに目を閉じていた。
薄紅の着物の袖が、微かに震えている。
「泣く」ことを生業とする彼女にとって、涙は祈りであり、呪いでもあった。
「……呼ばれたのは、篠葉の里だったか」
案内人の老女が呟く。
「はい。花嫁になるはずだった娘が、婚礼の前の晩に……」
風が強くなり、輿の簾がはためいた。
沙耶はふと、遠くの山の頂に薄い霧がかかるのを見た。
その中に、一瞬だけ――白い人影が見えた気がした。
(……また、誰かが呼んでる)
彼女の胸が、静かに疼いた。
泣くことしかできない自分。
けれどその涙が、死者の声を連れてくることを、沙耶は知っていた。
篠葉の村に入ると、空気が異様に重かった。
村人たちは、まるで風の通り道を避けるように、家の戸を閉めている。
「お待ちしておりました……哭き女様」
迎えに出た葬儀屋の老女が、震える手で合掌する。
だがその目は、恐れと期待が入り混じっていた。
案内された葬儀の間には、白い花が敷き詰められていた。
香の煙が静かに立ち上り、棺の前に婚礼の衣が置かれている。
「茜様の葬りです」
沙耶は膝をつき、棺の前で深く頭を垂れた。
蓋が開く――。
その瞬間、彼女の喉がひゅっと鳴った。
そこには花嫁衣装をまとった若い娘。
紅を引いた唇。白粉の残る頬。
だが――顔の上にあるべき“首”が、なかった。
「……これは……」
沙耶は息を飲んだ。
棺の隅には、白い布が丁寧に折りたたまれている。
それを見た老女が震える声で言った。
「首を……神に捧げたそうです。神主様がそう仰せで……」
周囲の空気が凍りつく。
村人たちは誰も口を開かない。
ただ、沙耶の耳にだけ、風の音が囁いた。
――泣いて……。泣いて、わたしを見つけて……。
沙耶の胸が強く脈打った。
“この娘はまだ、死を受け入れていない。”
夜。
篠葉の里の外れ、小さな社の前。
香炉の火がゆらりと灯る。
沙耶は祈祷鈴を持ち、深く息を吸い込む。
風が冷たい。空気が張りつめている。
「……哭きの儀を、始めます」
彼女の声が震える。
鈴の音が一度響き、次の瞬間、低く長い哭き声が闇に溶けた。
それは人の声であり、風の音でもある。
「うう……あぁぁぁ……」
彼女の涙が頬を伝い、香炉の火に落ちた。
その瞬間――棺の中の白布が、かすかに動いた。
「……茜……?」
誰もいないはずの空間で、声が答える。
『……かえして……わたしの……白……』
沙耶は凍りついた。
風が逆流するように吹き込み、香の煙が渦を巻く。
その中から、白布を引きずる“首のない影”が立ち上がった。
『……返して……私の……白布を……』
棺の周りにいた村人たちは叫び声を上げ、逃げ出した。
沙耶だけがその場に残り、震える声で問いかけた。
「あなたは……茜、なの?」
『……泣いて……もう一度……泣いて……』
その声に、涙が止まらなかった。
翌朝。
風は止んでいた。だが村は沈黙に包まれていた。
沙耶は神主・白栖の屋敷を訪れた。
男は険しい顔で迎える。
「哭き女が、何を知ろうというのだ。祟りは神の御業。人が口出すことではない」
「……神が娘の首を奪ったと、あなたは本気で思っているのですか?」
白栖の表情が一瞬だけ揺れた。
その指先には、血のついた白布の切れ端が握られていた。
「これは……?」
「供物だ。神に捧げた。茜は罪を犯した。婚礼の前に、穢れを宿したのだ」
沙耶は息を呑んだ。
「それを……あなたが奪ったのね」
沈黙。
神主は唇を噛み、顔をそむけた。
「……わたしは、守ったのだ。村を、己を……」
沙耶の涙が頬を伝う。
人の罪が、祟りを生む――。
それを“神の仕業”と呼んで誤魔化す。
彼女はもう、ただ泣くだけの女ではいられなかった。
夜。再び哭きの儀が始まる。
風が唸り、灯が揺れ、棺の蓋がひとりでに開く。
沙耶は白布を手に取り、茜の棺の前に立った。
「茜。これが、あなたの白布ね」
『……返して……それは、わたしの……』
声が重なり、白布が動いた。
その下から、首のない花嫁がゆっくりと立ち上がる。
血の匂い。髪の乱れ。白装束が夜風に舞う。
沙耶は震える手で白布を差し出した。
「もういいの。あなたの痛みは、もう……」
『泣いて……』
その言葉に、沙耶は膝をついた。
涙が止まらず、頬を伝って布に落ちる。
すると――白布が淡く光り、茜の影が静かに溶けていった。
棺の中には、穏やかな笑みを浮かべた花嫁の首。
白い花びらが風に散る。
葬儀は静かに終わった。
村人たちは「哭き女が祟りを鎮めた」と涙を流していた。
だが、沙耶はその夜、ひとりで焚き火の前に座っていた。
白布を見つめる。
その端に、見覚えのある花の文様があった。
(……これは……詠姉の……)
幼いころ、姉がいつも持っていた布と同じ模様。
まるで姉が、遠いところから見ていたような気がした。
「詠姉……。
泣いても、いいのかな……」
風が答えるように吹いた。
鈴の音が微かに鳴り、焚き火が小さく揺れる。
その時、闇の向こうで“誰か”の気配を感じた。
黒い衣をまとった影が、じっとこちらを見ている。
沙耶は立ち上がり、涙を拭った。
「……見ていたなら、好きにすればいい。私は、哭く」
影は何も言わず、霧の中へ消えた。
夜が明ける。
峠を越える風が、穏やかになっていた。
里の人々は眠りにつき、空には白い雲。
沙耶は旅支度を整え、腰の鈴を鳴らす。
「また、誰かが泣いている」
遠くから、村の使者が駆けてくる。
「哭き女様! 隣村で、また祟りが――!」
沙耶は静かに頷き、山道を歩き出した。
霧の中に差し込む朝の光が、彼女の涙を照らす。
「泣くことしかできぬのなら――その涙で真実を照らしてみせる」
風が鳴った。
それはもう、哭きではなかった。
まるで祈りのように、優しく響いていた。
――その夜、都では「哭き女狩り」の令が出された。
泣くことを許されぬ女たちの時代が、始まろうとしていた。
読んでくださり、ありがとうございます。
第1話『首なしの花嫁』では、沙耶という哭き女が初めて“死者の声”を聴く瞬間を描きました。
泣くこと――それは悲しみの象徴でありながら、
古代では「祈り」と「浄化」の行為でもありました。
彼女の涙は、単なる感情ではなく、
生と死の狭間にある“真実”を照らす光。
この物語では、一話ごとにひとつの死と対峙しながら、
人間の業や、信仰の歪み、愛のかたちを描いていきます。
そして少しずつ、沙耶自身の出生や、
“哭き女”という存在の秘密も明らかになっていくでしょう。
次回、第2話『狐火の葬列』。
夜の葬列を照らす、不吉な光――。
魂を導く火なのか、それとも祟りの印なのか。
沙耶は再び“涙の声”に導かれて、
死者の真実に触れていくことになります。
どうかこの旅を、あなたの心で見届けてください。
哭き女・沙耶の涙が、またひとつ、風に溶けるその日まで――。




